見出し画像

大人の恋愛小説・マダムたちの街Ⅰ-3

その3 中原家の波乱

 まず、僕が典子さんに「今すぐあなたとの将来は考えられない」と言うと、典子さんは長い手紙を送ってきた。それは出会いからこれまでの僕の言動を分析して僕の人柄を褒めてくれるものだった。読んでいてむずがゆくなるような手紙だったが、悪い気はしなかった。そもそもこういうものを今まで一度ももらった事がない。

 僕は気を良くして、典子さんの気持ちは分かった、少しずつ前向きに考えたいと勿体ぶって返信を書いた。
 更に熱にうかされたような手紙は続く。今度は僕との未来を熱く語る手紙を送って来た。十年後の私たちと称して、その中で僕は典子さんを完璧にサポートする主夫となっている。子供は二人だ。郊外の住宅地に家を建て、猫を何匹か飼い、終末は皆でドライブとか、まるで「もしもあなたが…」の歌みたいだ。読んでいて僕は思わず手紙を取り落としそうになった。しかし本人はいたって大真面目なのだ。
 女というものは本当に不可解だ。

 僕がそんな典子さんを拒否しなかったのを見て、典子さんは更なる提案をしてきた。週一で自分の部屋を掃除しに来て欲しいというのである。
少しは悩んだが大した仕事ではない。僕は承諾し掃除道具をいくつか買い込んで行ってみることにした。

 女性専用マンションの外観は意外にも平凡でありきたりだ。きっと女性専用というのを感じさせないためだろう。

 貰った合鍵で部屋に入る。僕は目を疑った。散らかっているとばかり思った部屋は整理整頓されてきれいだった。どこに掃除の需要があるのだろう。あまり見回すのも失礼なのでオドオドと掃除を始める。しかしどこも汚れてなんかいない。
 もしかすると、このために予め清掃業者を入れたのだろうか。

 結果、この部屋に僕は三日間缶詰になった。典子さんは毎日午後7時には帰ったが、それから二人で僕の作った夕食を食べ、交代に入浴し、酒を飲みながら語り合うという楽しい時間が過ぎた。
 典子さんは酔いが回り途中で熟睡してしまうので僕がベッドまで運び、僕は居間のソファで寝た。
 翌朝僕が起きて掃除と朝食の支度が終わってから彼女は目を覚まし、平然とリビングに現れた。素直に僕の朝食を喜び、しっかり食べて伸び伸びと着替え、機嫌良く出勤して行った。

 自分から見たら相当な自由人だ。ますます分からなくなる。

 僕は長い一人の時間を主人のいなくなった部屋で過ごす。頭に浮かぶのは自分たちの関係だ。家政婦と主人でもなければ、友人でもない。かと言って恋人かと言われるとそうでもない。では一体何なのか。シェアハウスの住人とか?
 いやいや、僕はここに住んでなどいない。考え始めると混乱してしまう。
人と人との関係に、名前などつけるな、と言いたくなる。つけられない関係もある。つまりそういうことだ。

 では自分の彼女に対する本当の気持ちはどうなのか?と問われたら、「少しは嬉しい」と思う。それしかない。
 何故かと言えば彼女が僕を信頼し、気に入ってくれるからだ。僕は自分が信頼されているのが嬉しい。つまり突き止めればナルシズムだ。いや、そう考えるのは自虐的だ。
 一方でこうも思う。僕は誰かのためになっているのが嬉しいのだ。
 そう、それが適切だ。僕は誰かのために役立っているのが楽しくてならないのだ。

 こういう堂々巡りは外に出ると一辺に吹き飛ぶ。例えば商店街に買い物に行き、八百屋の店主と野菜の話をしているだけでぶっ飛ぶ。新鮮で安い野菜を買い込んだ僕はウキウキと典子さんの部屋へ帰り、彼女が好む食材をどう料理するかに頭を悩ますのである。

 現実というものは楽しいがそれきりだ。しかし内面は違う。どこまでも底なしでキリが無い。
 自分を探ればどんどん深みにはまる。が結局何もないという事実に気がつき失望する。
 いったい全体、自分が本当に求めているものは何なのだろう。

 簡単に言えばこういうことだ。彼女が好きなのか?それは分からない。自分が好かれているのは嬉しい。彼女の役に立っているのがもっと嬉しい。だがそれだけだ。欲望は起きない。何が欲望かもはっきりしない。果たしてそれは恋愛と言えるのか。

