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社会をつくる。

「『生きづらさ』は新しい社会をつくる資源である」
と言った人がいた。

「社会不適合」「社会性がない」
と自認する人がいた。

「社会」とはいったい、何なんだろうか?
「社会性」とは、今ある社会の仕組みや常識に適合することなのだろうか?
だが、社会とは形を変えるし、型や今ある常識を超えて、あらゆる人が存在し、生き物のように蠢くのが社会なのだ。
「社会」に適合できない、「生きづらい」者が多いのなら、
それはもう今までの《社会》という型や常識に含まれる人が少なくなっているし、それは「社会」ではなくなっていて、ごく一部でしかない。

「社会」は、変わってゆくものである。
新しくつくっていくものである。

今までの社会の型に収まらない自分に、
収まる社会が存在しないことに、嘆くことではない。
いやむしろ、嘆いたり、悲しんだりすべきなのか。

住みよい社会、一人ひとりがしあわせになれる社会、しあわせとは何か?なにを望むのか?

正解などない。先輩も、先例もない。
誰も答えを知らない、教えてなどくれない。

だから、何かをやってみていいし、失敗など簡単に言えない。
誰かの顔色を伺うようなものではない。

社会は、自分たちが作っていくものです。
誰かが、つくってくれるものではありません。

過去の踏襲で、いいのですか?
常識や周りの顔色を伺っていて、いいのですか?

これまでの《社会》の枠、常識に収まらないものは、批判されます。
自分のあり方も、人生の道も、これでいいのか?正しいのか?
疑うし、悩むし、苦しむし、葛藤します。

ですが、もう、だからこそ、
ただ《社会》に収まろう、従おう、ともできないのです。
どうせなら、収まらないのなら、精一杯、
抗おう、抵抗しよう、《新しいよきもの》を
精一杯探してゆこう、つくってゆこう、
とおもうのです。

これからを生きる人たちが、
わたしが、仲間が、これからの仲間たちが、
後輩が、家族が、子どもたちが、
すこしでもしあわせになるように。

答えなんて、どこにもないし、
《新しいよきもの》が見つかるか、つくってゆけるか、わたしがどこかしらに貢献できるか、
保証などないし、
試行錯誤、紆余曲折、葛藤の繰り返しと積み重ねが、容易に想像できるのです。
そういうものだろうと、おもうのです。

わたしは革命家でも、活動家でも、起業家でも、なんでもありません。

だいたい、社会不適合で、
社会のどこに接点を持ったらいいか、収まったらいいか、いつもわからなくて、
だいたい、ひま人で、のんびりしてて、
大いにジメジメと落ちこんだり葛藤したり不安に苛まれたりしやすくて、その頻度や期間が長くて
よくひきこもりがちな、けっこう《何もしていない》と自認や自責を多めにしている人です。

だから、
《新しいよきもの》をつくる活動は、
大きなものではなくて、とても小さな、小さなものを積み重ねる活動になります。

仲間を大切にする、人を愛する、『はたらく』、《新しいよきもの》とは何か、しあわせとは何か、問い続ける。
目の前にやってくる、色々な活動をやってみる、人を助けたり手伝ったり社会参画ぽいことをしてみる、誰かを応援する。

命ある限り、
心と身体が健康である限り、
《新しいよきもの》を探しつづけます。
「社会」をつくってゆこうではありませんか。

過去の踏襲ではなく、
誰かの顔色を伺うのではなく、
誰かを批判するのでもなく、
自分で、自分たちで、この社会をすこしでも、
《よきもの》にしていこうではありませんか。

この、命は正しい道を歩いているのだろうか?
あと、どのくらい、命を生活を自分を、守れるのだろうか?
あと、どのくらい、がんばれるのだろうか?
今、大切にしているもの、大切にしたいものを、大切にできる自分で、いられるのだろうか?
だいたいニートっぽいわたしには、非常に難しい問いです。
現実的な、厳しい問いになる日がいつ来るのだろうか、来年だろうか、半年後だろうか、数年後だろうか、定期的にやってくるのだろうか、
わたしにとってもだけど、
家族にとって、仲間にとって、厳しい問いである日は、何日やってくるのだろうか、
乗り越えても乗り越えても、やってくるのだろうか?

