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Sacred Heart



間もなく訪れるイースターへの日々、聖書の物語とシンクロするように、私は自らの暗がりを通り抜けている。




今このとき、哀しみを芯から感じなくてはならない、涙を流さなくてはならない。


ふと、イエスのお墓で泣いている、マグダラのマリアに思いを馳せていた。




私はクリスチャンではないけれど、神様の愛というものがあることを信じている。


私のお腹を温めるものがあるとすれば、それは愛であり、神であると。


そして、時折イエスさまであったり、マリアさまであったり、マリア・マグダレナのような存在への親しみや、敬愛に心が熱くなることがある。




幼い頃から「神様」がいることは自然だった。


自分自身や人間以上のものはある、「何か大いなるもの」はある、私達を見守ってくれているものがあると、それはふわっと、漠然とした心強さのようなものだ。


そう感じるのは、私が日本という文化に生まれ育ってきた者の精神、無意識に深く浸っているからかもしれない。


今も昔も私は、山や海、路傍の小さな植物や、身のまわりの生き物、そして人の心や体にまで、あらゆるものに親しみと神聖さ、不可思議さを感じずにはいられない。


すべてが見ているその輪郭だけではないことを、子供の頃から知っていたようだ。


そのためか、神は「いる/いない」というはっきり白黒と証明するようなものではないとも思う。


「いるよ、どんなものかって?・・・お日様とか、風とか、水とか、木とかに感じない・・・?(ふわふわ)祠とか!いる!って思わない?」


日本には神が「たくさん」いるという表現をするし、お祀りする神様の名前も様々にあるので「一神教」ということにはならないのである。




外国文化に興味があった私は、このような日本人のゆるふわな精神構造も相まって?「自分の世界にないもの」をぐんぐん内に取り込んでいった。


キリスト教は、幼稚園と大学で関わる機会を得た。私は賛美歌や礼拝の清らかさに癒され、これほどに「愛」を感じることのできるものがあることに感謝していた。


イエス・キリストの眼差しには、神の人類への愛がほんとうに、あるのだ。


「奉仕する」「捧げる」「与える」ということ、その寛大さや大らかさに、胸がすっとするような気持ちのよさがあった。


そのようなオープンさ、積極的な善の表現が、それまでのコミュニティには見られなかったからだ。


私がやりたいのはこのようなことだ。

神とともに生き、神とともにはたらき、神のしごとをすること。人の中に神様の光を持って入ること。神様に、人類、世界に、自らの誠意を尽くして奉仕すること。




しかし、私は仏壇に手を合わせ、神社にお詣りをしているのである。


私の面の向かいに在るのがお釈迦様の像であっても、丸い鏡のかたちであっても、天の父(この場合、面と向かい合っているのではないのだが)であっても私はいつだって、ただひとつの心で純粋に、誠実に祈るのだ。


しかし、どんなに純粋な誠実な心の持ち方も、完璧に表すことはできないのだ。


だからこそ、見えないものを補うための工夫を、人類は構築してきた。物語や決まりごとによって。そしてある者はそれで十分に事足り、またある者はそれだけが全てになってしまった。


見えないもの、表すことのできないもの、取り出して、差し出すことのできないものはどの人の内にも、満ちていると思うのだが。だから「あの人(外から見る姿形)は私(内的体験:その人の経験や記憶、気持ちや思考)のことを何にもわかってない!」と憤慨するのではないか。





私は聖なるものと共にあるとき、もうそれだけで十分に安らぎ、満たされていて、それ以上に望むものはないという境地にいる。


神がいる、聖なるもの、大いなる慈悲がある、ただそれだけで十分であるのだ。たとえ私の体験することが不条理で理解に苦しむようなことばかりであったとしても。雲の上はいつだって澄んで晴れわたっているということを知っているだけで、少し心が持ち上がる。


