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アントニオ猪木とあん時の滾り

「よお、あの猪木がついに引退だってよ。」

1998年春。

愛知県豊田市のBOOKOFF。
大学生となって
愛知で初めて
アルバイトにありついた職場で
古本の研磨作業をしていたボクは、パチンコ屋のバイトと兼業しているフリーターの先輩に、そう話しかけられた。
「へええー。そうなんですか」
(富山はテレビ朝日系列放映されてないからさ、新日本プロレスのこと言われても分かんないんだよっ)
と思いつつそっけなく返す。
「ええっ!引退だよっ!なんとも思わないの?」
キラキラした目でこっちを見つめる先輩に対し、
「ま、まあショックですよね」
(だーかーら、知らねーんだって)
と思いつつも返答し、これ以上自分の知識のテリトリーに入ってもらいたく
ない思いで、目の前のマンガ本の日焼けした側面の研磨作業に集中した。

話が分からなくて
ちょっと悔しかった。

とりあえず、愛知はテレビ朝日系列入ってるから、毎週木曜日深夜に放送されていた「リングの魂」とその後の「新日本プロレス」をなんとなく見入るようになった。
そこに流れているのは韓流ドラマ並みのものすごく臭いストーリー。対戦相手のドンフライが挑発しているとか、猪木陣営がどうだとか、引退試合に向けてボルテージが高まるような魑魅魍魎の物語が展開されていた。

なんか面白そーじゃん。

プロレスに全く興味のなかったボクが、その引退試合までの限定期間で知識を吸収し始め、そこから先輩の話についていけるようになった。
まあ。でも。やっぱり、
あんまり深くはいかないんだよね。
引退試合も、リアルタイムで放映されていたかどうか覚えてないけど、再放送でみたのは覚えている程度。
ただ、そこら辺でアントニオ猪木って人はカリスマなんだなあって理解し始めた。

2001年3月。

大学の卒業式を迎え、記憶がなくなるほど飲みさくり、吐きまくり、元嫁のアパートに担ぎ込まれ、二日酔いの面持ちのまま目が覚めると誰もおらず、さっさと富山に帰る準備をしていた時に、バイト先の後輩から来た電子メール。

「モニカさんの今後の将来を願って、詩を送ります!」
大学バイト時代に一番仲良くなった後輩から送られてきたのは、アントニオ猪木の引退試合で披露された「道」だった。

あー、ネタだよねこれ、って思いながらも

ボクは泣きながら、おんぼろスターレットを名神自動車道経由で北陸道から富山に向けて走らせ、来たる未来への不安と期待を胸にして突き進んだ。

2001年の年末。大晦日。

その日、新聞社の新入社員で大晦日の当直に確定していたボクは、
新聞の降版後、ボブ・サップと曙の格闘技があっけなく終わったのもあり、
日本テレビ系列のアントニオ猪木プロデュースの安田なんたらとジェロムレバンナの試合を見ていた、
実況の古館が安田なんたらの紹介を
「借金に負けた、CRパチンコバカボンでも負けた!」
とかなんとか言って煽って紹介したのを見て、先輩記者と「パチンコバカボンてwww」って言いながら、どうせ負けるやろと笑いながら見ていた。
そしたら、安田なんたらが、
ミッキーロークばりの猫パンチで
当時K-1最強ファイターのジェロムレバンナをKOしていた。

いやいやいや、
それ八百長やろ
とは思いながらも
ダメ人間が一瞬にしてヒーローになった
安田なんたらにあこがれを抱いた。
と同時にこのようなエンターテイメントを生み出しているアントニオ猪木ってやっぱカリスマだよな、って思い直した。

2002年冬。

趣味、というか朝も夜もない新聞社業務のストレス発散のはけ口となっていたパチンコ・パチスロ台に
アントニオ猪木という名のパチスロ機
というのが出た。

休日に呼び出しのある警察・司法担当記者だったボクの趣味、というか暇つぶしは、事件現場直行のために金を捨てる覚悟ならすぐ辞めれるパチンコ・パチスロだった。新台が出る度にパチンコ屋に出向き、半端ない額をむしり取られて帰るという日々を繰り返していた。
そんな中で出たのがアントニオ猪木とタイアップしたパチスロ機である。
そのリリースくらいからパチスロの出率が社会問題となって規制が入り出したのだが、
爆裂性能も規制前と遜色ない。
パチスロ「獣王」ばりに
ATが30連荘とかする仕様だという触れ込みだった。
喜び勇んで打ったが、
一度も勝ったこともなく
「闘魂チャンス!」
という声をパチンコホールに響かせたことはない。
ただ、
ただ
ワンチャンを狙ってよく散財した。

そこからは形を変え名前を変え
「猪木」のパチンコやスロットがリリースされたが、

ボクは一度も勝ったことはないのは変わらなかった。

そして、ボクの人生に
なんだかんだ存在していた「猪木」って人がいなくなった。

昭和って、こうやって終わりゆくんだなあ、と思い起こさせる事象だった。

何かをして世相を斬ろうかとは思わないけども、

在りし日の猪木のVTRの様子は、

コンプライアンスの薄さによって表出される

平成中期の勢いと底知れぬ熱情が

ふつふつと沸きあがっているように見えた。


オレの言いたいことは、

40、50、60代に対する一つのアイコンが世を去ったんだぞ!

もっとみんな自分の出来事にして取り上げて哀悼しようよ!

行動とか表明とかめんどくさくなる世代もしれんけど。

と、いうことです。オレは別にプロレスマニアでもないけど、当時のサブカルチャーの一端は猪木が担ってたと思います。

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