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質問の際に選別されずに声かけられる心地よさ

イタリアに来て少し経った頃に気が付いたことのひとつに、ここにいる人は、街中やその辺で何か尋ねたい時に、それほど人を選別しないようだ、ということがあげられる。

たとえば、時計がなくて時間を知りたい時、電車の時刻を知りたい時、電車の行き先が合っているか確認したい時、下車予定の駅に停まるか確認したい時、道を尋ねたい時、探している場所はどこにあるか知りたい時、スーパーで欲しいものがどこにあるか知りたい時……等々、特にこだわりなくその場にいる人に躊躇なく尋ねるようだ。

これが、日本にいる日本の方だったら、前述のような時に、見た目で外国人だと分かる方に、そういった質問で話しかけないような気がする。(自分の場合も含めてだが) もちろん、その場にその外国人の方しかいないとか、その方が係員・スタッフなどで配置されているような場合や、尋ねる側があえて外国人の方に話しかけたいという場合はまた別の話だけれど。

後ろから声をかけて、顔見たら外国人だったので、「もしかしたら知らないかも?」と瞬時に思ったような場合には、「あ、ごめんなさい。大丈夫です!」と応えを待たずに他の方に声をかけることもあるし、返答は聞いたものの、「それで合ってる?」と思う場合には、やはり他の方に同じ質問を投げかけているという場合もなきにしもあらずだが、話しかける前には、あまり気にしないようだ。
日本から父が来ていた際に、やはり道でわたしに場所を尋ねる人がいるのを目の当たりにして、「こちらの人は、外国人だとかあまり気にしないんだねぇ~」と、軽く驚いたり、感心したりした。

そして、ごくたまにミラノに行くと、人が多いこともあるせいか、たった数時間しかいないのにもかかわらず、通りすがりの人数人に尋ねられることもある。
ある時は、スペイン人の旅行者グループのひとりの女性に「スペイン語を話せる?」と尋ねられて、「いえ、話せません。イタリア語なら話しますが」と応えたにもかかわらず、そのままスペイン語で話し続けられて、スカラ座はどこか聞かれた。それは、「スカラ」という単語でそう聞かれていると判断したのだが、ちょうどスカラ座の前の広場にいたので、「それです!」と指を差して教えればよかったのだけれど。

こういう話をすると、わたしが、尋ねたら教えてくれそうな親切な雰囲気を醸し出しているからではないかとか、地元の人のように見えるからではないかと言ってくださる方もいらっしゃるのだが、日本からイタリアに旅行でいらしたばかりで、外国語はほとんど分かりませんという方々も、トリノの街中で道を聞かれたと言われていたので、あまり選別しない人が多いように思われる。

街中で知らない人に質問されて、なかには、それは声をかけるきっかけで、実は騙そうという人もいるかもしれないので、多少の警戒は必要なのだろうけれど、幸いなことに、わたしの経験では本当に何かを尋ねたかった人が、イタリア人か外国人か、地元民か他所からの人かと選別することなく声をかけてきたケースがほとんどだった。

このことは、イタリアの日常生活の中で、ほんの少し心温まることのひとつと言える。

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