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モニカ、もの書き再開したってよ


「お前は絶対に、もの書きになったほうがいいって!」
2004年6月。
新聞社を辞める際のあいさつ回りで、当時の学芸部長から言われた一言。
そのつもりでは、あった。
辞めた直後は大手新聞社に転籍しようとしていたが、激務からの解放感でモチベーションが上がらない。そもそも高学歴が多数を占める新聞という業界で、Fランク大卒のオレが採用されたのは奇跡だと自覚していた。
仲の良かった他社の記者の紹介で中途採用試験を受けたが、ろくにテストの小論文も書くことができずに不採用。そのうちに富山を離れられなくなる事情も重なり、結果その道には進まず、家業の旅行業を継ぐ形で今に至っている。

そして時は過ぎ、2023年3月。
旅行に関連した観光系のwebライターとして、約20年ぶりにもの書きの仕事を始めることとなった。とはいっても、入稿は月1本ペース。趣味に近い形ではあるが、それなりの対価を得て取材し、写真を撮り(スマホではあるが)、見出しやレイアウトの構成、そして書いた原稿をさらに練り上げる推敲と校正など、記事内容を考えて形にしていく作業は、オレの奥底に眠っていた記者としての細胞を刺激し始めた。その細胞は分裂し増殖し続け、当時と変わらない熱量を生み出し始めている。

原稿を出し始めライターの仕事にも慣れてきたので、ライターをするに至る背景というか、新聞社入社の過去というものを振り返ってみたい。

コロナ禍で見つめ直したオレの杵柄

webライターをやってみようと思い始めたのは、コロナが発生して仕事が蒸発した2020年のことで、このnoteを始めたきっかけでもある。その当時、旅行会社は何もできず、ただひたすら家に閉じこもって寝るだけを繰り返す日々。殺人ウイルスだと散々報道され、平日の晴れた昼間に一人も歩いていない異常な日常の中、暗澹とした気分のまま充分過ぎるほど人生を振り返った。その中で、昔取った杵柄である新聞記者のスキルを活かせないかと考えだす。

元記者というのはやっかみ、妬まれることがよくあり、オレ元来のいじられる性格から、まともに折り合わずバカにされることが続いた。
世に出る原稿書いてもいないヤツに「たいした文書けないじゃん」と言われたり、知識勝負しようとするヤツに「そんなんも知らんの?元記者のくせに」とけなされたり。「あほくせえ…」。特殊な業種であったため、共感する人はほとんどいない。傷つき疲れたのでそのうち表に出さなくなった。ライター業に進んでいれば、そんな世界には住んではいなかったのだと思うけど。

未来が見えないコロナ禍で、誰も先は分からない。よく分からない気を回して周りの顔色うかがっても、責任取る人なんていない。結局は自分の人生。好きなことをやろう考え、noteを介して自分の文体で書きたいと思ったテーマを表現し始めた。

目立って表現したいからマスコミ目指す

そもそも、子どものころから人前で表現することが好きだった。目立つことが好きだった。学級代表になってみたり、パンクロックバンドを組んでボーカルをやってみたり。

高校3年で進路について考え出した時、たまたまつけたテレビで紛争地域をレポートする記者に釘付けになった。日に焼けた肌をさらけだし、着のみ着のままでマイクを手にしている。ボロボロの様子だが、精悍とした顔つきが緊迫感に満ちており、持論を交えながら最新情報をお茶の間に届ける姿は、当時飛ぶ鳥落とす勢いで人気だった反町隆史よりもカッコよく映った。

「マスコミってのは、目立って表現できる一番の職種じゃないか?」。その考えが胸にストンと落ち、勢いで指定校推薦枠で残っていたマスコミ系の学部がある大学を志願。田舎のキャンパスで他に希望者がいなかったこともあり、あっさりと進学が決まった。

晴れて大学生に。かといって、まじめに大学生活を送っている訳ではなく、単位ギリギリでパチンコ屋に入り浸り、バイト代もつぎ込んで生活資金に困窮しつつも、社会人になるまでのモラトリアムを楽しむ毎日を送る。

打ちのめされた新聞社の一般常識試験

大学4年。高校時の熱い思いはどこへやら。一応マスコミ系の学部なので記念受験で地方新聞社を受けようと、石川の第一紙にエントリーシートを送ると通過し、一次試験へ進むことができた。

金沢市香林坊に建つ、ラスボスの伏魔殿のような白亜のビル。気後れしながら入場すると、頭の良さそうな就活生約250人が一同に座り、参考書やら復習ノートやらを熱心に見ている。場違いと感じ、不安と怖さで腹の調子が悪くなる。そんな事情などつゆ知らず、一般常識の筆記試験は待ったなしで開始。問題がハイレベルなのもあるが、自分自身の勉強不足で全く解けない。この新聞社の受験者なら常識であろう、石川県の市町村数も分からない。