救われたくない者はいないであろう。今この瞬間、胸をつまらせるこの重い苦しみから解放されることができれば、と。


私も時には、この「私」という主体、自我、存在の消滅なしにそれはあり得ないんだろうな、とどうしようもない考えに至ることがある。


だけど消すことができない、逃れることができないから、もう丸ごと受け容れるしかないな!と悩み抜いたある時から、思い切りよく明らめることができるようになってきた。




贖罪は、やってもやっても、やり尽くすことはない。借金のように、これだけの金額を返せば自由ですよ、というわけにはいかないのだ。


先人たちが一生かけてそれに取り組んだ結果、わざとらしいほどにきれいで整ったものと、それに矛盾する「悪」が片付けられたという名目で、ある者たちの空間に放置され、そこで醸造されてきた、という景色を今、私は目の当たりにするのである。


仏教の地獄にある、爪でお互いを傷つけ合うことを繰り返す罪人たちのことを聞いて、これもうあるじゃん、と思わずにはいられなかった。


人間の想像力の及ぶ限り(それ以上のものもあるが)の残酷さは、来世を待たずとも、もう十分に展開されてきたではないか。


このままだと不幸になる、地獄に堕ちて一生責め苦を味わいますよ、というキャンペーンが、宗教やスピリチュアルの領域で度々起こる。


しかし、もし今生心を尽くし、善なるものを信じ、誠実に生きた結果、その私の行き先が地獄だとしてもそれが神の采配だと言うなら、愛と信頼ゆえに、一切の反発もなく受け容れるだろう。


しかし、それは私の精神が、比較的大らかな日本の神や仏教に基づき、神には慈悲や保護を見出すからかもしれない。


小此木啓吾と河合隼雄の対談による『フロイトとユング』を読んで以来、日本人の「母性」の強い精神文化と、キリスト教の厳格な父なる神(支配する、裁く、罰する)はベースが違うということは留意している。




生きるていると傷つく、傷つけられたと感じることはある。


どんなに清らかな心があっても、他者、さらには運命、大いなるものにさえ、自分自身が咎められ、罵倒され、嘲笑され、自分は価値も力もない、ただ虐げられるだけの存在としてしか用はないのではないか、ということがどうしようもなく気にかかる、ではなぜこんなにも感じやすい「心」という割に合わないものがあるのか?という怒りで、「神!これはどういうこと!」と泣いたことはある。


私は人間の技=art:宗教や哲学、学芸、科学、法律、生きること、その在り方のすべての底に「何故かわからないけど、こうなること、どうにもならないこと」を認めている。


そのような脳が追いつかない、体が追いつかないようなこととの出遭いが生み出したこと、私達が日々採用してきたことはその内のほんの一握りである。


どんなに線で囲っても、城壁を築いても、それが適わなくなることはどうしても起こってくる。


だけど大嵐の時に外に出る必要はない。

弱っている時に逃げ込める所、隠れることのできる所、自分を支えてくれるもの、励ましてくれるもの、そのような時を過ごすことは決して間違っていることではないと思う。




人は弱い、これはそうだと思う。


たとえ神様が内にいたとしても、どれだけ魂は受容できて平気でも、人間の心と身体には限りがあり、何でもOKで生きていると、ある時急にエネルギー切れになってしまう。


たとえ親子であっても、同族であっても、憧れの存在だとしても、他者の人生、他者の仕事、他者の信仰を丸ごと受容できるほど「私」は大丈夫ではない。


お釈迦様に倣うことはできる。イエス様に倣うことはできる。神様に倣うことはできる。


マザー・テレサのような人にも倣うことはできる。だけど、それは同じにならなくてはいけない、ということではない。


私は、自らの欠落を誰かが埋めてくれるなんてことは絶対にないな、と思っている。

そもそも、その凹みを埋めることもないな、とも思う。


倣うことで学ぶことはあるし、先を行く存在には感謝している。しかし、引き出されたものは必ずしも「期待された答え」だとは限らない。


そうなったら私は、自分の見出したものの方向に進まずにはいられないのだ!


悲しいけれど、じゃあ、あなたの言っていることが正解ということで・・・とその場を取り繕っても後々、耐えきれなくなって泣いてしまうのだから。


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