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僕の考える性別性について

考え始めると、なんだか深くに沈み込んでしまうような、性別やジェンダーの話。あ、でもこの記事は軽いです。たぶん。

最近、中性的と呼ばれるような容姿の人が増えてきましたが、容姿が変化するためには気持ちの部分での納得が増えてきた証拠だと思っています。

どういうことかと言うと、自分がそうであるという自覚はそれこそ幼い頃からある方もいるのですが、"中性的"という言葉を用意したり、こんな容姿や発言、行動が中性的ですよ、みたいに提示してくれるメディアがあったりして、社会的に認知(容認とは全く異なるものです)が進んでいるのではないかと思います。いまさら書くことでもないくらい、新しくはありませんが。

以前、「僕は女子力が高い」といった内容の記事を書きました。そんな僕が、性別のことを意識し、また解放されたときのことを書きたいと思います。

泣いちゃいけないの?

保育園から小学生の間、僕はよく泣いていました。転んで泣いて、怒られて泣いて、嘘つかれて泣いて、泣かれて泣いて、寂しくて泣いて、怖くて泣いて。

それだけ泣いていれば、泣き虫と呼ばれてもしかたありません。当時の大人の多くは、そんな僕のことを「弱い男の子」だと表現していました。隣の女子が泣いていても「どうしたの?大丈夫?」と聞かれるのに、僕が泣いていても「泣かないの!男の子でしょ!」と言われ、またそれが悔しくて泣いていました。

大人になってから、そんな子ども時代を振り返ったとき、あのときは感情のコントロールが上手くできていなかったのだと考えたことがありました。

怒って大きな声を出す、急に何も話さなくなる、そんな変化と同じように、僕は涙を流していたのです。やがてそれは、こうして言葉にして記録してみたり、本を読むことで追体験した感情を重ねたりして、泣くことで表現していた気持ちの高ぶりを理解できるようになっていったのです。

男子校の気楽さ

高校は家から近いという理由と、吹奏楽部が上手い(界隈では"強い"と表現していました)、男子校に行きました。大学進学も考えていたので、大学の付属校であることも大きな要因でした。

入ってみて気がついたのですが、男子校って"気楽"でした。それは、中学のときに何か腑に落ちなかった「外見をよく見せる競争」をしなくて良かったから。女子がいない、それだけでひとつのおおきな(僕にとっては不本意な)目的がなかったからです。

友人が、共学かそうでない学校に通っていた芸能人のトーク番組の話しをしているとき、それは女子校でも起こっているんだと気がついたのです。異性を意識することで、より性別性を意識せざるを得なくなり、男性や女性らしさをあらゆる場面で提出しなければならないのです。

それって、窮屈だし怖いなぁと思ってしまいました。学びの場の価値については言及するべくもありませんが、あの多感な時期に男子校にいられたのは、僕にとっては救いでした。

ただ、男子校に通うとそうでない男子よりも結婚できない割合が高いという研究もあります(女子はそうでもないとのこと)。また別の機会で書いてみたい話題です。

どんなふうに世界を広げるのか、個人的な性別性のようなものが、幼い頃から自覚ないし気がつくと、不幸な選択が減るような気がします。とはいえ、子どもにとって、親の存在は絶対なことも多く、僕のことを見守ってくれた両親には感謝しかありません。

野菜が好きな草食系が結婚

社会人になって、学生のころとは違う「性別性を提出せねばならない場面」は多く、中でも苦手だと自覚していた“お酒の席”での振る舞いには結構ストレスがありました。一時期、たくさん飲んで酒に馴れたようでしたが、本質的に飲み会が苦手だったので、お金が時間を使ってまで苦手なことを増やすこともないよな、とは思っていたものです。

転職すると、お酒の機会は激減し、むしろ誰かと飲みたいくらいにさえなりました。一度、ひとりで居酒屋で時間を過ごしましたが、お酒に弱いし、食べるものも少なく、とても恥ずかしくなってしまいました。その時以来、無駄にお酒を飲まず、選べるならお酒を飲まないようにしようと決めました。

考えてみると、お酒も性別が出やすい(イメージが強い)ものですね。お酒に強いってだけでもてはやされるけれど、それが女子だとなぜか男性陣が盛り上がって飲ませよう(お金を出そう)とする気がします。飲める量に違いがあるからって、男性7,000円、女性2,000円という職場の飲み会があったことは、10年以上たってもずっと覚えているくらい強烈でした。

社会人になって、また「外見競争」みたいな気持ちがあったのですが、たまたま結婚ができて、そんな意識から解放されたのです。

これは本当に気持ちが楽になりました。

当初、“結婚できた優越感”みたいなものと勘違いしており、その思考がどちらかというと女性的なのかも・・なんて気が付いて、そうなることこそが、僕自身が身軽になったということで、外からの目を気にしないで生きているのかなぁと思えるのでした。

一生懸命に活動している方を否定する意図はありませんが、婚活と呼ばれるような取組の中にはきっと、性別性を強調して反対側の性別性を見極めて、素晴らしい性別間の夫婦を作り上げよう、みたいな発想があるのではないかと思っています。

大人の世界には、細かい競争だとか建前だとかが、たくさんあるのですが、家に帰って家族に交わると僕は「個人」でいられるように思います。

この頃、男女の格差が目立つような報道などがあって、いろいろと考えたり夫婦で話しあったりしています。

常識の範囲について記事を書いた時にも、やはり同じように感じていました。僕は、女性の味方です!なんて(個人的に白々しいと感じる)立場を示すことはできませんが、性別に限らず、困っている人、弱っている人がいることは、自分や家族も含めて気が付いて、考えて、動いていきたいと思うのでした。

この記事は、妻からのリクエストで書いてみました。リクエストにお応えする記事は初めてです。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

※タイトルフォトはイメージです。どちらかというと猫のほうが僕に似ています。

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