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社会を変えるスタートアップ(「就労困難者」ゼロ社会の実現)読書感想文

 本記事は上記の本の読書感想文となる。
 とても有意義な本だと感じたので、ご興味を持たれた方には是非ご一読いただきたい。

本書の内容をざっくりと

 障害により就労困難な人たちの適性を適切にデータ化することにより、社会には労働力の提供を、障害者達には社会参画による受容感を提供しようという試みをされている、VALT JAPANの代表取締役の小野貴也氏の著書である。
 本書ではそのビジョンと、そう描いたソースと比較、これまでの試みと展望がまとめられている。
 尚、本書に倣い本記事でも法律用語としての「障害」という表記を用いる。
 また労働の意思の無い人を無理矢理働かせようと言う類のものではなく、就労に対し肯定的に捉えながらもそのハードルを越えられない人達に向けてのアプローチであることも併せて明記しておく。

 具体的な方法論や実績などは改めて解説はしない。
 ご興味があれば是非本書を読んでいただくか、或いは以下のHPにも沢山の情報があるのでそちらをご覧いただきたい。

雑感

 さて、ここからようやく感想について書いていこうと思うが、まず最初に全体として感じた事を書いていこうと思う。
 何様と思われるかもしれないが、一番は「やっと問題の根源にアプローチしている所を見つけた」という感覚だった。
 正直実務経験が少ないせいで具体的なソースや統計の読み取りなどはまともに出来ず、データから読み取れるまとめを流し見する形にはなっていたが、これもまたどんな上から目線といった感じだが、概ね俺の体感と合致していた。
 就労困難者が日本人口の8人に1人いる一方で、人材不足が叫ばれているあべこべ感。数は力のはずなのに、そういった人々に価値を見出せていない物足りない感。障碍者雇用制度と、その代行業が世間で騒がれているこれじゃない感。それらを主体的に見据えてどうアプローチをすることが出来るか考え、実行する姿勢。それを政治でも無く、NPOでもなく、利で急速に浸透させようというスタートアップという形態。
 どれも俺にとっては「そうそう、やっぱそうだよな!?」というような、我が意を得たりという感覚が一番近い。勿論俺なんかよりしっかりとしたエビデンスがあり、尚且つきちんとした実績の積み上げがあるのだが。
 ただまぁ、その多くは恐らく俺の方の経験や調査不足による勘違いなのだろうが、幾つかやはり俺の体感とズレている所はある。
 本書の内容を改めて書いても芸が無いので、そういった俺自身の感覚と重なる所、ズレを感じるところも含めて、本記事では読書感想文としたい。

就労困難者と売り手市場

 以前このような記事を書いた。
 まさしく就労困難者はいるのに人材の売り手市場とか言われてるアベコベさについて書いた記事だ。
 要約すると、「一定以上の経験と実績とスキルを採用時点で兼ね備えた人だけが『人材』として欲されている。それに満たない有象無象を雇い育てる体力は今の日本の会社に無い。故に僕たちは『人材』未満である」という内容だ。
 日本の会社は終身雇用制度の名残か、「仕事に合わせて人を人材として加工する」という文化が深く根付いている。ある程度加工しやすい様に学校教育で形を整えた原材料(新卒)を、幾つかのパターンに従いポジションに当て嵌まるように教育する。それが日本の社会人というものであり、それが適「合」障害の中身だ(という風に俺は見ている)。社会に人が適応できないというより、会社が望む職に合わせた形に適合出来ないというだけの話のように思う。
 正直な所、日本は、などと言っているが他国がどうやっているのかは知らない。ただ、その一端を歪んだ形で輸入されたものを俺たちは知っている。所謂ジョブ型雇用だ。
 その理想は職に合わせて人材を加工することでは無く、人材のポテンシャルを発揮出来る職を選択肢の中から選ぶ、人が元で職が合わせる側の雇用方式のように思う。
 だが実際のジョブ型雇用というのは、既に正規の加工品である人材のみが、ポテンシャルを発揮できる職を選ぶことが出来るようになったというだけの話である。
 勘違いして貰いたくないのは、俺は別に正規の加工品である人材のように言っているが別に皮肉を言っているのではない。確かに羨む気持ちはあるがそれは俺の感情であり、真っ当に生きている人達に責は無い。ただ社会が求める形に素直に適応出来て良いじゃん。俺たちは素直に適合できなくて運が無かったね、という話に過ぎない。
 そう、やはり、今のところ俺にはその差は運でしかないと思える。自分の持っているポテンシャルが今のメタに合っているかは運でしか無く、自分のポテンシャルを任意に変える事は相当難しい。メタに合っていないのであればニッチな需要を探すしか無いのだが、それに出会えるかはやはり運だ。そこに一般的な方法論は無く、精度の未熟なネットの適正診断くらいしかパッと頼れる手段は無い。その結果、運が無ければ使い物にならない非正規品として生きていく以外無いように感じ、絶望する。

