マルジェラを巡る冒険 #6

そうして伝えた靴の品番をもとに、百貨店から本社へ再度問い合わせたところ、靴の図面が見つかった。おかげで業者の方でも大まかなイメージを掴むことができたらしく、これなら何とか修理できそうだという。

そうして、あれよあれよと言う間に修繕は進んで、一週間後にはお直し完了しましたとの電話を頂いた。

私は出来上がった靴をみて、またしても息を呑んだ。
もともとのデザインで、ほつれていた部分がきれいに縫い合わされている。もとの縫い目と何ら変わりない仕上がりで。

私は出来上がりに大変満足し、何度も何度もお礼をいった。
いつも電話応対してくれた方が一時的に売り場を離れていたので、待たせてもらって直接お礼を述べることにした。
その間、対応して下さった販売員の方にも、
「こんなボロボロの靴のために、みなさん修理代以上の骨を折って下さって」と繰り返し礼を述べ、店員の方も、
「こんなに大事に履いていただいて、スタッフ一同うれしく思っています」と言って下さった。

まあ、客商売だからそんな風にいうのは当たり前と言えば当たり前だが、マルジェラの店員は概してとても感じがよい。
モード感ゼロの私が売り場へ行っても、嫌な顔をしないし、表面ばかりがにこやか、美辞麗句申し上げても心の中では見下している、といった風な人もいない。

そうこうするするうちに、待ち人来る。担当の方が売り場へ戻ってきた。
私は先程待たせてもらっている間、一人目の方に述べた口上を再びこちらの方へも述べた。
この靴がどんなスタイルにもよく合い、どれだけ使い勝手がよく気に入っていたか、そしてその思いを汲み取って下さって、最後まで根気よくつき合って下さったことに対して、
どれだけ言葉を尽くしても十分でないような気がし、しまいには貧乏な平民の青年が、貴族のお嬢さんに身分違いのプロポーズの言葉を延々と述べるような構図になってしまった。

今回なぜこのエッセイを書こうかと思ったのか、それは単にマルジェラやファッションのことを書きたかったからではない。いいものを作っている人達に尊敬の意を表したかった。独自の視点でユニークなクリエイションを行ってきたマルジェラや、それを世に送り出している会社に対してもそうだが、誰よりもまず、あの美しい靴を仕上げる技術を持った職人(イタリア製なので、おそらくイタリア人かな?)に敬意を表したい。この靴を眺める度、いつもそれを作った人の息づかいを感じずにはいられなかった。そして、私はこの靴との年月を通して、きちんとしたものを作っている人には、尊敬と存続の意をこめてきちんとお金を支払うべきだと思うに至った(どうぞ中間搾取されていませんように…)。

私見だが、服も靴も全般的にここ十年で目に見えて質が落ちているように思う。トップメゾンは屋号に相応しいクオリティを維持しているのかもしれないが(普段買わないので詳しいことは分からない…)、例えば百貨店の靴売り場や婦人服フロアを覗くと、それなりの品質を保持しつつも、パンツや上着に裏地がないとか、靴の底がペラペラとか、見えないところを省略していることが多い印象を持つ。消費動向も昔ほど活発ではないし、見栄えをよくしつつ削れるところは削って手頃な価格を維持する…という側面は理解できる。今日は手頃な値段の製品でも、全体としてデザインのレベルは上がっているから、街の人々を見ても、みなそれなりにきまっている。だけど、お店で服を手に取ると、服の品質や機能としてはお粗末なものが多い。

今の大学生や若い世代は、服にお金をかけること自体にあまり価値を感じていないようだし、手抜きされた手の届きやすい服そのものを批判・否定するつもりはない。ただ、そういう服が市場を席巻し、割合が高なりすぎると、今度はきちんとしたものを欲しいと思っても、もはや売り場に選択肢として用意されていない。しっかりした服や靴を作る技術を持った人がいなくなっていくのでは、と個人的な危惧がある。

少し前までは靴でも服でも、多少汚れたり古くなったりすれば「また買えばいいや」と思っていたし、世間もそんな風潮だったと思う。でも気付けば、以前と同じ品質のものが市場に出回っていないから、今は手持ちのものをどれだけ長持ちさせるか、ということを真剣に考えている。

いいものを作ろうと思えば、それなりの労力がいる。技術もいるし、時間もかかる。そして良心がいる。
だから、見栄えのいいものを、安く、早いサイクルで、という風のとは、また別の視点があってもいいように思う。  

おしまい

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