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「死にたくないけど、生きたくない」について

今日は漫画とはちょっと違った話題。
このところ10代~30代のあいだで「死にたくないけど生きたくない」ひとが増えているように感じる。
かくいうわたしも30代だが、ここ1年で「消えたいなー」と口にしたことは数知れず。
ちょっといまプライベートが大変なことになっていて、笑って話せる時期がきたらそれについても書きたい。

この「死にたくないけど生きたくない」ってなんなんだろうと思い、なにがその原因になっているか考察してみた。
わたしの分析は以下のとおり。

①コロナという特殊な状況
  ↓
②半強制的SNS
  ↓
③ずっと不安でいることへの疲弊
この結果、「死にたくないけど生きたくない」が発生すると考える。

①コロナという特殊な状況について

病原体が蔓延するのは誰のせいとも言い難い。
また、この状況がいつまで続くのかも明確でない。
ここ数百年安定した生活を送ってきた人間にとって、はっきりしない・よくわからない状況が続くことが及ぼす心的ストレスは計り知れない。
この状況は恋人から急に別れを切り出されて、理由を話して貰えなかったときとよく似ていると思う。そういった経験があれば、そのモヤモヤ感(ストレス)が理解できると思う。

このとき真っ先に思うのが「何が原因なの⁉」である。
理由(原因)が明確でないけれど結果だけ決まっているものは、不合理であり納得できないものだが、しかしこの場合少なくともモヤモヤの元凶は特定されている。別れを切り出した恋人だ。この元凶には顔があり、動き回る物理的存在である。
ところがコロナの場合、この病原体がどのように生まれてどこから来たのか明確にはわからないし、目にも見えない。存在が認識しづらい。
人間は古来、怨霊や鬼など目に視えないものに姿(顔)を与え、視認できるようにしてその恐怖と相対してきた。顔が見えるということは、それだけでも「よくわからない不安」という心的ストレスを軽減してくれるのだ。

したがってコロナというのは「発生原因不明で視認もできないが、確実に死を身近に感じさせる存在」。
いまだ特効治療薬もなく、ワクチンも完全ではない。まるごしでサバンナに置き去りにされたような気分である。どこから敵に襲われるか怯え、移動もままならない。
わたしたちが考えているよりも、わたしたちが受けている心的ストレスはずっと大きい可能性がある。

②半強制的SNSについて

IT化の発展はめざましい。
外に出なくても食料を届けてくれるUber、行政サポート用LINE、リモートワークできるPC環境、KPI分析ツールにマーケティング効率化をはかるHUB…
ネットがなければ仕事が成り立たない世の中になった。
わたし自身も漫画はフルデジタルなのでソフトとPC機器、ネット環境がないと仕事にならない。
コロナ以前はTwitterやインスタに旅行の写真をアップし、楽しかった思い出を共有していたはずだが、コロナ禍で旅行にもおいそれといけなくなってしまったので、日常の切り取りや癒しの投稿が多くなっているように思う。

SNSのタイムラインは流れるのが速い。
多くの人に見てもらうにはどんな内容がいいか、どの時間帯がいいか、どんなタグをつけるか、あれこれ考えながら投稿ボタンを押しているひとも少なくないだろう。
Twitterもインスタもアルゴリズムが変わり、アカウント同士の交流が無ければ優良認定しないようになった。つまり、発信だけして他のアカウントへの反応をしないものは無人もしくは広告(釣り)の可能性があると認識されるのである。このアルゴリズムの変更によって、これまでのフォロワー数による優良判定が覆ることになった。相互に反応し合い、SNS使用頻度も高く且つ投稿内容も基準を満たすもの。そういうアカウントが優良ユーザーである。
優良ユーザーに認定されれば投稿が長時間タイムラインに表示されるなど特典がある。見てもらえるのだ。
ユーザーは優良認定されるために投稿し続ける。いいねを送りあい、好意的なコメントを残し、適正な内容を適正な時間帯に狙って投稿する。
本当にコミュニケーションを楽しんでいるひとならばそれでいいが、もし目的がコミュニケーションではなく「優良ユーザーに認定されること」なのだとしたら、こんな苦行はない。
大ホールで大人数の観客を沸かせられるDJやMCに誰もがなれるだろうか?みんなをノセて楽しませることが、365日、何年もできるだろうか?
いまやSNSで人気者になろうと思ったら要求されるのはそういったことである。