 長くはなったが、まぁ俺はそんな風に今の社会の労働環境を捉えている。
 本書でも同じような結論に至ったようで、やはり障害者達の特性のデータを作業所などで取り、そのより精度の高いデータを基にマッチングを代行する仕組みを作ることで、職に適した人を作るのではなく人に適した職を用意するというのを達成しようとしているのだと思われる。
 そしてその論拠として、1500万人の候補者という圧倒的なバリエーションと、既にあり他国と比べても多い中間就労の施設という財産を提示する。社会福祉と言う綺麗事ではなく、実利によって行動を促し、行動によって認識の壁を取り払うことこそを急務として動きの速い民間から働きかける。
 同感だ。綺麗事では人は動かない。それで動けるのは自身は既に一定の満足を得ており、リソースを他者にまわすことが更なる満足に繋がると実感できる極一部だけだ。そして日本にその域にいる数は少ない。数が少ないという事は社会を動かせないという事だ。実利でなければ人は、社会は、福祉は動かない。

「障害」という括り

 と、ここまでが本書を読んで非常に同意する部分ではあるのだが、どうにも腑に落ちない所がある。その一つが障害という括りである。
 先にも述べたように「障害」という表記を用いているのは本書に倣っているため、本書は法律に倣っているため、つまりその定義を法律に委ねているということだ。
 そして障害がいというのも色々ある。昨今色々と話題になりがちな発達障がい、愛着障がい、鬱などの精神障がい、肉体や脳の障がい、先天的なものから後天的なものまで。そして配慮の足りない表現であれば申し訳ないが直截に言うと、見て分かりやすい障がいからそうでない障がいまで。
 もはや生きづらさを感じる特性があればあれもこれも障がいである。だが全部を面倒見るわけにはいかないので医者に診断を任せて障害者には援助をする、というのが法律のように思う。
 本人が生きづらさを感じれば障がいと思ったり、他人である医者が認めれば障害であったり、実に曖昧でしっちゃかめっちゃかである。
 まぁそれもある程度は仕方ないのだ。明確に異常が認められる障がいならまだしも、特に発達障害や鬱などの精神障害は明確な病原体がある訳でも無い。せいぜいどのホルモンが多い少ないといった違いしか生理的にはなく、それを数値で測るわけにもいかないから問診による診断になり、曖昧なものを不公平感無く法律上分ける必要があるから無理矢理なものになる。
 俺だって多分、軽度のADHDの傾向がある。所謂発達グレーゾーンという奴だ。自称だが。だが診断が無ければ特別な保護も配慮も求められない。生きづらさを感じているのは事実なのに。
 だが問題はそういったグレーゾーンにも収まらない。所謂健常者が仕事で追い込まれ鬱になって退職する時、医者に鬱と診断される我慢しなければまで自己都合になるというのは如何なものかという議論もある。

