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仕事柄、お伝えしたいこと

公務員として、市役所で働いています。公務員ってどんな仕事してるのか、仕事で見つけた気づきなど、生活に役立つこと、仕事柄、お伝えしておきたいことをまとめました。(仕事にまつわる過去のエッセイをまとめました)



家を探すときに

家を探すときに、優先順位が低いけれど、とても大切だと思っていることを書いておきます。

それは、公園です。

仕事がら、公共の場がいかに大切か、毎日の体験とともに多くの人に伝えたいと思っているので、少し書いてみます。公園は、当たり前のようにそこらにある割には、あえて家(部屋)探しのときに検討されない存在だと思うのです。

マンションならプレイスペースや中庭があるから大丈夫かというと、そうでもないことがあります。様々な世代が住み、その時々で使用ルールが決められたり、禁止事項が増えていくことになることもあるのです。

ベンチや日陰があって、危なくない遊具と、水場のある、ごく普通の公園が、歩いていける距離にあるか。このことは、ぜひ気に留めてみてください。お子さんがいる、あるいは生まれる予定ならば、それは必須です。

なぜかというと、家の外に出ることは、こどもとの日常に中でも、かけがえのない解放の瞬間であるからです。解放は、刺激というよりも、実は癒やしの時間とも言えるかも知れません。ただ公園にいるだけで、時間を過ごすことができるのです。家の中ではそうはいかない、というのは多くの人が頷くのではないでしょうか。

実体験、ということでちょっと書かせてください。それは公園で過ごすことの効用ではありません。

利用者ではなく、管理者的な立場として。

働いている場に届けられる声の中で「住まいの近くに公園を作ってほしい」というのは、少なくありません。驚くことに、ほぼ全ての書き出しは「ここに引っ越してきましたが」です。もともと住まわれている方は、公園がほしいというのは稀です(たまに「孫のために」というのはありますが)。

土地には所有者がいます。また、たとえ公園作っても良いという土地だったとしても、整備費用は数百万円では足りません。そのため、計画的に公園を作り更新する、といった手続きが必要で、さらにその手続きのために必要と思われる地域を選び、優先順位をつけるという準備がいるのです。

そして、土地の所有者としては公園を作る自治体よりもマンションや戸建てを建てる開発業者の話を聞くのは、金銭的な優劣からも想像にかたくありません。

話を元に戻します。

引っ越し、家探しの時に、歩いていける公園をぜひ見つけてください。おしゃれなインテリアに囲まれた部屋から出たくなるとき、公園はひとときの休息を提供してくれるはずです。


カフェモカと新しい人

春が始まっているということは、いろいろな場面でみかけることができます。
例年だと、ちょっといい気分の人々が街中に増えてくる、特に会社帰りに、真っ赤な顔で大笑いしているおじさんたちが増えます。

そして、桜の花が咲くのはとても分かりやすいけれど、ほかにも。

例えば、なんとなくたどたどしい、言うなれば“頼りない大人たち”が増えてくる時期でもあるのです。カフェ、駅員さん、そのほかお店や仕事の電話の先など、「新しい人」なんて呼ばれている人がいるはずなのです。

よく行くカフェで、よく頼むドリンクがあります。その時も、少し迷ったけれど、それにしました。

お前、甘いもの好きだろ、と誰が見ても分かる「カフェモカ」。エスプレッソと甘いココアの上に、たっぷりとホイップクリームが座り、さらにチョコを纏う。甘くない・・わけがありません。

さて、それを注文してみました。レジの前で店員さんが無言になってしまいました。精算を終えて、ある意味では僕との仕事は終わってしまったわけで、なんとも手持ち無沙汰そうでした。

レジの奥では、背中を向けてドリンクを作っている様子の、別の店員さんがいました。普段よりも、時間がかかっている気がします。難しいドリンクではないし、季節限定のものでないけれど。

僕のあとにきたお客さんのカフェラテが出来上がったのち、慌ただしくトレイに載せられた、カフェモカ。


どーーーん!!