 四日ぶりに家に帰ると、異変が待っていた。
 玄関のドアを開けて入ると、奥から「お帰りなさい」と女性の声がした。
 訝しげに居間を抜け台所へ向かう。
 エプロンをつけた女性が台所にいて僕を出迎えた。
「こんにちは、お邪魔しています」
 その人は弥生さんだった。弥生さんは夕食の準備中だった。手許を見ると、美味しそうな煮物が出来上がっていた。
「うーん、これは…」
 弥生さんは味噌汁も作っていた。どうも味噌は持参らしい。大きめのタッパーに見たことのない赤味噌が詰まって調理台にあった。
 弥生さんがトレイに煮物を盛った器と和え物、グリルの中から焼き魚を出して並べ、炊飯器から湯気の立ったご飯を茶碗によそい味噌汁をつけると見事な定食が出来上がった。

 「では」と言うと弥生さんはトレイを持ってトントントンと軽い足取りで階段を昇って行った。
 二階のドアをノックする音が聞こえ、ドアが開く音がした。僕は体を傾けて二階を見る。ドアの隙間から兄の顔が見えた。どういう訳か、にこやかないい顔をしている。やけにつるんとした顔だと思ったら髭が無くなっている。

 弥生さんが部屋の中に入って行くと、中から笑い声がした。
 僕はわけが分からず、胸の中がモヤモヤした。
「ええっ?ええ?」
 思わず声を出して、もう一度ドアを見直した。
 ドアは閉められたままだ。

 僕は居間をぐるぐる回って弥生さんを待ったが、いつまで経っても降りてこない。
 散歩をすることにした。夜の散歩だ。

 町内をぶらつき、一時間後に帰った。家に入ると弥生さんはもういなかった。

 台所の後片付けは済んでいて鍋も食器もきれいに洗われていた。
 見たことのないフキンが二枚フキン掛けにかけられていた。

 後日、柏木に頼み込んで弥生さんの電話番号を教えて貰った。
とにかく経緯を聞かなければならない。
 柏木は渋っていたが、これは中原家の一大事なのだ。

「あ、中原和人と言います。先日はどうも…」
「ハイ、どういたしまして」
 電話にはすぐに弥生さん本人が出た。
「兄のことなんですが、…率直に聞きます。弥生さんはうちの兄と付き合っているんですか?」
 沈黙の後、か細い声で
「ハイ…」という声が聞こえた。僕はドギマギして声が出なくなった。
 お互いに黙り込み、僕が口火を切った。
「何でまた。あんな男のどこが良くて…?いや、失礼」
 すぐに返ってきた答えは「そんなことありません」だった。
「とても優しい人じゃありませんか。礼儀正しいし」
「へ、へっ…」
 僕は腰を抜かしそうになった。
「あいつのどこが…。言いにくいことを言いますよ。あいつは、実は何十年にもわたる引きこもりなんです。本当に、他人には恥ずかしくて打ち明けられないのですが」
「あら、そんなことありません!」
 弥生さんの毅然とした声に、僕は一瞬怯んだ。
「お兄さんは…アプリの会社の役員ですよね」
「えっ?」
「そうです!会社を友達三人で立ち上げたと言っていました」
「はぁー?」
 ポカーンとした。その後自然に笑いがこみ上げてきた。
 腹が勝手に波打っておかしさを抑えきれない。
「あなた、だまされてますよ。兄貴が会社持ってるなんて、初耳だ」
「だって、家族には秘密にしていると言っていました」
「まーた」
 兄貴もよくやるもんだと内心呆れていた。
「パソコンでご覧になったらいかがですか?Uショットという会社です。代表者にお兄さんの名前が載っています」
 僕は半信半疑でパソコンまで行き、立ち上げた。
 すぐに画面が現れ、僕は大急ぎで検索した。
「Uショットですか…」
 しゃれた紺と黒と赤のデザインのサイトが現れた。
 会社情報を探す。小さな文字で分かりにくいが、よく見ると取締役として中原慎一の名があった。
 いやいや、これだけでは信用出来ない。
 同姓同名の他人ということもあり得るではないか。頭の中の絡まり合った糸をほぐそうと躍起になる僕に、弥生さんが言った。
「 私は信じます!」
 その後に聞いたのはもっと恐ろしい告白だった。
「 いずれにしても、慎一さんは今あるすべてのものを投げ打って私の家に入ってくれると言っています」
「…と申しますと?」
「私の家は醸造会社なんです。老舗の」
「ハァ…」
「慎一さんは私の家へ、婿として入ってくれると言ってくれました」
「……」
 もう頭がガンガンして整理出来ない。
「そう…なんですか?」
「そうなんです!」
 混乱した頭のまま、挨拶もそこそこに電話を切った。
 だめだ、ちょっと休もう。

