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チョートン・ハウスのガーデン / エドワード・オースティン・ナイト【ジェーン・オースティンが好き】

イギリス、ジョージ王朝時代の小説家、ジェーン・オースティン。
彼女の小説は、「分別と多感」「高慢と偏見」「エマ」「マンスフィールド・パーク」「ノーザンガー・アビー」「説得」の6作品が出版され、現在まで読み継がれています。

ジェーンは、ハンプシャー州スティーブントンの牧師館で育ちました。兄弟、姉との仲が良く、彼らと生涯を通して交流を持ち続けました。今回は、その中で異例の経歴、大富豪のジェントルマン(紳士)になった兄エドワードについてお話ししたいと思います。

前半は、エドワードの生い立ち

後半ではチョートン・ハウスについて。「Pride and Prejudice / 高慢と偏見」の小道もご紹介します!


Pride and Prejudice Rose

生い立ち

ジェーン・オースティンズ・ハウスにあるエドワードの肖像画。
©Jane Austen's House

エドワード・オースティン・ナイトは、ジェーン・オースティンの兄で、オースティン家の3男。15歳の時に父方の親戚にあたるナイト家の後継者となるため養子になりました。ナイト家は、ケント州とハンプシャー州に領地を持つ大地主。ジェーンの父ジョージ・オースティンが、スティーブントン村の牧師となったのは、血縁関係のあるトマス・ナイトから、ナイト家の領地であるハンプシャー州スティーブントン村の教会牧師の職に任命されたからでした。トマス・ナイトが亡くなると、息子のトマス・ナイトⅡがナイト家の領地を相続しました。

トマス・ナイトの肖像画。
Thomas Knight (1701 - 1781), the 9th Squire of Chawton
©Chawton House 

トマス・ナイトⅡとエドワードの出会いは、結婚したばかりのナイト夫婦が、ハンプシャー州の領地をめぐるハネムーン(ウェディングツアー)の途中でスティーブントンへ立ち寄った時でした。その時に(ジェーンは5歳だった)オースティン家のエドワードを気に入り、その後のハネムーンにエドワードは同行。当時のハネムーンは今とは違い大勢の人々を従えて旅する形式で、エドワードが一緒に行ったとしても、ハネムーンに大きな影響を与えるようなことはありませんでした。その数年後、ナイト家の若夫婦は子供に恵まれず、後継者としてエドワードが抜擢されました。


1783 William Wellings silhouette marking the adoption of Edward Austen
by Thomas and Catherine Knight 
ナイト夫妻にオースティン氏がエドワードを紹介している場面。この作品は、ナイト家への養子が決まった時にナイト夫妻からオースティン家にプレゼントされた。
©Chawton House Library

オースティン家にとって、3男エドワードがナイト家に養子へ行くことは幸運なことであり、それによって、のちにジェーンはエドワードの領地となったチョートン村の家で暮らし、執筆活動に集中できる環境を得ることになりました。

グランドツアーの間に、イタリアにて制作した肖像画
©Chawton House 

オースティン家の兄弟は大学へ進学しましたが、エドワードだけは家庭教師(父のオースティン氏から?)様々なことを学び、18歳の時にグランドツアーへ【1786‐1790年の間】出かけました。グランドツアーは、紳士のたしなみとして必要不可欠なもので、良家の男子はヨーロッパ各地を旅して見聞を広めます。エドワードが滞在したのは、ドレスデンの宮廷。その後イタリアのローマに渡りました。

エドワードが、ナイト夫妻のハネムーン以降、たびたびケント州のゴッドマーシャム・パークへ滞在する話が出たとき、父ジョージが心配したのは、エドワードに今まで通りのラテン語のレッスンを出来ないことでした。「ご親戚のナイト家のためにもエドワードを養子にさせてあげましょう。」と説得したのは、母親のカサンドラでした。教育に理解のあったオースティン家では、女子のカサンドラやジェーンも子供の頃に寄宿舎の学校へ通わせ(当時は、大人数の子供の世話が難しいから女子を寄宿舎に送るという考え方もあった)、ジェーンには持ち運びできるライティング・テーブルをプレゼントしました。