このスピード感のなかで脱落していくひとも当然でる。
長距離マラソンを走っているとして、SNSの人気者というのは駅伝選手みたいなものだ。ものすごく速いし、全体の流れを牽引している。周囲からの注目度も高い。
でも一般走者はそのスピードについていけるだろうか。
走るのをやめて歩くひともいるだろうし、離脱して河川敷で漫画を読み始めるひともいるだろう。
一番苦しいのは、駅伝選手についていこうとすることだ。
なぜついていこうとするのか、ここには自分の意思でないケースも多分にあるとわたしは考えている。「そうするしかない」と思い込んでいるひとがいるのではないか、ということだ。
特に人生経験の少ない10代の若者はわりと物事を深刻に捉えがちだ。これには理由がある。

生きていると無駄だなーと思うことをやらされたり、理不尽な体験を数多くする。その結果、若干あきらめにも似た「まあいっか」という楽観視が手に入る。この楽観視というあそびの部分が、非常に重要なのである。
人生経験が少ないと、あそびの部分がない。常に糸がピンと張られている状態である。失敗しないか、恥をかかないか、不利益を被らないか、心配でたまらない。
学校の仲のいい子同士でSNSをやっているなら、半強制的にそこに参加せざるを得ない。やらないと仲間外れなど不利益を被る可能性があるからだ。
結果自分を偽る子も出るだろうし、大幅に時間をとられたり、なにかちょっとした発言で針の筵にされることもある。進むも地獄、戻るも地獄なのだ。
「SNSなんかやんなくてもいーじゃん」という価値観の子がいたとして、それで満足できればいいのだが、誰ともコミュニケーションを取らず一匹狼を貫くのは勇気がいるし、それはそれで寂しいものである。
いまのご時世ネット上で他者と繋がっていないひとなどいないのではないかというくらい、半強制的にSNSに繋がれているのだ。
それなのに、本当の気持ちはどこへも吐き出せない。

③ずっと不安でいることへの疲弊について

コロナはいつまで続くかわからないし自分がいつどこでどうなるかもわからない。
SNSからは逃げられないし、若者であるほど心に余裕がない。
みんなと繋がっているようで、本心は誰とも繋がっていない。
考えてみたらものすごい心的ストレスである。

漫画を生業にしているが、最近は感情を揺さぶられると心的ストレスになるのであまり大きなイベントをストーリー内で起こさないでくれと言われることもある。
ほのぼの日常系、最初から強いプレイヤー、最初から両想い、これなら誰でもストレスなく読めるからと。
ハッキリ言ってなんじゃそりゃ(´_ゝ`)である。
エンタメをエンタメとして楽しめないほどに、今の日本は病んでいる。

欧米は学校や職場にカウンセラーがいて、相談できる体制が整えられている。職場でショックな事件が起こったあとなど、復職の際にはカウンセリングを受ける決まりまである。
しかし日本は精神ケアの面においてほとんどなんの対策もしていない。
心療内科はいつ電話しても1ヶ月先まで予約でいっぱいだし、同僚が自殺しても職場のケアもなく通常通り業務を運行させる。人身事故で電車が止まってるというニュースを見かけると、「ああ、月曜だしな」で済ませてしまう。それくらい麻痺している。
日本は世界でも有数の鬱病大国なのになんの対策もしていないのはちょっとおかしいを通り越して異常である。
ホフステッドの社会学論によると日本は「男性的文化」、つまり体育会系。話し合うより力技でなんとかする体質である。
この結果、心的ストレスを抱えたひとに対して「弱い」とか「甘えてるだけ」とかいったタグを貼り、ついてこられないやつは置いていく。
しかしこれだけ多くの人が心的ストレスを抱え、日常生活に少なからず異常をきたしているのに、置いていく措置しか取れないならばそういう社会は遠からず破綻する。

死にたくないけど、生きたくない

もういい加減ずっと不安でいることに耐えられない、いまギリギリの状態、その悲鳴が「死にたくないけど生きたくない」なのではないかと思う。
ITはあらゆる作業を効率化したが、人生そのものが効率化できるわけではない。思わぬ落とし穴があったり、予測しなかった出来事が起こったりする。
しかし、決してそこで終わりではない。
そこで終わりにさせない環境をつくっていく必要がある。
心の疲労を取るための手段が、もっと手軽で複数あるといい。
誰かに話したいと思うひともいるだろうし、ひとりで自然の風景を見ながらじっとしていたいというひともいるだろう。
何にも縛られずこの世の心配事すべてから解放される瞬間が、そういう余裕が、生きていたら皆に必要なのだ。

心は見えないけれど人間がポジティブに活動するためのエンジン。
そのエンジンを修理する場所の必要性がもっと認知されてほしい。

わたしの好きを詰め込んだマンガですが、届いてくれることを願って。応援いただけると本当に嬉しいです。