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死と向き合う時間㉗

※注)これは、2020年から私の身の上に起こったことを
思い出しながら、それを乗り越えるまでの経緯を
書き綴っているお話です。
先の事はわかりませんが、今現在はたくさんの出来事を超えて
新たな課題と共に元気に生きています。

(2021年6月)

前回の続き…

約2年という余命宣告を受けて、生まれて初めて死というものと本格的に向き合うことになった。こんなことになろうとは思っても見なかった。

大切な人とのお別れを体験したり、もし自分が死んだら……とか、死ぬときには……死とは……のような架空の話では、ある意味死について考えたり、その出来事と向き合う経験は今までに何度かあった。

でも、それは「私」ではなかったし、自分は元気だったから、やはり現実味はなかった。

実際には、自分の未来が消えてしまうことを、心身共にリアルに体感したことはなかった。

精神的に死を感じた事があるのは、2018年に知らない街で倒れた事があり、今までの生き方を変えざるを得ない警告が来た時だが、思えばその時からこのプロセスは始まっていたのだ。

瞑想プログラムの中の死の疑似体験や、死についてのお話、死に対する憧れのような話も良く耳にしたが、死んだことがない私にとっては未知の世界。体験したことがないから、自分が今まで持っていた死にたいしての理想や、聞きかじったり、本で読んだ内容だけのイメージだけでは、この時は語れない気持ちだった。

どんなものかわからないから、死んだ人の気持ちも死んだ後の事もわからない。

以前読んだ本や精神世界の話では、幸せに満ちるイメージだけど…。

この時の私には、自分がここにいなくなることが考えられず、刻一刻と生のタイムリミットがリアルに迫ってくる感じで、正直かなり怖かった。

あれからずっと頭が休まらない。目を閉じたらもう開かないかもしれないと考えると眠れない。死が私を手招きしてる。
人一倍怖がりな私は、毎日そんな感じで苦しもがいていた。

四六時中そんな感じで心も体も精神も破壊しそうだった。
絶望的で自分を自分で助けられないなんて…もう終わりだって鬱々していた。

どこかでは、人間の身体は物理的には永遠はないから、いつかはこの世からいなくなるのは、自然な事だとわかってはいる。

でも、欲や執着はまだあって、手放せない事がたくさんある。
命が尽きたら、こんなことも全て消えてしまうから、考えてもしょうがないのに、家族について、子供についても心配事もたくさんある。

私は今まで何をしてたんだろう。やり残した事ありすぎる。いや、やりたい事なんてあるのか?今日までたくさん悩んで落ち込んで、もう死んでしまいたいと思ったりした時間がもったいなく思えて、戻ってきたらいいのにとさえ思った。

こんなことを悶々と考えて、走馬灯のように頭に回る自分の思いの先に感じたのは、結局何よりも自分という人格や「私」というエゴが消滅してしまうことが、きっと自分が最も恐れる一番の原因なんだろうと思ったりもした。

私がここからいなくなるなんて…考えられない。
終了したら、この子達の母である私。この人のパートナーとして、娘として、兄弟姉妹として、友人として、朝起きて寝るまでの今ある全てが無になり消えてしまう…。

最後なんだ……もう二度とこの私として、この人達、この地球に、同じ私としては会うことができないのである。苦しい事の方が圧倒的に多い人生だったけど、やっぱりもう少し私でいたい…。

こんな事を感じるのは、きっと「もうこれで十分です。全身全霊で生きて、すべてのことをやり切った」と感じながら自分を生きてないから、このような感覚に苛まれるのかもしれない。いずれは消えゆく命。長いか短いかの違い。

最後はみな同じ場所に戻るのだ。こんな声も聞こえる。

とはいえ、何かが背後から迫ってくる恐怖はこの後もしばらく続き、あーでもないこーでもない。治療するかしないか…。こんな事してたらダメだ…。時間がないのにと、全てにおいて不可能や諦めや、自分でリミットを決めていく自分が存在する。長生きすることに重きをおいてはなかったけど、”生を手放せない” ”早すぎる“ なんてことを考えては、泣いてる私に旦那がこんな話をしてくれた。

