見出し画像

読んでない (月曜日の図書館143)

偉そうに図書館で働いている、などと言ってはいるが、実は本はあまり読んでいない。特に小説は年に10冊も読んでいないのではないかと思う。だからわたしの小説に対する認識は、図書館で働きはじめる前のまま、あまりアップデートされていない。

ダヴィンチやブルータスその他の雑誌で各界の著名人がおすすめしている小説は、たいてい読んだことがない。特集が組まれるたびに反省して、読みたいリストを作るのだが、作るだけでいっこうに読む気配がない。

芥川賞や直木賞を取った作品もほぼ読まない。賞を取っていない作品の中にも優れたものはたくさんある、と言い訳してみるが、たとえば?と聞かれたらOSが古すぎてすぐには対応できない。ちなみに最近まで直木三十五は人名ではなくヤクルト1000の仲間だと思っていた。

どうせ面白いのだろうから、わたしひとりくらい見張ってなくてもいいだろう、という油断もある。世の中には書店や図書館や出版社の文芸担当によるすばらしいポップや紹介文があふれている。それを読むだけでもう胸がいっぱい、深い満足感に包まれるのだ。

担当になった仕事の内容にもよるかもしれない。たとえばT野さんは長いこと児童担当をやっていたし、今もずっと勉強会に参加しているから、児童文学に関する知識は致死量だが、引退するまで一般書を読む時間はないだろう、と言う。

富士日記をいつか読むのが夢なの、と遠い目をしていた。

わたしは現在レファレンス担当、利用者からの相談に応じて調べものを手伝うのが仕事だ。それはひとつの分野に特化するというより、どんな質問がきても倦まずに対応できるよう、あらゆる方面に興味関心を持つことが求められる。

浅く、広く。これがレファレンス担当の鉄則だ。

だからあるときは変形菌の性質に驚いたかと思うと、薔薇の図鑑をうっとり眺め、排水管の歴史に思いをはせる。なぜ生物は死ぬのかという哲学的な問いに取り組むこともあれば、100年前の国鉄の駅で売られていた駅弁の内容を調べたりもする。

つまり脈略がない。決まった方向性もない。さっきまで存在さえ知らなかったようなものに心を奪われ、ページをめくる。

ここから深掘りをしはじめたら、その道の専門家としてのキャリアをスタートできるかもしれないが、あくまで知識はざっくり、上澄みをなめる程度で終わる。昔の駅弁の包み紙かわいいなあ、と思ったとて、そこから収集家になるわけでもなく、全国の駅弁を食べ歩きに出かけることもない。

ときどき、こんなにも知識を「浅めて」ばかりで大丈夫なのだろうかと不安になる。好きなセリフは?とか得られた教訓は?などと聞かれても、ただただ面白かったという以上の感想は、特に浮かんでこない。他の本好きたちはせっせと知識を蓄え、それを仕事に生かしているのに、わたしはといえば、うちの排水管は外から見えないようになっていて何字型か確かめられないなあと残念がっているだけである。

いっそ歩く百科事典を目指すのはどうだろう。百科、は言いすぎなので、ポケット事典くらいの、軽やかさと、とっつきやすさが売り。

利用者の方がその分野に関する知識が上、というのもレファレンスカウンターではよくあることだ。知識の量を利用者と張り合うより、どんな資料を見たらいいか、その調べ方のバリエーションの多さで貢献した方が喜ばれる。

そもそも仕事と趣味がごっちゃになるのもよくない。日ごろの読書が仕事に生きればラッキーだが、仕事のための読書をする必要はない。好きなものを、好きなだけ読めばいいのだ。

え、だったら小説も読めばいいのにって?

だからそれはもう他の人が読んでくれているから、わたしは安心して、変形菌の本を読みます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?