いや、めっちゃシズル感(笑)
甘い甘い液体が、とろりと溢れ出して、カップを伝って模様を作ってしまっていました。まるで、テレビCMのような、溢れる瞬間を目の前で見ることができました。

こんなに甘そうなのは、初めて。きっと、味はいつもと同じだけれど、もりもりでしたよ。

レジの店員さんにはきっとこちら側は見えてなかったはずです。しかし、こぼれ落ちそうな見た目だったこともあって、ちょっと笑いを堪えている感じもしました。
上のクリームを、すぐに掬わなければ、さらにこぼれてしまうから、テーブルに着くと、急いでスプーンですくいました。おそらく、ホイップが途中で足りなくなって、追加したときに、溶けたものが溢れているようでした。

こういうドリンクの正しい食べ方(飲み方?)を知らないけれど、甘いものが食べたいとき、僕はカフェモカを頼んで、トッピングのチョコソースがけのクリームを食べます。

作る側からすれば、アイスにするとホイップは溶けにくいけれど、ホットだとクリームを載せる速度もとても大事。しかして、ホットの良さは、その甘さを代表とした味の濃厚さでもあるのです。

今日も美味しかった。

きっと、今日のカフェモカは、まだ慣れていない「新人さん」が作ったのではないかと、そんなふうに感じました。

作り始めたら戻れない工程、求められるスピード、それは緊張が伴うものです。レジの声を頼りにオーダーを聞き分け、エスプレッソはマシンが淹れてくれるにしても、その後の工程を自分だけでやること、は慣れるまでキツそうですし。

きっとドキドキしながら作っていただろうし、きっと「もっと綺麗にできたはず」と思っていたのではないでしょうか。

春は、ちょっと頼りない大人たちが増えるのです。
春の陽気も手伝って、まぁいいかと待ってあげられます。一生懸命なら、応援してあげようかと思ったりもします。

僕だって、新しい職場に行けば、新しいことを覚えたり考えたりしなくてはならなくなるから、頼りない大人になってしまうのです。そして、とてもデキる先輩たちだって、同じような時期があり、同じように見えていたのかもしれません。

だから、新しい人として、社会人になった皆さん、大丈夫だよ。・・・と思うのです。


移動販売が叶えること

移動販売というと、どんなお店の、どんな車を思い出すでしょうか。
僕は、幼い頃、暮らしていた団地に賑やかなトラックがやってきて、荷台に品物が並べられていたお店を思い出します。一般的な2トントラックで、荷台がアルミでした。

だから、トラックがお店だったなんて!と、驚いた記憶の方が強いのです。何を売っていたか、何を買ってもらったかなんて、覚えていません。

大人になってから、最近の移動販売は軽トラックが主流で、スーパーなどが主体となって商品を載せて地域を巡っている、といったサービスを展開しているのを知ったのでした。

以前の仕事のことを思い出しながら。
買い物が不便な地域にある高齢者施設と、障害者福祉施設や行政が連携して、移動販売車を呼びました。

週1で施設の駐車場に停車、地域の人の買い物を助けたり、憩いの場を作れないかと、取り組みを行ったのです。当時、新しい考え方として地域が地域のケアをする「地域包括ケアシステム」の一つの試行として行ったものでした。

駐車場を借り、特定曜日の数時間、移動販売車を停め、買い物してもらい、その周辺には座って話せるようなスペースを設け、買い物に来た方同士が交流できるような場を目指しました。

僕は全く不勉強で、福祉系の部署にはいたけれど、実際のケアの現場や、高齢者介護の様々な施設の違いもイマイチ分かっていない、そんな職員でした。しかし、この移動販売に魅力を感じ、できる限り立ち会うようにしていました。

そんな中で、施設の方々の買い物風景を眺めていると「自分で選ぶことの価値」って何だろう、と考えることがありました。悩んで選ぶこと、それは日頃、自分がお店で買い物するときには悩んで当然と思っていたし、迷うことがストレスに感じてしまうこともありました。

しかし、施設の方の声を聞くと「久しぶりに悩めた」「自分の好きなものが選べた」「毎日でも買い物したい」「楽しかったわぁ」・・と全般的に好印象でした。
施設の方々の利用には、施設で働いている方が付き添いで来てくださるのですが、その時の会話もとても楽しそう。

「えー、○○さん、これ好きなんですか(笑)?」
「○○さん、ちょっと買いすぎじゃないですか(笑)?」
「○○さん、新しい味がありましたよ!買いましょう!」

車椅子で移動販売車の近くまできて、店員さんに取ってもらって会話する方もいるし、数分間も棚を見つめて考えに耽る方もいました。

施設に入っていたら、そういうことも、きっと殆ど出来ないことなのです。ご飯やおやつは提供されるし、お菓子も面会にきた家族が持ってきてくれる、人によっては、体の機能も低下しているから外出そのものが難しい場合だってあるでしょう。

