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あの日から

毎週月曜日には、旅の記録を書いています。

東日本大震災の被災地で撮った写真を載せています。
苦手な方は、読まないほうがいいかも知れません。

9年前の春、宮城県に旅行に行きました。

あの震災から10年経ったいま、何を見たのか、旅の記録を書きたいと思います。

仙台、塩竃、石巻、松島などなど初めての宮城でしたが、きれいな景色を見たくて行ったのではなく、一年経った震災ってどんなものだったのか、現地を見てみたいと思ったのです。

観光なんて明るい言葉で語るのは不謹慎でもありますが、実際に目で見てみることは、募金や支援物資を集めた、当時の自分がやってきた仕事の意味を知ることでもあり意義があると思っていました。

地震やそのあとの津波による被害はテレビで見てはいたものの、現地は想像を絶する景色でした。電車とバスを乗り継いで、何もなかったかのような市街地を抜けると、突如として広がる"死んだ街"。

人が暮らしていないことは明白でしたが、暮らしていた痕跡が、そこここに残り、潰れて壊れていました。

自然の脅威とか、人間のちっぽけさなんて言いますが、あの圧倒的な無力感には敵いませんでした。

点在するように残っていた戸建て住宅も、ガラスが割れカーテンが外側に出て、なびいていました。家の持ち主は無事だったのだろうか、どんな人たちが暮らしていたのだろうか、想いは尽きませんでした。

人がいないのではなく、人がいられない場所という怖さを感じました。

バスから見る景色が、あまりにも怖くて、バスが停まるたびにドキッとして、祈るような思いでした。

仙台から、松島、石巻へ向かうのは、仙石線という電車でしたが、途中で線路が流され、バスで代行運転をしていました。途中の野蒜駅の景色は、まるで映画のセットのように違和感のない「死んだ街」でした。上の写真がホーム、下の写真は駅前のコンビニ。

松島で降りて市街を歩きました。津波の水位を伝える看板や写真があちこちに。街の方が仰っていたのは、松島(の島々)があったから、ほかの街よりも守られた、ということ。

松島の海側の最前線にあった大きな岩が、津波によって破壊されたという象徴的な出来事も聞きました。

電車に乗って石巻へ。駅前にあるのは、不釣り合いな市役所庁舎。もともとショッピングモールだったらしく、エスカレーターなどが完備されて、明るくて広い庁舎でした。

石巻は、石ノ森章太郎ゆかりの地ということで、キャクターたちがあちこちにいました。駅前にはロボコン。マンハッタンならぬ、マンガッタンとしてまちづくりをしているようでした。

サムネイルの素材は、その石ノ森章太郎記念館のあるあたりで撮りました。女神像が津波で崩れています。

とても美味しいフライを買った店。中でも、ポテサラをハムで挟んでフライにしていた「サラダフライ」が最高でした。お客さんは、旅行の人のほうが多いかなぁ・・と寂しそうに仰っていました。きっと常連さんも、多くいたお店だったはずです。


同じ国の中で、こんなことが起きていたとは・・と、ほんとうにショックでした。だって、何にも無くなっているんです。街の様子が想像できるくらい基礎のコンクリートの部分は残っていて、でも、建物の1階部分はとても酷く壊れているのです。

野次馬根性で見に来てしまった・・写真も撮らないほうが良かったか・・と、反省をしました。この旅のためにかかった費用を、まるまる募金すべきだったか・・と悔やみました。正直、「見ない方が良かった」とさえ思いました。

でも、旅で出会った現地の人は、生きていました。旅人を迎えるために、心を立ち上げていたのです。どこにいっても、笑顔で迎えられたし、不躾な質問にも答えてくださいました。いま考えても、ありがたいことばかりでした。

僕のような旅をしに来た人には、帰る場所がありました。帰る家がありました。

しかし、あの日、帰る家もなくなり、帰る家族も失った人が、大勢いたのです。それでも、温かく迎えてくれた彼の地が、また恋しくなってきました。

現地の写真を加工してサムネイルにしていただきました。infocus📷さん、ありがとうございます!

#旅 #ひとり旅 #それぞれの10年 #帰る #被災地  

最後まで読んでいただき、ありがとうございました! サポートは、子どもたちのおやつ代に充てます。 これまでの記録などhttps://note.com/monbon/n/nfb1fb73686fd