私が発達でヤンデレなのは、やっぱりアナタのせいに違いない【1】
1971年4月、東京下町の産婦人科で、小さなあかちゃんが産声をあげた。
33歳の父、30歳の母、6歳の兄という、ごく平凡な一家の長女として、私は生まれてきた。
私と兄は同じ産婦人科で取り上げてもらった。
私が生まれた時のことを、母は
「『癒瑠(仮名)さんのお子さんはいつも小さいですねぇ』って先生が言うのよ!
7年経ってもそんなこと覚えてるのねぇ! ってびっくりしたわよ!」
と、事あるごとに言っていた。
子どもの頃、男の子向けの特撮やアニメばかり見ていた。
チャンネル権が兄にあったから。
「魔女っ子メグちゃん」や「ひみつのアッコちゃん」は夕方の再放送で見て、オンタイムで見ていたのは、男の子向けの特撮やアニメだった。
当時の特撮はひたすら怖かった。
怪人が浄水場に毒を撒いたり、幼稚園バスを襲撃したり、それを見て眠れなくなるほどだった。
たとえヒーローが敵をやっつけたとしてもだ。
それに、鬼ごっこでもいつもみそっかすの、兄と歳の離れた妹は、ヒーローごっこに混ざれない。
その頃は、カッコいいヒーローには、特別な思い入れはなかった。
でも、ある時、特撮に出てくる女性ヒーローに目がいくようになった。
ビジンダー(変身前を演じていたのは志穂美悦子さんだ)、電波人間タックル、モモレンジャー。
私は彼女たちのことがだんだん好きになった。
やがて
(大きくなったら、ある日突然「あなたは地球を守るモモレンジャーです!」って言われたりするのかな!? そしたらちゃんと戦えるかな!?)
本気でそう思うようになった。
幼稚園の頃「がんばれ!ロボコン」のロビンちゃんが大好きだった。
ロビンちゃんはロボットのお姫様でバレリーナ。
演じていたのは、後にミュージカルスターになる島田歌穂さんだ。
チュチュスカートを着てタイツを履いて、優雅に踊る。
細い手脚をひらめかせて踊る美少女のロビンちゃんは、私の憧れだった。
母に
「ママ! クラシックバレエやりたい!」
と、本気で直訴したこともある。
本物のロビンちゃんになりたかったのだ。
だが、母はいい顔をせず、いつの間にか有耶無耶にされてしまった。
(そうか、ロビンちゃんにはなれないのか… ママから見た私は、ロビンちゃんのようにかわいくはないのか…)
自分の容姿について初めて思い悩んだのは、この時だった。
ある日突然、家にピアノが運ばれてきた。
6歳の頃だった。
その頃住んでいたのは古い一軒家で、2階にピアノを上げるために、道路に面したベランダの柵をいったん外し、そこから部屋に納めたことまで覚えている。
私が、どうしてもピアノを習わせて欲しいと熱烈にお願いしたわけではない。
ジャズが好きな父が、ピアノを買ってくれたのだ。
もう少し大きくなった頃、父が、ジャズピアノの教則本を買ってきて
「これやってみれば?」
と言った。
が、クラシックの先生にクラシックの曲を習っていた私には、コード理論が身につかず、結局ジャズピアノは弾けるようにはならなかった。
父の期待に添えず、ちょっと申し訳なかったな、と思っている。
父は、戦後の混乱期に思春期を迎え、家庭の事情で勉学もままならなかったそうだ。
そして、後に聞いた話では、その頃の父は、経営していた小さな工場の経営不振で、いくつかの仕事を掛け持ちしていた。決して裕福な暮らし向きではなかったはずだ。
それでも父は、父自身が子どもの頃に苦労した経験から、自分の子どもには、できる限りの楽しい経験や教育を与えてくれていた。
父は、オープンしたばかりの東京ディズニーランドに、車で何度も連れて行ってくれた。
ランドに行くと父は、ドナルドダックのぬいぐるみを見かけるたびに、それを手に取り
「ダックちゃんいるか? 買うか?」
とやたら勧めてきた。
私は何となく
「いらない…」
と言い続けていた。
でも、時にうっとうしいほどの愛情をかけてくれる父のことは、大大大好きだったし、今いちばん好きなディズニーキャラクターは、ドナルドダックだ。
小学生になったばかりの頃、テレビで「コスモス」という番組をやっていた。
カール・セーガン博士(いけめん)が、宇宙の歴史や不思議をロマンティックな映像とともに語る、今でも伝説に残る素敵な番組だ。