暑い日も寒い日も、施設から出てくる”お客さん”たちは、とても明るい表情をされていました。移動販売車の流す音楽が聞こえてくると、ホッとしてしまう、なんて仰る方もいらっしゃいました。

買い物は、自分の目で見て、自分で考えて、お金を払って商品を受け取る・・このやりとりは、ある意味では社会的な自分を感じられる機会なのではないかと思うのです。

建物の中で、名前は呼ばれこそすれ、自分のためにお金を支払う決定をするような機会は、かなり少ないか、ほとんどないのではないかと考えてしまいます。それは、生活が保証されているという意味では安心ですが、自分の気持ちとお財布を相談させる買い物は出来ないのだと思うのです。

自分が好きなものを見つけて、自分のお財布で買って、ゆっくりと食べて楽しむ・・そんな時間が作れることも魅力があります。そして、お金という道具を使って、お店の役に立てる、ひいては社会のためになっているという意識を思い出したとき、大袈裟ではなく「生きているな」と感じることもあるのではないかと思うのです。

そこまで壮大ではないにしても、お茶を片手に家族のことを話したり、旬の野菜の料理を相談したり、残念ながら人数はとても少なかったけれど、移動販売車を通じて広がる地域があることが見えて来ました。

それまではお店で買っても帰り道で溶けてしまったアイスも、移動販売車なら溶けずに持って帰れる、とお孫さんと一緒にアイスケースを覗いている地域の方もいらっしゃいました。

多くの場合、移動販売は「地域の足」として食材を運んできてくれると考えられています。ただ、僕が見た移動販売車は、地域の人をつなぐ「地域の手」のようでした。

田舎と呼ばれている場所だけが、移動販売車の主戦場ではなくなりつつあること、そんな社会の変化もあるようです。あの移動販売車の、賑やかな音楽が懐かしく、またどこかで会えないかなぁと思ってしまう、春でした。


対、明白了!(はい、分かりました!)

はい、分かりました!

中国語で、相手の話を聞く時に、よく使う表現です。仲良くなってくると、最初の1文字だけを、繰り返し使うこともあります。”対、対”(あー、はいはい。みたいな感じで。)

公務員に転職して、はじめての配属は中国語を使ってコミュニケーションをとる部署でした。国際交流や、姉妹都市の関連部署ではありません。地域に住む方たちの福祉的な支援にあたる、そんな部署でした。

中国語を使っているのは、中国の方に対してではなく、日本の方に対してでした。日本人ではあったけれど、彼らは日本語を話すことが出来なかったのです。業務は、常に通訳さんを通して行なっていました。

彼ら、とはいえほとんどの方が高齢者。なぜ、日本人なのに日本語が話せないのか、それは彼らの出自が特殊だったのです。

中国残留邦人(残留孤児)と呼ばれている方々をご存知でしょうか。文字通り、中国に残された日本人という意味ですが、原因となったのは戦争でした。30年以上前、僕が幼い頃、よくテレビのニュースで「残留孤児が日本の家族と再会」といったような話題がありました。

日中国交正常化により、昭和50年代には、かなりの数の残留邦人の方が日本への帰国を果たしていらっしゃいました。

しかし、中国で、中国人として(あるいは、憎むべき日本人、”鬼子”として蔑まれた方も大勢いらっしゃったはずです)育てられた彼らは、言葉も生活様式も、文化的な思考も、多くの人がイメージする中国人的ものになっていたように感じます。

僕は、言葉として聞いたことはあったけれど、存在を知りませんでした。

公務員として働くことになった自治体には、数十人の残留邦人の方が暮らしていたのです。多くは、ご夫婦でした。どちらかが残留邦人で、配偶者とともに日本に帰国されて生活をされていました。

そんな政治的にも、歴史的にもセンシティブな存在に対して、生活支援をおこなえるのは公的機関しかないなと、公務員である意義を感じながら業務にあたっていました。

電話を取れば「你好ニーハオ?」と言われて、慌てて通訳さんに受話器を渡したり、制度の趣旨に則って、生活の助言のようなものを言葉を選びながら伝えたりしました。

個人的な印象として”横柄だ”と感じられた、主張が強めのいわば中国人らしい振る舞いを嗜めたりすることは、新人には荷が重いと感じながらも、地域に住まう住民として接することは、楽しいと感じていました。

長期にわたって中国へ一時帰国をして、日本での生活実態が不明になった世帯に対しては国際電話をしたこともあったし、市有地で勝手に耕作して畑を作っていた方を説得して作物を手放してもらったこともありました。