 その夜、兄の部屋の前に立って長い時間粘って少しずつ聞き出したのは次のようなことだった。
 Uショットと言う会社の役員になっているのは事実だった。兄によると出資者の一人だと言う。仰天したのはその金額だった。
 なんと一億の金を出したという。
「銀行強盗でもしたのか」
 おそらく、僕の声は震えていた。
「あー思いがけない収入があってね」
「何だよ」
 動悸がし始めた。
「ビットコインさ。よくある話」
「え、ビットコインと言えば…」
「仮想通貨ね」
「いつ買ったんだ?」
「11年前に1500円で100買った」
「15万か」
「あー」
「それがいったい幾らになったんだ?」
「何年か前に一つ200万で60売った」
「するってえと」
「1億2千万だな」
 こんな身近に投資の成功者がいるとは驚愕だった。生唾をゴクリと呑む。
「…で、兄貴はそのUショットの取締役をずっとやってるのか」
「ははぁ、会議には出るぞ。報酬もある」
「じゃ、なんでそこにいるんだよ!出て行けよ!」
 思わず口汚い言葉になる。
 少ししてボソボソと声が聞こえてきた。
「俺はここでゲームがしたいんだよ」
「兄貴、そこでゲームしてたのか」
「ああ…」
「じゃ、その部屋の中にはゲーム用のパソコンが何台もあるんだな」
「馬鹿言え。二台だけだよ。ここは俺の安息地だ」
「ふん」
「何がふん、だ。お前だって俺がここにいてくれた方がいいだろう」
 あきれ果てて声も出ない。
 僕はドアの前にあぐらをかいて座り込み、暫く考え事をしていた。やがておずおずと尋ねた。
「あの、改めて聞くが、弥生さんの話は本当なのか。ゲーマーも止めて弥生さんの家へ入るつもりなのか」
「…まぁな。Uショットの役員も飽きてきたし、そろそろ辞めたいと思ってた。弥生さんの家は父親が病気で跡継ぎがいない。優秀な職人さんはいるそうだ。弥生さんが言うには、俺と結婚して経営の形を作りたいんだと。ゲーマーとしても認めてくれて、婿として経営に加わってくれれば後は好きにしていいと言うんだ」
 よくこんなにスラスラと語ってくれたものだと後になって思った。多分兄は話したくてしょうがなかったのかもしれない。

 その後もポツポツと僕は尋ねた。弥生さんのどこを好きになったのかと。しかし兄は口ごもってはっきり答えなかった。そして、もう一つ重大なことがあった。
 残りのビットコインの行方だ。何と、兄は口座のパスワードを忘れてしまい、ビットコインが引き出せないでいるという。
 つまり堅牢なブロックチェーンの仕組みの中で、兄のビットコインは永久に彷徨い続ける、ということのようだ。
 さすが中原家の長男。ドンくささはこの家の系譜だ、僕はすぐにそう思った。

 久しぶりに柏木と会った。いつもの三角公園だ。
 今日は僕が気を利かせて紅茶とエナジードリンクを買ってきた。柏木は僕の手からポンと紅茶を取ると、にやけた顔を僕に向けた。
「おもしれぇ…、イカレてる。いや、イケてる。…ただの引きこもりじゃなかったんだ。ほんとに羨ましいよ」
 兄の話を聞いて柏木は笑った。
「人間なんて努力より運の産物だよな。強運に勝てる努力なんて殆どないよ」
 僕が言う。
「うーん、そうやって一般論にしてしまうのがお前の悪いとこだろうが」
 うっと言葉に詰まる。
「お前には運をつかみに行くなんて出来ないだろう」
 しみじみと柏木が言う。何故か説得力があった。
「そうかなぁ」
「チャンスがあっても言い訳して見過ごしてしまうから、運が寄りついてこないのさ」
「きついなぁ…」
「俺も同じだよ」
 紅茶をちびりちびり飲みながら言う。
「俺だって大きな事、何もやれてないもんな」
 柏木が自分について語るなんて珍しかった。
「おまえも弱気なところがあるんだな。知らなかった」
 フッフッ…と柏木が笑った。その姿は何だかとても寂しそうに見えた。