エドワードは、13歳の時にナイト夫妻と出会い、15歳で養子となりましたが、実際は18歳からのグランドツアーに行くまではスティーブンで暮らしていました。

結婚

結婚相手エリザベス・ブリッジズの実家。ケント州のグッドネストーン・パーク。カンタベリーから11キロの距離。

1891年 グランドツアーから帰ってきた後、ナイト家の近所に住む准男爵サー・ブルック・ブリッジズの娘、エリザベスと結婚。彼女は、美しいと評判のある良家の子女でした。二人は、ブリッジズ家の屋敷
「グッドネストーン・パーク/Goodnestone Park」
から歩いて行ける距離にあるブリッジズ家の持ち家「ローリング・ハウス/Rowling House」で暮らし始めました。

(グッドネストーンは、正しくはガンストン/Gunstoneと発音されるので、ここからはガンストンと表記します。)

1796年の9月にローリング・ハウスに滞在したジェーンからのカサンドラへの手紙には、ローリング・ハウスからガンストンへ歩いて行った様子が記されています。

“We were at a Ball on Saturday. We dined at Goodnestone and in the Evening danced two Country Dances and the Boulangeries. I opened the Ball with Edwd Bridges…We supped there, and walked home at night under the shade of two Umbrellas.”

Rowling, Monday 5 September 1796 (抜粋)

‘’私達は、土曜日は舞踏会でした。ガンストンで食事をして、夜には二つのカントリーダンスとブランジェリーを踊りました。私が最初に踊ったのは、エドワード・ブリッジズです。私達は夕食をとり、二つの傘の下で家に歩いて帰りました。‘’


ガンストン・パークは、現在は結婚式場になっています。⬇


ナイト家のゴッドマーシャム・パークに移り住む

トマス・ナイトⅡの妻キャサリン・ナイト
©Chawton House 

エドワードの養父トマス・ナイトⅡ が1794年に亡くなると、その妻キャサリン・ナイトはゴッドマーシャム・パークを相続しますが、その3年後には、ゴッドマーシャム・パークを含む領地の管理をエドワードに明け渡し、自身に年間2000ポンドの収入だけを残し、亡くなるまでカンタベリーの家で暮らしました。キャサリン・ナイト夫人は、ジェーンとカサンドラの事も気にかけていて、彼女たちはカンタベリーの家に滞在しています。

親切な譲渡案にエドワードは反対しますが、キャサリン・ナイト夫人の希望通りにケント州、ハンプシャー州の領地は、エドワードが管理することになりました。ちなみに、キャサリン・ナイト夫人の遺書により1812年にエドワードは名字をナイトに変更しました。(この時からエドワードの名前は、エドワード・ナイトとなった。)


エドワードがとうとうオースティンからナイトになった事を、ジェーンは友人マーサ・ロイドへ宛てた手紙に

"I must learn to make a better 'K'.”

‘’K(Knight)の文字を上手に書けるようにならないとね。‘’

と、書いています。


1798年の8月
ジェーンは、エドワードが主人となったゴッドマーシャム・パークへ、両親と姉カサンドラと滞在しました。アッパー・ミドル・クラスの人々と交流するだけでなく、読書、姪や甥と過ごす時間も楽しみました。

広大な屋敷と庭園で過ごす時間を利用して、「エリナーとマリアン」を「分別と多感」に改作し、「ノーザンガー・アビー」の原型を作り上げたのではないか?とも言われている。*¹

ここでの滞在からインスピレーションを得たのが「マンスフィールド・パーク」とも言われています。ジェーンは、匿名で作品を出版していますが、彼女の作品中に出てくる登場人物や地名などはジェーンの実生活に関係していることがあり、彼女が作者であるということは、次第に周りの人々に伝わっていたことが、ジェーンが兄フランクに送った手紙の中に記されています。

例えば、「マンスフィールド・パーク」の主人公の名前は、ファニー

物語の中に出てくる海軍の船の名前を、海軍大佐であった兄フランクが乗っていた船の名前にする。

1898 illustration of the wedding of George Knightley and Emma Woodhouse

「エマ」の相手役は、ミスター・ナイトリー

など、ジェーンの周りにいる人なら、作者が誰であるのか想像できたかもしれません。

(この他に、ジェーンがゴッドマーシャム・パークに滞在したのは、1805年の8月。1813年9月から11月。)

*¹ P44 新井潤美 「ジェイン・オースティンの手紙」(岩波文庫)