 言いたいのは、個人的には障害という括りで問題を語るのはどうにも違和感があるという話だ。
 勿論、その辺りの事は理解の上で、しかし国の制度との兼ね合いや伝達の容易さ等から、おそらくその定義を法律に委ねるという決定になっているのだろうと思う。
 そう推測した上でやはり、俺自身生きづらさから引きこもった発達グレーゾーンの当事者としては、イマイチ腑に落ちない。コトの本質は既存で用意されている加工プロセスに何らかの理由で適合出来ない人達が、経験を積むことも出来ず埋もれていくことのように思う。その理由は別になんだっていいのだ。障害であれ、親であれ、社会であれ。如何だろうか。
 だがまぁ、よくよく考えてみれば本文には障害という言葉が頻出するが、表題や見出しでは決まって「就労困難者」という主語を用いている。これならば個人的には得心がいくので、障害という言葉を用いるのも実は方便なのかもしれない。

人材の競争力

 もう一点気になる所がある。それは、果たして障害者がプロファイルを用いて人材として使い物になったとして、その時に健常者に競争力で勝てるのかどうかという所だ。
 本書の言葉を借りれば「協働」の段階は良い。NEXT HEROのサービスによって、プロファイルが用意されているというアドバンテージがある。それは未登録の健常者には無いアドバンテージだ。
 しかし「流動」の段階になると少し話が変わってくるように思える。己の特性を、デコボコをより精密に把握し、職に人を合わせるのではなく人にあった職を選ぶノウハウが確立されたのであれば、(技術の流出という側面を敢えて考慮の外に置けば)そのノウハウは一般に共有されて然るべきだ。一般の人材紹介会社などもこぞってその方法を取り入れる事になるだろう。その方が障害の判定をもら「えない」人たちにとっても幸福となる。
 しかしそうなると依然、障害によって文字通りハンデを背負っている人達の不利は変わらないように思える。タスクをこなす人材という観点で言うならば、同じ値段なら不利条件の少ない人を選びたいというのが人情だ。この問題は景気が上向きになり仕事の量に人の数が不足しているという、真の売り手市場が達成されなければ解決しないように思う。そして当然、景気の回復というのは偉いおじいちゃん達がいっしょうけんめいがんばってもなかなかうまくいかない、むずかしい問だいだ。一企業で解決できる問題ではない。

 ここについては俺の知識不足の勘違いなのか、書いてあるが理解不足なのかは分からないが少し引っ掛かっている所ではある。
 まぁとはいえそもそもそれが問題になるのは滅茶苦茶頑張って縮めて5年後の話であり、今の時代の流れの速さを鑑みると考えても仕方が無いことなのかもしれないが。

違いは面白い

 さて、共感点と疑問点は以上だが、疑問点を投げて終わりは収まりが悪い。
 ならば折角なのでもう一つ俺ならばこう考える、というのを更に厚顔無恥にも上乗せしよう。知見不足でコンプレックス駄々洩れなのは百も承知だが、まぁ折角という言い訳でここは一つお付き合い頂くかブラバしていただきたい。

 個人的な直感ではあるが、何かせずとも障害者、というより生きづらさを抱えた人たちが注目を浴びる時代がそう遠くないと思うのだ。
 その理由付けとしては、物が溢れた時代と工業技術の完熟だ。
 農業革命とは、食料の「足りない」を埋める革命である。産業革命とは、物質的な楽さの「足りない」を埋める革命である。情報革命とは、物質を効果的に使うための情報の「足りない」を埋める革命である。
 今の時代、少なくとも所謂先進国においては例え貧困が騒がれていようと餓死は少ない。当たり前のようにテレビはあるし、洗濯機は(コインランドリーかもしれないが)使えるし、バスや電車を使える。
 そこに辛苦があることは間違いないが、少なくとも分かりやすく「持っている」優越感は感じにくい。
 人は弱い生き物で、兎角自分は優れていると思いたがる。その優れているという感覚を最も分かりやすく満たしてくれるものは差異で、持っているか否かは更に分かりやすい。
 人が持っていない物を持っているというのは、人の幸せにとってとても重要な要素で、その逆も然りだ。
 しかし豊かさは蔓延した。食も、服も、腕時計も、車も、以前はステータスと見られていたものも、当たり前になってはもはやイマイチ優越感を刺激してくれない。ついには知識や技術もインターネットやマニュアル化によって、その特別感が損なわれつつある。
 当たり前になるというのは、特別感が薄れるということでもあるのだ。
 だが、まぁ別にそれは悪いことでは無い。手を変え品を変え、難易度は上がるが人は別の差異によってその自尊心を保とうとする。より、健全な感じがするものによって。