 次に自分がするべき事は、父に兄の状況を説明することだった。
 父は長岡に出張中である。

 ある夜、兄の話を僕は父に電話で伝えた。
 兄に聞いた話と家の中で起こったことをありのままに父に伝えるだけだ。
 この家の世帯主は父なのだから。

 父は別段驚きもせず、「ふーん」と淡々と聞いていた。
 説明し終えると、ぽつんと「そうだったのか、なるほど」と呟き、吹っ切れたように言った。
「それならいい。別に俺は何も言わんぞ。慎一の好きなようにやればいい。尤もこれまでもそうしてきたしな」
と自分に言い聞かせるように言った。
「もう40過ぎなんだ。…いや、よかったよ、ホントに。このまま落ち着いてくれたら、俺は何も言うことはない」
と、珍しく落ち着き払った声で言った。
「そうかぁ…」
 じゃ、兄貴にも親爺の話を伝えとくよ、と電話を切った。

 兄の部屋は相変わらずしんとしていた。
 その中で起こっていたゲームの戦い、ビットコイン、起業のあれこれに思いを馳せる。するといろいろと思い当たることがあった。
 兄は実は始終ここにいたと言うわけでは無かったのではないか。

 自分がそう思っていただけで、兄は自分がいない間に自由にこの部屋から抜け出し、家から様々な場所へ出かけていた。そして色々な人と会い、社会人的なこともそれなりにしていたのではないか。

 そう考えると自分のしてきた事が骨折り損のくたびれもうけに思えてくる。
 空虚な独りよがりだった気がして、情けなくなるのだった。

 ここから話はトントン拍子に進む。
 翌月、兄は弥生さんと結納を交わし、家族同士の顔合わせもした。
 向こうの家族は弥生さんと父親代理の叔父さんだけだった。
 料亭で行われたのだが、父も兄も、穏やかでごく普通の平和な家族の顔をしていた。
 二人とも、周りに愛想よく振る舞う大人の態度に僕は感心した。
 半月先には兄は中原家の席を抜き、辻元家に婿入りし、辻元家の長男として新しい生活を始める。

 兄は二階の部屋を引き払って新居へ引っ越した。彼女の実家へ入るのではなく、しばらく近くのマンションで新婚生活を送るのだそうだ。

 父が出張先から帰ってきた。
 移動は軽自動車、角張ったワゴンだ。女の子が乗るようなワインレッド色の車に荷物をギュウギュウ詰め込んでいる。いつものように父を出迎える。
父は「おう」と入ってくるなり僕に笑いかけ、そのまま居間を素通りして兄の部屋へ向かった。
 二階から「うん!」と声がし、下へ降りてきた。
「いやー」
 台所の椅子にかけて辺りをグルグル見回すと、父は
「静かになったな、この家も」と呟いた。
「娘を嫁に出す親の気持ちってこんな風なのかな」
と誰にともなく言う。
「何しに来たのさ」
 僕は少しひねくれた気持ちになった。
「‥家の様子を見に来た」
 その後ボソッと
「俺、今年いっぱいで仕事やめるわ」と僕に向かって言った。
 じゃあ、ここに返ってくるのか、と僕が目で尋ねると察したように、
「 来年からは古川のやってるペンションに手伝いに行くからな」
とニッと笑った。

 古川とは父の友人で早期退職して長野にペンションを建てた人だ。僕は胸をなで下ろし「そうか、それもいいね!」
と明るく言った。

 二ヶ月半のブランクが出来てしまった。
 典子さんと僕はまったく会わず、ラインか電話で連絡を取る程度だった。

 典子さんに誘われて久しぶりにマンションへ行った。
 合い鍵はポストの中に入れてある。不用心だと思うのだが、まだ僕は典子さんに合い鍵を貰ったことがないのだった。

 部屋はこざっぱりしていた。
 何も変わらない。どこを見ても整頓されてきれいだ。いったい何をして待てばいいのだろう。
 一通り掃除機をかけ、あらゆる所を雑巾で拭き、窓掃除までした。持って来た食材で夕食作りを始める。まるでプロの家政婦だ。
 典子さんは午後七時に帰ってきた。夕飯の準備がピッタリ済んだ。
 夕食時に僕は兄の一連の話をした。典子さんはどこか乗ってこなかった。
 この数ヶ月で典子さんは人が変わったように落ち着いていた。
 以前の彼女とは別人のような素っ気なさだった。何を話しても白々しさが漂う。
 つまり彼女は僕に興味を失ったのだった。

 僕は言った。
「もう僕はここに来なくてもいいんですかね」
 すると彼女はキッと顔を向けて
「いや、そんなことはない」
と答えた。
 僕に寄ってきて「今まで通りに週何回かここに通って欲しい」と僕に頼んだ。

