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「これは歴史の旅ではありません、政治の旅です」 ー パレスチナの国際演劇祭へ行ったときのこと

はじめてパレスチナからエルサレムへ移動したときのこと。

ベツレヘムからエルサレムへ向かう片道45分の民間バス。
突然、バスが停まった。乗客の何人かが立ち上がってバスから降りる。なんだかわからないままキョロキョロしていると、銃を持った若いイスラエル兵がバスに入ってきた。その武器の大きさにドキッとしていたら、彼らは無表情で興味がなさそうに、わたしのパスポートを確認した。

窓の外、バスから降りた人たちは、これまた作業のように無表情で、ただじっと並んでいる。

バスの外に並ぶ人たち

体感としては10分近く、列がゆっくりと動きだしてわかった。

ああ、パレスチナ人だけが身分証確認のために降りたんだ。検問所だから。自主的に降りるという、それは、慣れた日常だ。当たり前のように、管理され、確認され、選別され、許可を得なければならない。同じ人としては扱われないことが当然なのだ。


  *

貸し切りのバスなら、そんなパレスチナ人への日常的な圧力の差を目の当たりにすることもない。
別の日、わたしたち日本人やイタリア人など各国から集まったアーティストたちと一緒に、貸し切りバスでパレスチナをあちこちめぐった。「パレスチナ青少年演劇祭」を主催するAl-Haral Theatre(アルハラシアター)のメンバーたちが用意してくれ、ツーアガイドは俳優のMirnaがつとめてくれた。

この日の朝は、8時の集合に2分ほど遅刻した。それまでどの国の人たちも時間通りに集合場所にいることがほぼ皆無だったし、運転手すらいないこともあったので「10分押しくらいはデフォルトかな」なんて思っていたのだ。しかしこの日はなぜか全員、集合時間にはバスに乗車済み。さらに同行者の日本人もトイレに行っていて5分くらい遅れたため、「おいジャパニーズ〜!日本人が時間にうるさいってのはプロパガンダかい?(笑)」と一日中からかわれた。めちゃくちゃ反省した。(翌日はまた日本人以外は遅刻してたけどね!)

バスが走り出して、車内は修学旅行みたいなムードだった。
この日向かうのは、修道院、宮殿跡、死海など、歴史的な場所かつ観光名所ばかりだ。アーティストたちのなかでも、マルタの若いミュージシャンたちはもう完全に、修学旅行初日の男子中学生状態。めっちゃ盛り上がってた。

ウキウキ気分で車内が盛り上がっているところに、ガイドのMirnaが言った。

「This tour is not history. It's politics.(これは歴史のツアーでなく、政治的なツアーです)」


そうか。
パレスチナは、過去から続き今もまさに歴史と宗教の問題が解決せずにある。むしろこじれている。歴史を知るということは、今この時、この場所、ここにある生活を知ること。過去を振り返るのではない。歴史が、今の生活に思いきり地続きだということ……

Mirnaがマイクを通して、パレスチナをめぐる現状を説明する。
イスラエルによる規制。許可証がなければ分離壁の外に出られないこと。アメリカやイギリスの介入……。わたしの英語力ではぼんやりとしかわからないけれど、冷静に、丁寧に、そして笑顔で冗談もまじえながら解説してくれた。

「世界の中でも、今もっとも問題と困難な歴史を抱えている場所です」、と微笑みを崩さないままMirnaが言った時、すぐ前に座っていた超元気なポーランド人のアーティストが「ウチもね!」と呟いて爆笑した。(すげえよポーランド。ナチスに迫害されたのはまだたった70〜80年前のこと。日本は……そう言えるかな……)

厳しい現実が、当たり前のように、笑顔で語られ続けた。
はしゃいでいたマルタボーイたちも、真面目な顔で聞いている。(直後、扇風機のプロペラが回っているだけの画像を延々と映すという超どうでもいいジョークアプリを見せて爆笑してたけど)