中には、おひとりで暮らしている方もいらっしゃって、その中のひとり、おしゃべりが大好きな”おばちゃん”は、いいことも悪いことも、役所の窓口にやってきて大声で話してスッキリして帰っていく、そんな方でした。

ふだんは通訳さんと一緒に、逐一通訳してもらいながら、会話を進めていくのですが、その時はたまたま通訳さんが不在でした。ふつうならば、お引き取り願うところですが、ご機嫌がよろしくない様子。

僕は、奇しくも大学で第二外国語に中国語を選択していたこともあり、また業務で使うということで、HSK(世界版の中国語検定)の勉強もしていました。緊張しながらも、なるべく穏やかにお話しできるように、筆談を中心に会話を試みました。

よく、中国語は漢字だから、書ければなんとなく意味が通じると思われていますが、それはあまり正確ではないと感じています。今では、すっかり忘れてしまいましたが、中国語は漢字の意味そのものが日本語と違うこともあります。

例えば、”手紙”は日本ではレターのことですが、中国語になるとトイレットペーパーという言葉になるように。

当時、その”おばちゃん”はご近所さんに不信感があるとか、通っていた日本語教室の話をしていたので、その日も同じように日頃の騒音や、日本語教室で話したことについて聞いていました。

やはり、中国語らしい言葉の応酬は、筆談だけでは間に合わず、おばちゃんは何かを訴えていました。落ち着いて何度か聞き直してみたり、分解してみたりして言葉を確認していたら「日本語教室にもっといきたい」と言っていることが、うっすらと聞き取れたのです。

「対、明白了!」

僕は、中国語で返しました。もう覚えていませんが、その時の対話の中で僕が中国語を使ったのは、この一回だけだったと記憶しています。

「太好了。謝々。」(良かった、ありがとう)

”おばちゃん”はパッと表情を変えて、途端に安心したような穏やかな表情になりました。僕もそれを見て、ふっと気持ちが緩みました。
満足した“おばちゃん”は、ニコニコと帰って行ったのでした。

「心配したけど、ちゃんと話ができてたみたいだね。勉強してたの?」

席に戻ると、奥で見ていた同僚が声をかけてくれました。ホッとして、言葉が聞き取れたことが嬉しかった僕は、ちょっと余裕が出てきていました。

「ハイ、チョトダケ、ベンキョー、シマシタ」

言葉の壁、は当時も今もあまり変わっていないのかもしれません。特に、介護などのケアが必要になった時、本人も、ケアする側も幸せであるのは難しいようにも思います。

言葉が通じた、その喜びのままに、帰りたかった母国で健やかに暮らしていることを願います。


今日は、どんなご用件で

保健所は、さまざまな業務を担っています。まさに”揺り籠から墓場まで”、その地域に住まう人のために働いている場所でもあります。

もしかしたら、母子手帳を受け取りに行ったことがある方もいらっしゃるかも知れません。検診のために地域の保健所に訪れたことがある方も多いでしょう。

これは、あまり知られていることではありませんが、保健所では「免許」の発行代行を業務として取り扱っています(この表現、とても役所的ですね笑)。その免許とは、「医師」や「看護師」などの医療職の免許のこと。

医大などで学んだ方々が、”国試”と呼ばれている試験をパスすると、晴れて医師免許を受け取ることになるのですが、その申請を受け付けて、免許が出来上がったら、ご本人に渡すのが保健所なのです。

国試の合格発表の翌日から、その申請のために合格者が保健所を訪れるのです。
中の人は、窓口に来ていただいた方に、用件を確認して必要な部署や職員に繋ぐわけです。ふつう、自分の業務をしている傍らで対応することが多いため、窓口に誰か来た・・という気配を感じて、近くにいる人が対応することになります。

そんなとき、やはり知らないことのほうが多いので、誰を呼ぶのが通常対応でした。(お役所仕事の所以でもありますが、それぞれ担当する業務が厳密に決まっているため、経験者でなければ、他の部署の業務に詳しい方は少ないのです。)
僕は、窓口に立つと、端的に「今日は、どんなご用件で・・。」と尋ねてしまうのですが、ある日、とある先輩が対応しているのを見ていたら、窓口に立っていた方がふっと笑顔になったのを見かけました。

なにか、冗談を言ったとか、テレビでみたお笑い芸人の話をしていた・・はずもなく。とても短くて、でも温かな言葉を、来庁者にかけていたのです。

それは、「おめでとうございます」でした。

確かに、家族が何か試験に合格するなどしたら、「おめでとう」と声をかけるでしょう。その感じなのです。職場で知らない人に向けて発する言葉ではない、と思いつつも、こんなことを言われたら嬉しいだろうなぁと思うのです。

