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取捨選択

    本当に必要なものは何だろう。

    何が必要で、何がいらないものなのだろう。

 私たちは、大人になっていくにつれて取捨選択を覚える。いらないものを捨てて、必要なものを拾って、守っていく。家具も、家具も、服も、言葉も感情もすべて自分で決めてきた。それと同時に我慢を覚える。ほしいものを我慢、やりたいことを我慢、言いたいことを我慢。いつの間にか何をしているのかわからなくなる。


 日本では我慢することが美徳とされている。自分が我慢して誰かに何かをすることは優しさとして評価され、しないとわがままといわれる世界だ。実際に文字にしてみると呆れて冷笑してしまう。そんなことが正しいわけないはずなのに、自分か正しいと思ったことを主張することは褒められるべき行為なのに、間違っていないはずなのに、できない。本当は欲しいもの、言いたいことをどうしても我慢してしまう。声を上げることに躊躇して怖さを覚えてしまう。そうして飲み込んだ言葉や感情はない出口を探して体の中をさまよい続け、そして出口がないことを悟って諦める。諦めて、また我慢して、笑って、この社会をすり抜けていく。でも案外無神経に何も考えず言いたいことを言って、欲しいものを主張した人が自分よりも楽しそうな生活をしていたりする。


 社会の法則にのっとれば、そんなことおかしいはずだ。大人なのに、わがままで、間違えているはずなのに。自分は今まで我慢することも遠慮することも頑張ったはずなのに。しかも一度覚えた我慢や遠慮は厄介で転移しまくったガンみたいに体中に張り付いてる。いやという感情さえもどんどん薄れていく。そして遠慮や我慢するという行為に何の感情も抱かなくなっていく。


 じゃあ、私の我慢した感情はどこに行ってしまうのだろうか。いわなかったら、口に出さなかったら、なかったことにされるのだろうか。確かにその時思った感情がなかったことにされてしまうことはあまりに自分がかわいそうではないか。感情を殺しても、言いたかった言葉を殺しても誰も気づいてくれない。でも、そのなくなった言葉や感情はその人が揺れ動き、思ったことであり、確かに存在したものだ。


 私たちにとって必要とされるものは何だろう。いらないものは何だろう。高機能な洗濯機とか、食洗器とか、ひとめぼれした洋服とか、買って後悔したものならたくさんある。でも、買ったときの高揚感だったり使い始めのどことなく心の踊った日々だったり、得られたものは確かにあった。でも感情は吐き出さないと後悔という弔いを受けることもない。その時に感じた悔しさやもどかしさ、悲しさ、違和感、それらの言葉はなかったものとされてしまう。せっかく感じ取った他にない絶対的なものなのに。それはどんな高機能な洗濯機や食洗器、お洒落な服よりも価値あるものなのに。


 取捨選択は必要なことだ。必要ないものは捨てていかないと部屋も心もいっぱいになってしまう。でも、必要なものまでも捨ててしまうことはない。入らないなら、優先順位をつけていらないものを捨ててしまえばいい。取捨選択は厄介で邪魔なものを捨てるのではなく、物事に優先順位をつけて本当に必要なものを見極めることだ。必要なものとそうでないものの二つに分けるのではなく、これはちょっといるかもな、とか、いらないけどとっておきたいとか、そんな自分が自分らしくいるものを無理して捨てるのことではない。声に出さない思いがあってもいい。でも、感じたこと、思ったことは大切に心に残しておきたい。大事にしていきたい。人間は案外脆い。だから、だからこそ、人間には心があること、感情があること、自分で決定できること、それを忘れてはいけない。

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