この日は、いろいろな場所を巡った。

"世界最古の町"といわれるパレスチナのジェリコは印象的だった。360°、石と土の山。その深い谷間にひっそりとある修道院で、男は、妻が聖母マリアを身籠ったと聞いたという。

ジェリコの丘
左下の奥が谷になっている
谷間には、砂の山肌に張り付くように古い修道院がある
妻が後の聖母マリア(イエス・キリストの母)を身ごもったと、ここで聞いたと言われている


観光地としても有名な、バンクシーが建てたホテル「ウォールド・オフ・ホテル(The Walled Off Hotel)」へも行った。
"世界一眺めの悪いホテル"と言われている。なぜなら、建物の目の前はイスラエルとパレスチナの分離壁。窓からの眺めは「自分が囚われの場所にいる」という絶望感を感じさせる、壁と、格子と、青い空。

ホテルの入口と、パレスチナを囲む壁。高さは最大8m。
ホテルの部屋より

1階はおしゃれなレストラン。奥には博物館があって、パレスチナが迫害されている証拠(身分証、瓦礫、イスラエルに連れ去られていく父親を見つめる少年の映像など)が展示されている。同行のパレスチナ人俳優や劇場スタッフは、レストランでビールを飲み笑っている。いろんなものがぶちこまれて、ごちゃまぜで、吐きそうだった。

観光客でにぎわうレストラン
レストランのトイレ入口にバンクシーの絵
2階はギャラリーで、分離壁をモチーフにしたさまざまな絵画が展示されていた
シャガール『空の上の二人』をモチーフにし、パレスチナの壁の上を恋人たちが飛んでいる

ホテルの外の壁の前も歩いた。当然だけど、どこまで行っても壁だった。


それでも油断していた。
イスラエルとパレスチナをめぐる長年の問題は、これまでボランティア活動や難民キャンプ訪問などをしていたこともあって、イギリスなどをはじめ他国の関係や影響も知識としてはあったけれど、でも「イスパレ問題」なんて言われるように、どこかで「イスラエルとパレスチナのこと」という感覚になっていたのかもしれない。

この日の最後に、死海へ行った。
海水浴場の入口で、パレスチナ人であるMirnaと運転手は「わたしは入れないから」と外でジュースを買っていた。わたしたちはパスポートを見せて中に入った。海と、プールと、スパ。たくさんの人たちが楽しそうに、のんびりと、優雅に過ごしていた。

こちらはイスラエル側であること。対岸はヨルダン。
死海なので、浮きます
当然だけど、舐めたらめっちゃ塩辛いです。塩分濃度30%。

死海を眺めて(お肌がかゆくなるので入らなかったのもあるけど、なんかもう「海、やっほーい!」みたいなテンションにはなれなかった)、最後にちらっとお土産もの売り場を覗いた。

観光地のおみやげ、って感じ…

この陽気なおっぱいグラスと同じ並びに、観光地らしくTシャツがたくさん飾っていて、そのほとんどに、アメリカの国旗が描かれていた。

(アメリカよ心配無用。イスラエルは共にある)

この空間で、アメリカの存在はあまりに大きかった。

イスラエルが背後に抱えるアメリカの圧迫感と、おっぱいグラスたちの陽気さと、海から聞こえる笑い声に、もう気持ち悪くなってしまい急いで外に出た。Mirnaが「あら、はやかったね」と声をかけてきて、暑い駐車場で待っている彼女に中途半端な笑いだけを返してしまった。

「これは歴史のツアーでなく、政治的なツアーです」

本当に、そのとおりだった。

 *

その後、日本への帰国のためにはイスラエルの空港を経由せねばならず、その空港の立派さとあまりの厳重さにも心が疲弊した。あまりにもパレスチナとは環境が違う。

これは格差ではなく支配だという感覚に、あの越えられない8mの壁とその上の空が思い出されてしかたなかった。

イスラエル、テルアビブの空港



※パレスチナ難民キャンプと、バンクシーのホテルについての詳細noteはこちら ↓ 

※演劇祭についてのnoteはこちら ↓


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