チョートン・ハウス

チョートンハウスの正面

エドワードは、ケント州のゴッドマーシャム・パークと、ハンプシャー州のチョートン・ハウスの大邸宅を所有していましたが、主にケント州にあるゴッドマーシャム・パークで過ごしていました。ジェーンがサウサンプトンからチョートン村に引っ越して来た1809年当時、チョートン・ハウスはミドルトン・ファミリーに貸し出されていました。ジェーンの作品「説得」にも出てくるように、当時は領地を持たないアッパー・ミドル・クラスの人達は大邸宅を借りて住んでいました。

チョートン・ハウスの1階にあるダイニングルーム。

エドワードに頼まれて、ジェーンは度々チョートン・ハウスを訪れて、家の様子を見に行き、ミドルトン家と交流していました。それからしばらくすると、チョートン・ハウスはナイト家が時折訪れるためのホリデーハウスとなります。チョートン村に住むオースティン家の女性達と会うために、自宅として気軽に使えるようにしたかったのかもしれません。エドワードの一番長いチョートン・ハウスでの滞在は、ゴッドマーシャム・パークの壁を塗り替える時に、鉛を含む塗料を避けるため、ナイト一家で5週間過ごした時でした。

チョートン・ハウスの2階ロング・ギャラリーにある紋章のステンドクラス。左上から時計回り トーマス・ナイト1737、トーマス・ナイトⅡ1781 、エドワード・ナイトⅡ1852(2番目の妻)、エドワード・ナイトⅡ(1番目の妻)モンタギュー・ナイトが設置した。


エドワード・ナイトⅡ

チョートン・ハウスのダイニングルーム

エドワードの長男(エドワード・ナイトⅡ)は、ナイト家を相続すると、幼少期から馴染みのあったチョートン・ハウスで過ごすのを好むようになり、屋敷は次第にアットホームな場所として使われるようになりました。これには別の理由もあって、彼は結婚するときに相手の父親から大反対され、駆け落ち同然で結婚。その後、正式に結婚が認められました。ケント州に住む義理父を避けるため、チョートン・ハウスで暮らすようになったのだそうです。(歴史家 Jane Hurstさん情報)


ウォールド・ガーデンの建設に着手

りんごの木が生垣のように植えられている。後ろに見える壁は、モンタギュー・ナイトが建設。

チョートン・ハウスの敷地内にあるウォールド・ガーデンは、エドワード・オースティン・ナイトによって造園されました。

りんごなど果物の木が植えられています。
Wormsley Pippin

1813年 ジェーンが兄のフランクに送った手紙によると、

'[h]e [Edward Austen Knight] talks of making a new Garden; the present is a bad one & ill situated, near Mr Papillon's; — he means to have the new, at the top of the Lawn behind his own house'.

: in 1813, Jane Austen wrote to her brother Frank:

エドワードお兄様は、新しいガーデンを造る話をしています。今のガーデンは、パピロン牧師の家(チョートン・ハウスの前方にある道の向かい)の近くにあり、立地が良くない。屋敷の後ろ側にある芝生が広がる敷地の一番上に新しく庭を造ろうと思っているようです。

もとは、右手の手前側に庭があった。↑この辺り↑

庭造りの計画はジェーンも聞いていましたが、実際に造園されたのは、ジェーンが亡くなった(1817年)翌年の1818年~1822年の間で、果物の木や食べ物が育てられるキッチンガーデンとなりました。エドワードが建設した壁のほとんどが、現在まで残されています。


モンタギュー・ナイトによる造園

ウォールド・ガーデンは、食材を育てるためのキッチンガーデンとして受け継がれてきましたが、モンタギュー・ナイト(エドワード・オースティン・ナイトの孫で、1879年から1914年に屋敷を所有)によって、観賞用の花を楽しむためのガーデンに造り替えられました。

19世紀の終わり、モンタギュー・ナイトがオーナメンタル・フラワー・ガーデン(観賞用の花園)に変更。
写真に見える鉄のゲートと壁は、モンタギュー・ナイトが増設した。

1905年頃には、庭の前方部分に仕切りとなる壁と鉄のゲートを設置。この部分にはバラと桑の木が植えられています。壁際に幾つかベンチが置いてあるので、のんびりと寛ぐことができます。

入り口付近にある桑の木。シェイクスピアのニューハウスにも大きな桑の木が植えられていました。何か特別な意味があるのでしょうか?
ウォールド・ガーデンの前方にある部分。
エドワード・ナイトが作ったガーデンの正面入り口部分の壁を一部取り壊し、大きく開放的な形にした。