試験が合格した方に向けて、用件を確認した後に「おめでとうございます。少し、お待ちくださいね。」と繋いでいたのでした。

免許の申請に限らず、母子手帳だって実は同じ。「おめでとうございます」を声かけをするようにしました。僕のような男性職員から言われると、結構驚かれることが多くて、でも、すぐに笑顔になることを何度も経験することができました。

きっと役所の窓口だから「おめでとう」って言わなくてもいいのです。
でも、見ず知らずの誰かから「おめでとう」って言われたら、嬉しいし、ちょっと面白いな、なんて思っています。


やりがいと手応え

ボランティアの精神は尊くて温かなものだけれど、やりがいを求めるボランティア活動が、問題になってしまうこともあります。

震災などの大きな災害が起こると、ボランティアをしたい人が増えます。もちろん、困っている人を助けたい気持ちは大切ですが、困っているのは最前線にいる人だけではないことを考えている人は、案外少ないと思うのです。

東日本大震災が起きた時、僕は行政職員として被災者のために、市民からの物資を集める取り組みをしました。

もともとは、地震のあと、物資を提供したい人から連日のように電話がかかり、メールが送られていたからでした。温かい気持ちで電話して来たたはずが、こちらが「まだ、受け付けられません」と告げると、罵詈雑言を投げつけてくる人も少なくなかったのです。

集積場所を確保し、輸送手段が整った段階で、集める物資を限定して、1週間の期間を設定して募集しました。

初日に気がついたのは、物資の仕分けの人が足りないということ。たった2人の職員でまかなえる作業ではなかったのです。

新品を持ってきてもらうはずが、中古のものだったり、重たいおむつの箱を開けてみれば、さまざまなものが混ざっていたり、当たり前ですが箱の大きさも違うし、箱に入っていないものも多くありました。対象物品でなければ持ち帰ってもらう、それにも不承不承という顔をする人もいました。

結局、慌てて関係部署と相談し、仕分けのボランティアを募集。期間中は、数人集まってくださいました。

ここから、あなたがそのボランティアになったことを想定しながら読んでみて欲しいのです。

無機質な部屋に入ると、たくさんのダンボールが積まれている。これらを決められた場所に運び、積み上げていく。

持ち込まれたものを区別し、品物を分けたり、サイズを分けたりしながら、決められた場所に収めていく。

持ち帰りをお願いするのは、行政職員の役目だけれど、「寄付ありがとうございます」と相手に言えるのも彼らだけだった。

ボランティアは黙々と仕分けと積み上げを行うだけ。忙しくはないけれど、なんとなく退屈な瞬間が断続的にある。


このボランティア活動、やって良かった!またやりたい!と思えたでしょうか。「また明日も来ますね!」と言ってくださる方なんていないし、結果、複数日来てくださる方は、ほとんどいなかったように記憶しています。

期間の後半は、手持ち無沙汰の彼らが、送る箱にメッセージを書こう!と思いつき、手元のマジックで、箱に「がんばれ!」と書き込んでいました。

やがて、物資の区分けよりも、箱に書くことが主だった仕事になってしまったのです。ダンボール箱は、マジックの黒い線で汚れていきました。


被災地のボランティア作業も、最前線で泥かきや掃除をするのが“人気”だと耳にしたことがありました。避難所の掃除や炊き出し、物資の配布も、分かりやすい形をしています。

しかし、避難所に向けて仕分けをする倉庫内の作業は手が足りないことがあるらしいのです。

被災者に直接「ありがとう」と言って欲しい、ボランティアとはそういうものだ、と思っているのかもしれないし、事実そういうものでもあります。多くの人が“分かりやすい人助け”がしたいのかもしれません。

良し悪しを言いたいのではありません。
僕自身が、そういう面があることを知ったことを改めて書きました。

現代的な贈与について書かれた本に、献血をする若者が減っているとありました。同じボランティアなら、目の前に困っている人がいる、人助けしたと感じられることが求められているのではないかと考察されていました。

ダンボールに書き込んでいた彼らも、きっとそうだったのかも知れないと考えることがあります。

「がんばれ」「負けるな」「きっと復興できる」

一方的に発信して、“ありがとうと言ってもらったこと”にしたかったのではないかと。

やりがい、は相手から何か返してもらわないと、手応えがないと、生まれないものなのでしょうか。


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