メタメタに打ちのめされ、心折れたオレは試験終了後、そっと伏魔殿を後にし、金沢駅までの道をとぼとぼと歩く。

逃亡。退却。敗走。腹の調子も悪化の一途をたどる。昨日食べた焼きそばUFOのスパイシーな新作が原因に違いない。我慢できず名鉄エムザのトイレに駆け込み、脂汗をかきながら用を足しているうちに、気分が落ち着き始めた。「午後からは小論文と英語だっけ。英語はさておき、小論文は予習復習関係ないから、起承転結で書けばあとは出たとこ勝負じゃねえか」。中途半端よりも当たって砕けろという思いを新たにし、会場に戻る。

神の啓示 小論文のテーマ「ふるさと」

午後の小論文のテーマは「ふるさと」だった。その刹那、神の啓示のように正解の道しるべがオレの脳内に示されたのだ。

…オレは当時、漫画家小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」のファンで、関連書籍を全て読破していた。その話の一つに長野オリンピックの閉会式を批判する下りがあり、それをふと思い出したのだ。閉会式では、萩本欣一が「ふるさとは?」と観客に呼びかけると、観客は「地球」と答える。この様子をえせヒューマニズムだと小林氏は批判していた。オレも「ああ、その通りだな。ふるさとを地球と定義すると、ふるさと自体無くなるじゃん」と違和感を感じていた。

論文ではその閉会式のシーンを起点として、自己流に「ふるさと」とは何ぞや、とかなり右っぽく論じて終了。何かに憑りつかれたように筆が進み、見直すと自分の文章ではないほど起承転結が収まっていた。続いての英語は大学時代にパンクロックをひたすらに聴き、歌詞を暗記するほど好きだったことが功を奏し、そこそこ理解し、そこそこ回答して終了した。

試験を終えた後、オレはこう思った。
「小論文をまともに評価してもらえれば、一次は突破できる…はず!」
それほどまでに論文に手ごたえを感じていたのだ。会心の一撃というか、クリティカルヒットというか。

本命落選の中 届いた二次試験通知

試験結果を待つうち、並行して就職活動を進めていた本命の広告代理店は、最終面接まで進んだのちに不採用。もう一つの求人広告会社も同じく、形式ばった様式の「今後の活動を祈念してます」という文書が送られてきた。

「やばい。就職難民になってしまう」。焦り始めるオレ。就職氷河期真っ只中の2000年、希望に叶う職種なんてほぼない。大学の就職課にも通いつつ職を探し、北陸三県で安定してそうな企業だという理由だけで福井県の会社に資料請求をするなどしてあがく。

そんなある日、アパートのポストに一次試験の新聞社から封筒が届いていた。中身が薄い、どうせペラ紙一枚の「祈念してます」文書だろう、と封を開けると、そこに書いてあったのは「二次試験のお知らせ」だった。

「ええっ。まじ?通ったの?」
興奮を抑えきれず、嬉しさで飛び上がるオレ。
いや、まだだ。最終面接までいかないと、捕らぬ狸の皮算用てやつだ。希望を持ったのと、気が引き締まったとの両方の心持ちで、オレはその簡単に書かれたペラ紙を穴が開くくらいに何度も見直した。

圧迫面接で発揮した「うんのよさ」

そして二次試験へ挑む。二次試験は受験者5人に面接官3人の集団面接だった。何グループ目だったか記憶にはないが、発表順はそのグループ内の4番目となっていた。

面接会場に入って着席。すると司会者から受験者全員に質問があった。

「最近の印象に残っているニュースと、それに対する自分の考えを述べて下さい」

すぐに1番目の受験者から回答を求められる。その受験者は初っ端の緊張もあり、どぎまぎしながら「最近起きた九州のバスジャック事件が印象に残っています。連日報道されてすごいなあと思いました」と答える。

すると、面接官から高圧的な詰問が襲い掛かる。
「すごいなあ、じゃないんだよ!どう思ったか聞いてるんだよ!」

受験者はその怒号に面食らってどぎまぎとしか話せず、いつの間にか質問は次の受験者へ。次の人もその波にのまれ溺れてしまったような回答をし、面接官からきつく詰められる。

的を得た回答をしないと首をはねられる。オレはそう思った。4番目という幸運くじを引き当てたこともあり、冷静にシミュレーションしながら備える。

そして、オレの番。
「僕も印象に残っているのは九州のバスジャックです」と切り出し、
「僕は報道の仕方がおかしいと思います。マスコミは『キレる未成年』みたいな枠組みで、僕ら若い世代全てをまるで犯罪者のように扱うじゃないですか。若者が犯罪に手を染めるのは昔からあるのに、なぜそうなるのか理解できません。富山の地方紙では、過去に若者のオヤジ狩りがあった時、なぜ犯罪に至ったのかという検証の記事を書いていました。地方は都会より事件が少ない分、その記事を書けば犯罪抑止につなげれるのではないですか。犯罪抑止記事を増やし、若者に安易にレッテル張りするような報道はやめて欲しい」と回答した。