現在のチョートン・ハウスは、ソイル・アソシエーションに加盟しており、エドワード・ナイトがいた頃の農法で野菜や果物は育てられ、オーガニック栽培されています。食材は、屋敷内のティールームで提供したり、チャリティー活動の一環としてローカルで販売されています。


高慢と偏見のバラが咲く小道へ

2024年6月29日 Pride and Prejudice Rose Walk

ウォールド・ガーデンの一番奥中央あたりには、バラの小道があります。このバラの品種は、

「Pride and Prejudice / 高慢と偏見」

高慢と偏見のバラの小道です!満開の時に来てみたい。と、夢見ていたのですが、とうとう実現しました。

2024年ジェーン・オースティン・リージェンジー・ウィークの時にやってくると、バラが満開。散ったバラが地面に広がっている様子も、風情があり素敵。

バラが咲き始めた頃

この2週間前ぐらいにも来たのですが、その時は入り口付近にあるバラは満開だったのに、このバラは蕾のままでした。他のバラよりも咲く時期が少し遅いようです。

チョートン・ハウスのガーデンにある切り株には、様々なジェーンの散文が記されている。歩きながら見つけるのが楽しい。


チョートン・ハウスの今


チョートン・ハウスは、1551年 から代々ナイト家により受け継がれてきました。1992年 リチャード・ナイトによって売却され、アメリカ人実業家のサンドラ・リーナーとレオナルド・ボサックによって125年のリース契約で購入され、彼らの手によって古き良き姿に甦りました。現在はガーデン、屋敷、屋敷内のライブラリーが一般公開されています。

ライブラリーは、初期(1600年から1830年)女性小説家の研究施設 The Centre for the Study of Early Women's Writing, 1600–1830. で、予約すれば資料の閲覧などに利用できます。


【まとめ】
オースティン家とナイト家のつながりは深い。
ジェーンが生まれ育ったスティーブントンは、ナイト家の領地でした。ジェーンの父は、ナイト家の当主トマス・ナイトと親戚だった事から、ハンプシャー州スティーブントン村の教会牧師に任命され、牧師館で暮らす事になったのです。

その後、ナイト家の資産を相続したトマス・ナイトⅡは、子供に恵まれなかったため、オースティン家の3男エドワードが、ナイト家の後継者として養子になります。エドワードは、良家の子女エリザベス・ブリッジズと結婚して、しばらくしてから、ナイト家の領地を相続しました。

エドワードの領地には、ケント州のゴッドマーシャム・パークとハンプシャー州のチョートン・ハウス2つの屋敷がありましたが、主に滞在していたのはゴッドマーシャム・パークでした。オースティン家の女性達の生活を支えていたジョージ・オースティンが亡くなった後、ジェーン達は兄弟からの支援を受けて、バースからサウサンプトンに引っ越し、兄フランクの家で暮らしていました。その頃に、エドワードから彼の領地にある家に住む事を提案され、その中から選んだのがチョートン村にあるコテージでした。この引越しにより、ジェーンは落ち着いて作品に取り組めるようになり、すでに書き上げていた「分別と多感」「高慢と偏見」をとうとう出版し小説家としてデビューを果たします。「マンスフィールド・パーク」「エマ」「説得」を執筆し、「マンスフィールド・パーク」と「エマ」はチョートンで暮らしている時に出版。「ノーザンガー・アビー」と「説得」は、ジェーンの死後に兄ヘンリーによって作者ジェーン・オースティンとして出版されました。

チョートン・ハウスは、チョートンで暮らし始めたオースティン家の女性達とナイト家が交流する場となった場所。ジェーンのお気に入りだったという二階の窓から庭を眺めると、ジェーンが目にしていたであろう美しい景色が広がります。

エドワードが造園したウォールド・ガーデンには、「Pride and Prejudice 高慢と偏見」という品種のバラが植えらた小道があります。チョートン・ハウスにはナイト家のみならず、ジェーン・オースティンの面影があちこちに残されています。

ジェーン・オースティンのゆかりの地のひとつ、チョートン・ハウス。

ぜひ、訪れてみてください!

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エドワード・オースティン・ナイトと娘ファニーの旅行記はこちら⇩


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