想像力ゆたかなわたしは、
いろいろな、大雑把な妄想をします。
今のところ、だいたいそんなに困ってる感はなくて、だいたいゆったり、のんびり、
すごく平和に生きております。

でも、要するに、
わたしはわたしの道を、命を、正しく歩んでいけるだなんて、
満足で理想的な人生を全うできるだなんて、
そんなに信じていないのです。
どっこに転ぶかわからないのが、人生なのです。
苦しいのはいやだから、ハッピーにしてやろうとはけっこう、本気で思ってはいるのです。

わたし一人の人生の道は、そういうものでよくって、
「あいつはバカだったね〜」って最後に思いっきり酒の肴になるような人生だったら
最高に幸福で、…

って思った先に、
この社会を、すこしでもより良きものにしたいと思ったのです。
わたしはわたしの人生を、救うことなど、
できないかもしれない。
社会になら、誰かのためになら、何かをできると思っている訳では、ないのです。
むしろ、大したことなど、ほとんど出来ない人なのです。

だけど、社会を、歴史を作っているのは、
全ての人なのです。

自然界は多様性があって生き物は進化していって完璧だ、無駄なものはない、
と言われることがあるように思います。
実際にはめちゃめちゃ、無駄だらけだと思うのです。
突然変異とか、ヘンテコなやつとか、なんの意味もなくカラフルとか、突起があるとか、怠けものとか、めちゃ繊細とか、よくわからんものがごちゃごちゃ、いると思うのです。
勉強してないから、そんな知らんけど。

優秀さ、社会性を求めるのは、人間の性ですが。
何を優秀とするかは文化、価値観、判断軸が時として変わります。

歴史や社会は、大きな波です。
優秀さを個人は求めるけれど、大きな社会のうねりをつくる強烈な個性を持ったキーパーソンはやはり存在すると思うけれど、
社会や時代は、その社会や時代を生きる名もなき一人ひとりによって、蠢いてゆきます。

うーん、だから、
「どう生きてもいい」ってことになっちゃうから、まぁそうなのかもだけど…

どうしてこうも、
『一人ひとりが自分らしく生きること、それで良いしそれが良い』
だとか
『意思や信念、美意識を持って人として善く生きること』
だとか
がいいと思うのだろう?
そういう言葉たちばかりが、残るのだろう?

よく、わからないのだけど。
沸いてきて、残るもので、確かにあって。

まぁ、大きなことを整理だって理解したり言葉にするのは、得意でないのだろう。

命ある限り、
心と身体が健康である限り。

誰かを批判するより、
ぐっと堪えて、自分はこれがより良きものだと思う、ことをやってみたい。

怒りはわたしのエネルギーには合わないから。
何か生み出したい、とかもないから。
何が正しいと、分からないし言えない人だから。

誰かが悩み苦しんでいたとして、
わたしが解決の答えを知らないからといって、その人が乗り越えられないとは限らない。
ならば悩み、苦しみ、不安に飲み込まれるのではなく、ただ側で聴いていたい。

自分に対しても同じである。
不安、悩み、苦しみ、葛藤
それらの解決策、答え、正しい道がわからないからといって、乗り越えられないとは限らない。

社会に対しても同じである。
今あるもの、見えているものが全てではない。
ある時ひょいと、見たことのない景色が目の前に広がっているかもしれない。

ならば、
今までを批判するよりも。批判、しないわけではないのだけど。
否定、するよりも。
今までに、留まるよりも。

この、見たこともない変化の兆しを、
良きものとして受け入れてゆきたい。
どうせ、完璧ではないのだけど。
どうせ、ついてゆけないのだけど。

きっとおもしろく、なるだろう。

どうせ、歴史は繰り返すのだけど。
それでよくって。
その上で、こだわりたい部分が確かにあって。

うーん、今回の文章は、
それぞれの心にそれぞれの響き方をするだろうし、
自分の心の響き方を確かに言葉にしたものだけど、それ以上でも以下でもない、
より多くの人と分かち合うには 分かりにくい文章でありそうだ。

選挙活動のお手伝いを、けっこうやっている中で、
最近、よく響く心の声たちを、言葉にしました。

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