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『落研ファイブっ』第二ピリオド(12)「大人の階段上る君は(下)」

 日本で一番ハードなコンクール――通称・生き地獄――本番前日のゲネプロ(通しリハーサル)を終えて帰宅した松尾に、落語研究会のグループSNSが入った。
「全く話が見えない。小柳屋御米師匠こやなぎやおこめししょうが僕に連絡を取りたいだと」
 松尾が三元さんげんに返信をすると、すぐに松尾のスマホが音を立てる。

『どうも松田さん。本番前のお忙しい所に済みません』
 小柳屋御米こやなぎやおこめは、開口一番かいこういちばん松尾に謝ってきた。

「いえ。どうされました」
『お宅の新入部員さんの件ですがね。津島のお坊ちゃんは菊毬師匠きくまりししょうの預かりで一件落着として』

「ええ、ええ。えええええっ?! 色川いろかわ先生に長津田ながつだ君を引き合わせるんですか。僕が」
 思わず大声を上げた松尾に、隣でスマホをいじっていた千景ちかげがぎょっと顔を上げた。

『本番が終わってからで構いません。色川先生の事ですから、きっと明日は会場に足をお運びになると思いまして。僕が落研さんに部活動指導員を紹介する段になって、引き受け手に恨まれるような状態でも困りますし』

「では指導員の話も固まりつつあるのですか」
津島つしま家の坊ちゃんが落研に入った以上、部活動指導員の採用には理事長も首を縦に振る以外にはないですから。一並ひとなみ学園の設立には津島家も尽力じんりょくしたとのことですし、それに』
 松尾はごくりと唾を飲んだ。

『松田さんがこの間共演したオーケストラの財政危機も、津島つしま家が動いて事なきを得たぐらいです。日本の芸術・演芸界で津島家の果たした役割を考えればねえ。『国際コンクールで最年少優勝を果たした話題の新進ピアニスト・松田松尾』に津島家との繋がりが出来た事は、全くもって僥倖ぎょうこうですな』
 口ぶりこそ柔和ではあったが、松尾に否とは言わせぬ押しの強さである。

『色川先生は昨年退官されたばかりで若い世代との会話に飢えているのです。だから音楽が好きな長津田君を紹介しようと。松田さんも色川先生の長電話攻撃から逃れるチャンスでしょうよ。では、よろしくお願いしますね。松田さんにとっても悪い話ではないですよ』
 それきり一方的に通話が終わり、松尾はしばし目を虚空にさまよわせた。


「どうしたの」
 通話を終えた松尾の顔色が優れないのを察した千景ちかげが、心配そうに松尾を見つめる。
「僕も大人への階段を、否応いやおうなく登らせられる時が来たようです」
 松尾は大きく息を吸うと、連絡が入る一方の電話番号を表示した。

※※※

 元日吉ひよし大学文学部美学科の名物教授にして音楽評論家おんがくひょうろんか色川いろかわはとにかく話が長い。
 その上、一つ一つの単語を定義する所から話をするのが大好きだ。

「色川先生、詳しい事情は小柳屋御米こやなぎやおこめ師匠に」
 色川に長津田のメールアドレスと用件を手早く伝えると、松尾はすべてを丸投げしてさっさとベッドに立てこもった。

 その甲斐かいあってか、おとろえを知らぬ夏の日差しに顔をなぶられる頃には、松尾の目ははっきりと冴えていた。

「松尾ちゃんおはよう。今日は朝からパスタなの」
「カーボローディング用です」
 物音に気が付いたのか、いつもは目覚ましにたたき起こされるまで目の覚めることのない千景ちかげが松尾に声を掛けた。

「今日は『落研ファイブっ』も本番ね」
「本番日程さえかぶらなければ、絶対に行きたかったのですが」
「仕方がないわよ。松尾ちゃんだって一世一代の大舞台なんだもの」
 深皿にパスタを移しつつ、松尾はそれでも一緒にいたかったとつぶやいた。

※本作はいかなる実在の団体個人とも一切関係の無いフィクションです。

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