私はこれをとても楽しみにしていた。
「コスモス」を見逃がさないために、近所の銭湯に行く時間をわざわざずらしていたほどだ。
「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」も大好きだった私は、やがて本気で宇宙飛行士になりたいと思うようになった。
小学校では勉強ばかりしていた。先生からの評価もよかった。
ただ、頻繁に手を洗いたくなるのだ。
休み時間でも、授業中でも、手が気になると
「先生! 手を洗ってきます!」
と、おもむろに席を立って、教室の後ろの洗面台でくりくりと手を洗った。
ひとコマの授業の間に、だいたい一度は手を洗っていた。
洗い終わるとすぐに着席して授業に戻ったので、先生から訝しがられることは、それほどなかった。
そして、私は本の虫だった。
小学校に入学する前に、ひとりで新聞を読んでいた。
といっても難しい記事の内容まではわからないが、テレビ欄を見て
「ドリフでるよー!」
なんて言っていた。
小学生になると、親が近所の書店に話をつけてくれて「ツケ払い」をさせてくれた。
私ひとりで書店に行き、好きな本を選び、店員さんに
「これください!」
と言えば、店員さんがその本をチェックして、毎月親に請求書がいく。
どんな本でも買い放題、読み放題だった。
漫画より、文章がたくさん書いてある本のほうが好きだった。
いちばんお気に入りだったのは、学研の学習まんが「ひみつシリーズ」だ。
後に引っ越しで捨ててしまったので今は手元にはないが、ひみつシリーズの新刊が出るたびに買っていたので、シリーズのほとんどを読んでいた。
そして、小学校低学年の頃から、大人が読む文庫本も読むようになっていた。
やがて、宇宙飛行士になる夢と同じくらい、作家や、文章を書く仕事が夢になっていった。
私が小学2年の時に、下町から、東京都府中市に引っ越してきた。
父が、それまで経営していた小さな工場を畳み、別の職に就いたからだ。
親は兄に、それなりに勉強して、できれば大学まで行って欲しかったようだった。
が、兄はとにかくやんちゃで、勉強が嫌いだった。
勉強が苦手なわけではなかったと思う。勉強そのものが嫌なのだ。
母はそんな兄を「意思薄弱」と罵っていた。
それも
「あなたは本当に意思薄弱なんだから…」
という感じではない。
「いーしはーくじゃーく!
いーしはーくじゃーく!
いーしはーくじゃーくのおにーちゃん!」
と節をつけて歌うのだ。
幼い私も、深い意味がわからず、母といっしょにそれを歌っていた。
兄がどれほど深く傷ついたか、聞いてみたいものだが、もうそれも叶わない。
兄は50歳で、アルコール依存症で他界したからだ。
私は間もなく、その兄と同い年になる。
親の期待を勝手に背負わされた兄は、都立高校ではなく、私立の大学附属高校に通っていた。
が、ヤンキーになった。
兄が高校生の頃、ある日、家に男の友人を何人か連れてきた。
その日の夕食の時間、一家団らんの時間が、地獄の説教タイムになった。
いつもは優しい父が、顔を真っ赤にして、グーで兄を殴っていた。
母は泣いていた。
私は
(何をしたらこんなにお父さんお母さんに怒られるんだろう… ばかだな、お兄ちゃん)
と、冷めた目で兄を見ていた。
後に知ったのだが、その時、兄は友人たちと部屋でシンナーを吸っていたらしかった。
それ以降兄は、その友人たちを家に連れてくることはなかった。
兄は結局、大学には進学せず、高校を卒業後、大手自動車メーカーに就職した。中古だが自分の車を買い、派手にチューンアップして乗り回していた。
私は、親の期待通りに大学に進学するのは当然で、自分の知識を活かした仕事に就くべきだ、と思うようになった。
高校受験のため、ある進学塾に通っていた。
特進クラスがあり、有名私立校を目指す生徒も多いところだった。
私は中学2年からそこに通っていた。
その塾は多摩地区で何箇所か教室があり、私はその塾内テストで、毎回のように首位争いをしていた。
そこで陰湿ないじめに遭った。
特進クラスの男子が、私が教室に入ると、聞こえるか聞こえないかのか細い声で
「ブスゥ……」
「デブゥ……」
とつぶやくのだ。しかも何回も。
(ああ!? 私はそんなにひどいのか!?)
