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『あの子のこと』(26)「あやのさん」

「若葉先生。少しお時間を頂けますか」
 午前のスポーツヨガクラスを終えると、珍しい人から声が掛かった。
 あやのさんだ。
 会うたびに、体の芯から金色の粒子が発されるような存在感に気おされる。
「どうされました」
 辞めると言い出すのではないかとびくびくした私を、彼女は裏切った。
 
「子供が出来まして」
 ミーティングブースに腰を掛けるなり、彼女は嬉しそうに切り出した。
「ただし各メディアには出産してから報告するつもりですので、この件は内密ないみつにしていただきたいのです」
「ではしばらくお休みになりますか。妊娠を周囲に伏せるならば、マタニティクラスもお勧めいたしかねますし」
「そうですよね。ヨガは続けたいのですけれど」
 彼女は見た目の華やかさとは裏腹に、ファッションや友達作りでヨガに通っているタイプではなかった。
 こつこつと目標を決めてストイックに取り組むタイプなのは、ヨガを教えていてもひしひしと感じる。

「あの、少しお伺いしたいのですが」
 あやのさんが上目がちに私をうかがった。
「こちらのスポーツクラブでの勤務の他に、個人レッスンや出張レッスンなどはなさっているのですか」
「いえ、こちらで教えているのみです」
「そうですか」
 あやのさんはしばらく考え込んでいるようだった。

「実は出張スポーツヨガクラスを定期的に開いていただけたらと、かながわカナリオンの有志で話が持ち上がっておりまして」
「ご主人のクラブでですか。外部の人間を入れても問題ないのですか」
 これはチャンスかもしれない。私は思わず身を乗り出した。

「あくまで自主トレーニングの一環となりますが、事情を理解してくださる方だけで集まろうと考えています。選手の家族中心で、女性が多めになると思います。謝礼等については先生のご希望で」
「開催するとなれば、まずは単発でクラスを開いてみてはいかがでしょう。どちらにせよ少し先の話にはなりますよね」
「ええ、そうですね。差し支えなければ正月休みの週あたりにでも」
 あやのさんはつややかなボブをゆるく搔き上げた。
 
 バイトを二つ掛け持ちする日々がいつまで続くのだろうと、絶望的な未来が時折胸をよぎる中の出来事だった。
 企業に所属するインストラクターとしての経験しかないから、不安な所もある。
 しかし、プロスポーツ選手相手に指導実績を積めば、スーパートレーナー契約に変えてもらう事も、さらには独立も出来そうだ。
 東京と横浜の境界線上をさまよう日々に終わりを告げるきっかけは、突然にやって来た。
 
 私は番号を聞いたままで一度も連絡を入れていないSNS番号を押して、ショートメッセージを入れた。
「ゆいっぺどした」
 直ぐにコールバックが入った。
「仕事で相談したいことがあって。会って話したいんだけど、時間ありますか」
「レストランの?」
「いや、ヨガの方。上手くいけば独立できるかも」
 陽さんは、弾んだ声で今夜仕事終わりに会おうよと言ってきた。


 レストランでの仕事を終えた私は、拓人さんに見送られて車上の人となった。
「この前の所でいいね」
 私たちを乗せたファミリータイプのワゴンは、幹線道路を道なりに進んだ。

 郊外の深夜はどこも似たり寄ったりで、明かりの消えた看板に似通った作りのマンションが街路がいろにぼんやりと浮かび上がっている。
 先日駐車したコインパーキングはがらがらで、陽さんは難なく車を止めた。
 こじんまりした隠れ家バーのようなカフェバルの階段は、相変わらず急で狭い。

「いらっしゃい」
 すらっとした長身にジョン・レノンのような丸眼鏡の店主が、メニュー片手に声を掛けてきた。

「ショスタコーヴィチのプレリュードか」
 陽さんのつぶやきを聞き逃すことなく、店主が水とおしぼりを置きながらうれしそうに話しかけてきた。

「プレリュードとフーガ ハ長調。キース・ジャレット版ですよ。お客様はピアノ曲がお好きで?」
 店主の話に付き合い始めたら私の相談どころではなくなると思って、私は陽さんをちらりと見た。

「兄が練習していたもので。私は門外漢もんがいかんですよ」
 にっこりと笑うと、陽さんは話の続きを断ち切るように、メニューを隅から隅まで見回した。
 伊藤先輩がコーヒーをゴリゴリする時に歌っていたビル・エヴァンスの曲に、何となく似ていると私は思った。

「で、話を聞こうか」
 陽さんは、お冷を飲むと私に向き合った。 

※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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