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ワタシが発達でヤンデレなのは、やっぱりアナタのせいに違いない【2】

小学校でも、中学校でも、高校でも、不登校にはならなかった。
ハブられかけたこともあったが、学校に行かない、という選択はしなかった。
が、大学に無事入学したと思ったら、いきなり環境になじめず、授業に出られなくなった。

大学というのは、自分で履修する科目を決めて、履修登録をし、毎時間違う教室で違う授業を受ける。
同じ授業でも日によって教室が変わったりする。
それがだめだった。
たったそれだけのことになじめなかった。
高校までの、毎日同じ教室の同じ席で同じ先生に勉強を習う、が平気だっただけ。
教室の移動、指導員の変化、それ自体についていけなかった。

はじめのうちは、勉強がいやなのかと思っていた。
確かに、私の進学した大学は、勉強は簡単ではない。
まして理系だ。
だが、そのうち、聞いていれば単位が取れる授業にも出られなくなった。
(あれ…? どうしたんだろう、私…)
自分がどうしたいのか、何をすればいいのか。それがもう、きれいさっぱりわからなくなってしまったのだ。

春学期早々、大学のカウンセリングセンターに泣きついた。
「環境の変化が…だめみたいなんです…」
その当時はその程度しか言えなかった。
カウンセラーにも「環境の変化」以上のことがわかるはずもない。
大学に来ていた精神科医経由で、抗うつ薬が処方された。
私は、生まれて初めて、精神科の薬を飲むようになった。

心に傷を負った、別の理由もあった。
大学デビューでやらかしたのだ。
1年の夏休み、私は、ある先輩と一夜を共にし、処女を捨てた。
たまたま先輩の家に遊びに行ったのがきっかけで、向こうに手を出されたようなものだった。
お互い「遊び」のつもりだった。
なるべく人に話さないようにしていたが、人の口に戸は立てられない。
早晩噂になった。
が、その噂が
「あの先輩、よりによってあいつに手ぇ出したみたいよ…w」
という伝わりかたをしてしまったのだ。
噂が広まり、先輩が怒って電話をかけてきたこともあった。
「お前が言いふらしたんだろう!」
そういうわけではなかった。
だが、どう言い訳をしても、向こうは聞き入れる気もない。

ブスゥデブゥの呪いがまた発動した。
(やっぱり私は、人として、女として認められないんだ)
冬になる頃には、もうすっかり授業に出られなくなっていた。

授業に出られなくなった代わりに、私は、サークル活動にどっぷりのめり込んだ。
大学の週刊新聞サークル「The Weekly GIANTS」。
私の大学生活とは、そこで記事を書くことと同義になった。
1970年代に、学内スポーツ紙として創刊した、通称「ういじゃん」は、公認サークルとして活動費をもらうのではなく、新聞を売って独立採算制をとることで、中立な報道ができるとし、学内の様々なトピックを取り上げていた。
なぜか私の代のアクティブな部員が、私含めて3人しかおらず、記事を書くチャンスは毎週のようにあった。
記事は、先輩たちの厳しいチェックを経ないと掲載できない。何度も何度も書き直した。
それでも、掲載される喜びには代えられなかった。
新聞は、金曜の夕方、簡易輪転機で刷り、ホチキス留をして完成。
新聞スタンドで販売したり、定期購読者の個人メールボックスに配布したりしていた。
発行作業の後、みんなで毎週打ち上げをした。
サークル活動は楽しかった。
毎日与太話をし、部室で漫画を読み、音楽サークルに混ざって歌を歌った。
そのうち「ゆるふわに会いたいなら、授業ではなくD館に行け」と言われるようになっていた。
D館とは、ICUの文系サークル棟のことだ。
(現在の旧D館)
教会の裏に建っており、建物の古さと相まって、サブカル陰キャのすくつ()のような、瘴気あふれる場所だった。
いつしかそこが、私の大学での居場所になった。
親に対するアリバイ作りの意味もあったが、毎日家を出て、大学には向かう。
でも、授業には出られない(出ない)。
D館で遊んでいる。
今にして思えば、D館にこもってでも「大学に行く」ことを放棄していないことに、むしろ驚く。
いっそ不登校になっていれば、もっと早く別の対処ができたかも知れないのに…

2年の時だったと思うが、私はある教授との個人面談でこう言われた。
学内に住んでいた教授なのだが
「私が妻と車で出かけていたら、歩いているあなたを見つけた。
妻が『あの子は何か大変な問題を抱えているの?』と言っていた」
と。
歩いているだけでも心配されるほど、当時の私はヨレヨレボロボロだったということらしいが、自分にわかるわけがない。
「はぁ…」
と力なく返事をすることしかできなかった。
勉強についていけないわけではなかった。
数学はだめだったが、受講すれば何とかしてくれる授業もあった。
が、そもそも授業に出ること、例の先輩やその周辺の人たちと顔を合わせること自体が怖く、もはや大学で勉強するという目的はどこかへ行き果ててしまった。

その頃、もうひとつの大事件があった。
母が、持病の脚の手術のために、半年近く入院したのだ。
母は先天性の股関節変形症で、私が幼い頃から病院にずっと通っていた。
相当痛かったらしいのだが、無理を重ねてパートに出続けた。私が大学を卒業するまでは、と、手術を拒否していたのだ。
が、ある日とうとう痛みで一睡もできなくなり、人工関節への置換手術のために長期入院した。
私は、母が入院していた間、どうやってごはんを食べていたのか、全く覚えていない。
父は会社員で、私より早く起きて出勤し、私より遅く帰ってくる。
私は料理なんか何一つしなかった。
父が毎日料理をしていたわけでもない。
そんな「生活の基本」もわからなくなった。

そんな生活を送っていたら、当然GPAはだだ下がり、やがて進級もままならなくなってきた。
どうしようもなくなり、私は大学を半年ほど休学し、ある出版社でアルバイトをした。
アルバイトにはすんなり行けるのだ。
仕事は楽しかった。
出版業界の現役社員さんたちと関われることも楽しかった。
いずれ私も、出版関係の仕事ができたらいいな、と思うようになった。

アルバイト期間が終わったら、また元通りだ。

そして決定的なことが起きた。
本来なら卒論も書き上げていなければいけない時期だ。
昼近くに起きて、テレビをつけた。
関西が崩壊していた。
神戸市長田区に住んでいた友達もいた。(後に無事がわかったが、家は全壊したそうだ)
意味がわからなかった。
自分の日常というのは、たった数十秒でめちゃくちゃになるのだ。
私の心の中もめちゃくちゃになった。

私は化学専攻だったため、卒業研究をしなければならなかったのだが、結局研究室そのものにも行けなくなった。
その頃、最後の出版バブルの時期だった。
休学中にアルバイトをしていた出版社が、新しく雑誌を創刊するので、編集部で働かないか?と、声をかけられた。
契約社員待遇で雇ってくれるという。
とんでもない棚ぼただ。神風だ。
できもしない卒研より、出版業界の現役社員になる道のほうが、楽しいに決まってるじゃないか!
…そう考えるなというほうが無理だろう。
私は大学卒業を諦めた。
卒研担当教授との面接でも
「私、就職するので!」
と、高らかに宣言した。

大学を中退した私は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった有名出版社に、契約社員として潜り込んだ。
社会人編のスタートだ。

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