絆なんて、 #創作大賞感想
いつの間にか、僕は大人になってしまった。いや、親になってしまったと言うべきか。
映画を見ても、若者の主人公よりもその親に視線がいく。小説を読んでも、書かれてさえいない親の影を想像しては、自らの振る舞いを省みてしまうことすらある。
いったいどうしたことだ。あの頃、主人公だった少年たちと自分は同じだと、ここに仲間がいるとたくさんの勇気をもらったはずなのに。
親と子、”絆”なんて一文字で表される関係性を、美しいものだと信じていた僕の頬を叩く手が見えた。否定され、ひとりひとりの人間の正しさのようなものがこぼれ落ちていく。
どうしたらいいの!と叫びたくなるような、読み手の心を抉り出そうとする真摯な作品だった。どうか一緒に、同じ怖さを味わってほしい。
星月渉さんの小説「断罪パラドックス」を読んだ。
あらすじからして、お腹がいっぱいになる。こんなに衝撃的な高校生活送ったことある⁉︎きっと、誰もない。誰も送るべきではない。
タイトルにある断罪とは、罪を判断することである。誰が悪いのか、あなたに判断することができるのか?書き手から問われている。
一章ごとに語り手が変わり、視点が代わる。あらすじから想像もできない物語がそれぞれに伸びていって、その道が繋がり、ある意味では納得のラスト(かなり衝撃的だけれど)に繋がっていた。
読み手が、誰かの子であるとともに親になっているとしたら、この物語にはハッとさせられる部分がいくつもあるだろう。
印象として、僕の読書経験から思い返すと、窪美澄に似ているなと思った。窪は、ある作品のあとがきで「こういう高校生はいるんです」と書いていた。対して、星月さんはあとがきで、登場人物の高校生たちの実在性には触れていなかったことに、僕は思いがけず安心した。
体育館でのPTA会長の異常な演説から始まり、生徒たちを苦しめる絡まった縄が明るみになってくるにつれ、子を育てていく親の不完全さを痛感する。
登場する高校生たちは、ほとんどの子が親に本当のことを言えなかった。例えば、この物語を高校生が読んだとしたら、多かれ少なかれ自らと似たキャラクターを見つけられるかもしれない。
しかし親である大人の僕は、高校生にしろその親にしろ、先生にしろ、どの登場人物も認めたくない存在であった。裏を返せば、自分を律することを放棄すれば(不可抗力的にそうならざるをえなかった部分もあるけれども)いつでも、この物語に描かれている大人になってしまうことを恐れているのかもしれないと思ったからだ。
それぞれの人物像が明るみになるにつれて、子どもたちが巻き込まれていく抗えない事実との帳尻合わせが、偶然なのか必然なのか分からなくなっていく。
読めば読むほど視界が開けてくるが、その明るさは落ちていく感覚だった。不思議と、凄惨な設定だけれど、とてもシンプルな世界観だと感じられた。それは、物語に容易に没頭できる仕掛けのようなもので、見えないものの恐ろしさを感じさせるには十分だった。さすがだ。
章を重ねるにつれ、どの登場人物も救われないのではないか、過去に囚われ続ける限り、どれだけ言葉を重ねても、ほんとうの幸せなんて訪れないのではないかと悲しくなった。しかし、読み進めるのはやめられなかった。
”絆”という字は、もともと、馬や犬、鷹などの「動物をつなぎとめる綱」という意味らしい。牛同士を糸でぐるぐる巻きにして一つにしている様子から字が生まれたという説もある。
どちらにしても、それは美しい様子ではない。むしろ、人間の傲慢さや支配欲を表しているような気がしてしまう。
最後まで読んで、ようやくタイトルの巧妙さに気がつく。
断罪だけでは終わらせられない、受け入れ難い結論に、果たして僕は現実の子どもたちのことを思い起こす。
子どもたちが親に言えないこと、それはいつだってあっていいのだけれど、命に関わることは辛すぎる。
作中の子どもたちが、どうか幸せであってほしいと願う。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました! サポートは、僕だけでなく家族で喜びます!