と、猛烈に落ち込んだ。
彼ら(複数人)と同じクラスになりたくなくて、特進クラスから普通クラスにわざと落としてもらったりしていた。
が、後に、私をいじめていた奴らのほうが、特進クラスの基準に到達せず、普通クラスに落ちてきた。
また、陰湿ないじめに晒されることになった。
授業中にまでブスゥデブゥが飛んでくるようになり、授業の内容も頭に入らなくなった。
私は登塾拒否になった。
もともと進学塾なんて、行く義務はない。進研ゼミだってある。他の塾だってある。
どうして、私をいじめる奴らが待ち構えている塾にわざわざ行かなければならないのか。
勉強も手につかないのに!
塾の日が来るたび、私はぎゃんぎゃん泣き叫び
「絶対行かない!」
と言い続けた。
母は
「塾なんて入試が終われば行かなくていいんだし、いじめなんか気にしなければいいじゃないの。行きなさいよ、勉強になるんだから」
と言った。
「はぁ!? お母さんは私がブスだのデブだの言われてもいいの!?」
「関係ないじゃないのそんなこと! 塾は勉強しに行くところでしょ!」
「関係ない!? そんなこと!?」
もはや母には何を言っても通用しなかった。
結局、頑として家から出ないという強硬策と、塾の事務室で
「いじめられた! いじめられたからもう来ません!」
と泣き喚くことで、中学3年の2学期で、その塾をやめた。
高校受験の結果、私は、家から最も近いということで選んだ、国際基督教大学高等学校に合格した。
私をいじめていた奴らで覚えているのは、早稲田実業に合格した奴がひとりいたくらいで、それ以外は平凡な高校にしか合格しなかったようだった。
心からざまあみろと思った。
部屋の隅で子猫が、にゃあんにゃあんと泣いていた。
激しく身をよじって、いやだいやだと泣き続けていた。
私は子猫に言った。
「ねえ、あんたも辛かったと思うけど、辛かったのはあんただけだと思うなよ。
他人への攻撃なんて、みんな頭で考えて自覚してやってることばかりじゃないんだよ」
子猫は泣き止まなかった。
いつまでも、おれのせいじゃないにゃん! と、泣き続けていた。
ブスゥデブゥの呪いから逃げるため、高校では陰キャを貫き通した。
幸い、クレバーな学生ばかりの高校だったので、陰キャいじりで凹むこともなく、堂々とサブカル陰キャ生活を謳歌することができた。
大学受験の時期になった。進路を選ぶにあたり、理系を選択した。
でも、高校での成績は、化学と現代文は飛び抜けていいが、それ以外は平凡。
しかも数学と物理は赤点寸前と壊滅的で、正直、理系を選択するのはかなり厳しかった。
化学科に進み、宇宙飛行士や研究者になるか。
文系に進み、文章を書く仕事をするか。
その時点では、自分の中では、文章を書く仕事のほうがウエイトは重かった。
当時は今のようにメディアの種類そのものが多くなかった。
それこそ新聞か雑誌しかなかった時代だ。
一般的には、文章を書いて仕事にするには、文系のそれなりの学歴が必須と思われていた。
それでも理系を選択したのは、宇宙飛行士になりたかったからではない。
文系に進むことを、母に強く反対されたからだ。
勉強に関することは母の担当で、父は、大学に行くか行かないか程度しか口を挟むことはなかった。
ある日、母にそれとなく
「文系に行きたいんだけど」
と伝えた。
母は
「文系なんか進学してどこに就職するのよ…」
と言った。
私は
「D通とかH報堂とか」
と返した。社名はとっさに出ただけで深い意味はない。
母は呆れた様子で
「そんなところ行って何するのよ…」
と畳みかけてきた。
当時はバブルで、大卒なら引く手あまただった時代だ。文系だからと就職口がないような時代ではない。
でも、学費を出してくれているのは親で、親の言うことは絶対だった。
母のひとことで、私は文系への進学を諦めた。
その当時、サイエンスライターという職業を知っていたら、サイエンスライターという仕事がもっとメジャーだったら、理系に進学した上で、それを目指したと思う。
しかし、その時の私は、もう文章を書く仕事には就けないだろうと、ある程度諦めてしまった。
結局、消去法のような形で、私は、国際基督教大学教養学部理学科に進学した。
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