 俺は「推し」とか「マイノリティ」とかを、そういう文脈で捉えている。
 要は、人と違うという要素が自分に特別感を与え、それが自分を掛け替えのない命だという根拠になるのだ。
 確かに持っているという差異は目に見えて分かりやすい。が、人それぞれの好みというのも分かりやすい差異だ。そしてその差異を顕著にするために時間やお金と言ったリソースをつぎ込み、同時に近しい属性のものとの連帯感を高めてくれる。掛け替えの無さの根拠と一人じゃないという感覚を同時に、極めて健全に保障してくれる手段だ。
 だが、案外と言うか当然と言うか、そういった好みというのはそう簡単にはっきりと自覚出来るものではない。なんとなく好きでは足りないのだ。大体の人が自分が案外普通で、自分と他人との差異を自覚しづらく劣等感を感じるようになるだろう(昨今のモブなのに主人公なアニメ然り)。
 そういう文脈で語るのなら、マイノリティであるということは幸運である。少なくとも一つ、分かりやすく他との差異を持っているわけであり、多様性が当たり前になった社会だとその特徴は純粋に特長となる。むしろ、武器になるというわけだ。

 そしてもう一つ、技術やマニュアル化の完熟だ。
 技術やマニュアル化の完熟は「できる」ことの特別性を奪うだけでない。そもそも出来る必要性を奪っていく。
 分かりやすいのがAI技術だ。昔機械の登場により労働者が職を失ったのと同じように、今またAIによって様々な職が無力化されていく。
 先に貼った「僕らは『人材』未満」でも確か書いていたが、僕たち就労希望者にとってのライバルはもはや他の就労希望者ではない。機械である。機械の方が圧倒的に正確で素早く、文句を言わず低賃金で働いてくれる。都合が良くて管理が楽なのだ。それは今までの日本社会が学校教育によって人材に求めていた要素だ。つまり、人は機械化するコストより安いから人件費を払ってもらっている、ということになる。
 勿論、全てが機械化出来るわけではない。感情労働やその機械を管理運用する仕事などまだまだ仕事は残っている。が、少なくとも今の日本は「言われた仕事をこなす」人の方が流石に多数派だ。
 これまでの職人の技術はマニュアルになり「誰もが出来る仕事」になった。次いで誰もが出来る仕事は「誰もやる必要のない仕事」になるだろう。必要性を認めてもらえないというのは、辛いことだ。他人に存在を保証して貰えないということだから。
 だから次は如何に「自分で自分が存在する意味を証明できるか」が問われる時代になってくると思う。だからやはり「特長」は武器だ。
 同時に仕事の面で言うと、やはり独自性の高い仕事は相対的に価値を高めるだろう。その人にしか、その人だから出来る仕事というのは機械との競争で優位に立てる武器になりうるし、その取っ掛かりとして障害もマイノリティも明確なアドバンテージたり得る。

 ただ、まぁこれも机上の空論で夢物語である。
 俺の勝手な読みというか多分に願望が混じった予測だし、現実問題そこまで自身の特異性を武器として使いこなせるかは疑問が残る。少なくとも現状ハンデとなっているそれを反転させるには、多大な時間と心理的コストがかかる。それを賄うのは至難の業だ。それは、それを志して30年引きこもって尚未達成な俺が一番よく知っている。
 だが、それでもそんな未来を引き寄せられるように、自分が何が出来るかを考え続けるのが、自分の人生を生きるという事だとは思う。
 ってな感じでなんかいい風に話を纏めようと思う。

 以上、殆ど持論ばかりで本書の内容はダシに使った程度になってしまったが、読書感想文でした。


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