これは冷静に考えたのちの、自分の素の思い。テレビは連日バスジャック事件を、当時若者世代で流行してたインターネット掲示板「2ちゃんねる」に原因があるかのように、おもしろおかしく報道していた。掲示板のコメントをナレーション付きで放送する意味なんてなく、コメントを読むその声が、掲示板を陰気臭くて犯罪の温床だというイメージを与えていく。
そこから派生したのちの若者批判である。何で「最近の若者は~」とカテゴライズされるんじゃ、あたおかな人がやってるだけじゃねーかよ、そんなのどの時代にもおるやろ。年齢も関係ない。お茶をもじったセンスのないハンドルネームの報道を見るたびにイライラしていた。

その回答に対して、面接官は圧迫することもなくオレの番は終了。
手ごたえがあったのかどうか分らぬまま会場を後にした。

数日後、アパートのポストに「最終面接の案内」が投函されていた。

情熱を語った最終面接

その最終面接の案内には、面接後、身体検査を実施すると記されていた。
これはサッカープロ契約前のメディカルチェックと同じじゃん。と、いうことは採用ほぼ確定と捉えていいのか。

…いやいやいや、オレ有名大じゃねーよ。ウソだろ。夢だろ。

なんて考えつつも、胸に溶け込ませるようにその案内を大事に抱える。浮わついた着いた気持ちを抑えるため、ふらふらと近くのパチンコ店「Aパン梅坪店」へ向かい、パチスロ「ルパン三世」で3万円擦り、さらにフラフラになって帰宅。

「オレが堅いと思っていた広告代理店がダメで、記念受験だと思っていた新聞社が最終まで進むなんて」夢なのか現実なのか、パチスロで痛手を負って金がないのだから多分現実だ。浪費でしかない投資を正当化して我に返った。

そして、最終面接の日を迎える。社長ら役員を含めた5対5の集団面接だった。オレの順番はグループ内の3番目で、ここでも状況把握の時間が与えられる幸運な順番だった。

面接では、今までの試験結果を元に面接官から質問される。キミの小論文はどうで、それはどんな思いで書いたのか、などだ。他の受験者は最後まで残っていることもあり、二次面接のようなどぎまぎ感はなく、言葉に詰まりながらもしっかりと回答する。

いよいよオレの番。
1人の面接官から開口一番、出身高校について問われる。
「キミは富山南高校なんだね。優秀なんだね」
いやいやいや…。優秀と言えるのは南でも高岡南高校であり、富山南高校はザ・中流で私立大進学8割の普通科ですよ。石川県の人は富山県の高校偏差値分からんのか。と思いつつも「いえいえ、そうではありません」と答える。

おお、なんか優しくて雰囲気いいじゃん。と思ったのもつかの間、他の面接官からすぐさま、「キミの小論文のテーマは『ふるさとと愛国心』だと理解したが、キミとって愛社精神とは何だね?」と問われる。

会社にも入ってないのに愛社精神?

頭の中がクエスチョンの記号で埋められ、そこで初めてどぎまぎし、自分でも何を言ったか覚えていないが、全く見当外れの回答をする。

いらだつ面接官。

ああ、終わった。意気消沈して頭を垂れそうなその瞬間、初めの面接官から質問が飛ぶ。
「キミはウチのほかに広告代理店を受けたとあるが、結果はどうだったのかね?」
「最終面接まで行きましたが、不採用でした」
「もう一つの求人広告会社はどうだったのかね?」
「それも不採用でした」
なんだよ、傷口にさらに塩を塗るのかよ。少しイラっとしたら頭の混乱が落ち着いてきた。
時間もかなり経過している。これで終わりだろう、と思った矢先、愛社精神を問われた面接官から最後の質問があった。

「では、なぜ不採用になったと思うのかね」

「それは…」と前置きして少々の時間を稼ぎつつ、オレは腹の奥底から湧き出て来た思いを発した。

「会社に入りたい、という、自分の『情熱』が足りなかったのだと思います」

その回答で自分の番は終了。その後、身体検査を受けるが、他の受験者の与太話にもつきあわず、まっすぐに帰宅した。

帰宅して振り返る。最後のオレの発言は、自分でも納得いくものだった。他の会社が落ちたのは、入社した未来を想像していないからだった。新聞社は高嶺の花、何が何でもしがみついて入社したいという思いが、面接をクリアしていくにつれて募り、新聞社に恋焦がれるようになり、自然と出たのだと感じる。

その想いの原点は、高校時のマスコミに感じた初期衝動。衝動からマスコミへの捉え方が変わり、一つのニュースに対して自分の考えを持つようになった。大学時代の日常生活で流れるニュースに対し、考えるクセをつけてきた結果、高校からの思考を着実に育んでいたのだ。就職氷河期のカテゴライズに流され、不真面目な学生生活に負い目を感じ、最初からあきらめてしまっていただけで、自分のアイデンティティはとうに確立していた。二次面接の回答も、自然と出て来たものだった。

「これで受からんだら、あの新聞社は学歴差別だわ」
面接の記憶を反芻するたびに、非の打ち所がない面接だったと自信を深め、その結論に至っていた。

はたして、面接から一週間後に送られてきた郵便は、

「あなた様の採用を決定いたしました」

との短いながらも、ずしり、と重たい通知だった。











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