 ある日典子さんから電話があり、部屋に大事な書類を忘れたので、会社に届けて欲しいと言う。会社はマンションから徒歩20分。僕はタクシーで向かった。

 ラインに、会社の前に部下をやらせるからその人に渡して欲しいと言う。
タクシーを降りてキョロキョロしていると、玄関ドアの向こうから一人の男性が小走りにやって来た。
 見るからに若々しく颯爽としている。走り方、服装、ヘアスタイルすべてが決まっていた。
 まるでモデルみたいだった。
彼はすぐ僕に気づき、「中原さんですね?」と声を掛けてきた。
「伺っております。書類受け取ります」と僕の渡した封筒を受け取った。
 ありがとうございました、と礼をして帰って行きかけたが、戻って来て
「お帰りもタクシーで、と聞いております」と動き出そうとしているタクシーを呼び止めて僕を促した。

 進められるままに車に乗り、振り返ると彼は笑顔で僕を見送っていた。
 僕は何となく、負けた、という気分になった。気のせいだろうか。
 あれが彼女の部下か。言い知れないショックを感じた。

 それをきっかけに僕はこれまで聞き流していた典子さんの話を振り返ってみた。
 社内の様々な出来事を語ってくれた。実は彼女は部長代理ではなく、総務部の部長だった。年齢も36歳ではなく42歳だった。僕は驚かなかった。なんとなく話の内容に矛盾があるのを感じていたから。

 ある時点まで典子さんは昇進目指して頑張っていた。
総務だけじゃなく他の部署の管理職への気配りと部下たちへの目配り。服装や言動に細心の注意を払い仕事は全力でやった。女だからと言われぬように人一倍頑張った。
 しかし人事を任されて、そればかりではいられなくなった。異動や懲戒免職、評価。厳しい仕事が求められた。

 そこからが問題だった。典子さんの話では、自分で人事AIというソフトを購入したという。個人からである。どういう仕組みか知らないけれど、そこに社内のデータをぶち込んでAIに相談した。するとAIの人事に関する指摘や方針が次々に打ち出された。それらは適切だった。予想を上回っていた。典子さんはすっかりAIを信用した。言うとおりに仕事をこなし、順調だった。だがある時典子さんの身の上に変化が起こった。AIが次に言及したのは典子さん本人だった。
「一番要らないのはあなたです」「今すぐあなたを解雇すべきです」
と宣言したのだ。
 典子さんは動揺した。一夜にして自信は打ち砕かれた。まごまごしているとそのAIは酷い言葉で典子さんをののしり初めた。AIは社内のデータをすべて持っていて、勤務状態からメールの送信内容、通話内容など膨大な個人の言語を分析していた。その結果が典子さん解雇なのである。

 慌ててAIを削除しようとしたが、消えない。何日もかかって友人の手を借りどうにか削除したものの、それ以後、AIに似た人物が画面上に現れて話しかけてくるようになった。次第に典子さんを批判し罵詈雑言を吐く。消しても消しても現れてくる。これは新手のウィルスなのか。典子さんは恐怖に襲われ、とうとう最後の手段に出た。パソコンごと棄てて、新しいものを買ったのだった。
 この一連のことで典子さんは精神が不安定になり体調がおかしくなった。めまい、吐き気、だるさ、喉の痛み…。
 検査の結果、自律神経失調症と診断され、薬を飲み続けたが良くならなかった。
 フラフラになりながら会社には通い続けた。

 典子さんの話を聞き、僕はこのことが自分に気持ちを向けた原因なのかなと思った。
 つまり反動というやつだ。情熱的な手紙、僕へのアプローチもすべて混乱から来る現実逃避の産物かもしれなかった。

 しかしそんな所も含めて僕は典子さんを支えようと思ったのだ。見て見ぬ振りは出来なかった。たとえ自信の崩壊のショックからあのような手紙をくれたとしても、その熱さは自分にとって貴重なものだった。それだけは間違いない。

 谷さんが久々に電話をくれた。箱根の温泉へ行ってみないかと言うのである。以前そんな話をして僕は少し期待していたのだ。
 麻生さんも誘うそうだ。そして、なんと、谷さんは典子さんも一緒に行かないかと言うのである。

 その話を典子さんにすると、予想外の反応が返ってきた。
「いいわ。是非行きましょう」
 何だか嬉しそうだ。
 それなら僕も了解だ。きっと楽しい旅行になるだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?