ある国の王様が自分の生にとても執着していた。彼が100歳の時に死が訪れた。死神(インドではヤムラージという神らしい)が迎えにきた時に彼はこう言った。『私はまだやる事がたくさんある。もう一度人生を1からやり直したい。』死神は言う『そんな事はできない。生きている限り死は避けられない。私にも使命がある。迎えにきたからには誰も連れて帰らない訳にはいかないのだ。しかし…どうしてもと言うなら、一つだけその願いをかなえる方法がある。それは、あなたの息子の1人と引き換えに、命を差し出せるなら、それは叶うだろう。』と言う。王様には100人の子供がいる。皆に聞いてもこの提案は誰も了承しない。だが、1人の王子が名乗りでてこう言った。『私は今20歳になりました。100年生きても満足のいかないのが人生ならば、この先、長く生きて何になるのでしょう。では、私の命を捧げましょう』
そうして王様はもう一度100年の人生を生きた。再び死神がお迎えにきた時には、またもや王様は「まだまだやらねばならぬ事がたくさん残っている。もう1度やり直したい。」と言う。死神はまた同じ提案をする。この時子供は200人にもなっていたが、これだけの人数がいても、やはりこの提案は誰もが嫌がった。今度は別の王子がやってきて「今度は私の命を差し上げるので思う存分生きてください」と命を引き換えた。そうしてこの王はこのくだりを10回繰り返し、1000年生きても満足することはなかった。というようなお話。

この逸話をインドの覚者が弟子に話した時、その場は大爆笑の渦だったようだが、すかさず『笑ってる場合ではない。これはあなた達そのものだ。』と言ったらしい。

ジタバタしている私を見て、ふと思い出したと言う。その客観的洞察力と話し方が面白くて、自分が陥っている状況に当てはまりすぎて、泣いてる自分が少しばかばかしくなって、また二人で大爆笑。
これは私たち夫婦の得意技でもある。(笑)たまに話したと思ったら突然起こる、究極の泣き笑い現象だ。

こんな話を聞いて、私は今まだ40代だし、子供も小さいし、こんなことになって悲しいとか準備できてないとか、まだやれてない事たくさんあるし、どうしようとか言って泣いているけど、このまま変わらず、このコンディションで年をとったら、たとえ長生きして100歳まで生きれたとしても、この王様と同じように、死が訪れた時、まだ用意ができてないって泣くかもしれない。

…とはいえ、生き方を変える?死が来た時にもう十分だって言える生き方って…。

こんな感じで精神的にプレッシャーを感じたり、かなり追い詰められていた私だけど、いつも私に自由な選択をくれたり、こうやってインドのお話してくれたりして、常に平常心を保ち、一緒に落ち込んだりあたふたしたりせずに、こちらのパニックには一切影響受けない(笑)超絶マイペースな旦那の存在がこんな時はとてもありがたかった。

治療についても返事をしなければ、というプレッシャーもあり、気持ちかなり追い込まれて疲れ果てた私は、友人からの紹介でセッションを受けることになった。彼女の言葉にもいつも助けられ、この病から抜けるたくさんのアドバイスや情報を提供してくれて、とても心強い存在だった。

後に彼女が主催するオンラインの瞑想会に参加できたのも、道に迷った私の光となり、心を落ち着かせ、安心できるスペースを感じていける大きなサポートになった。そしてまた、その会の参加についての諸々をサポートしてくれていた友にも深く感謝している。


セラピストKantuの情報↓

この時に受けたセッションは、そんな世界を駆け巡る彼女と共に、各国でアートセラピーや瞑想、ファミリーコンストレーションのセラピーなどをやっている信頼のおけるセラピストだ。

セッションが始まった瞬間から、まず自分の状況を話ながら涙が止まらない。大号泣だ。
私の話を聞いて、今の現状や状況は想像以上にとても大変で難しい時期だと言って、瞬時に理解してくれた。

そして彼は次にこう言った。「もう自分でわかってますよね。ここからは、言い訳の出来ない時間になりますね。自分の為に生きる。残された時間は本気で自分の為に生きてください。」めそめそ泣いていたけど、それを聞いた瞬間。ピタっと雑念のようなものが消えて涙が止まった。

そう、言い訳はもう終わりにしなければ、時間はそんなにないかもしれない。自分の為に生きることをすっかり忘れている。何がしたいの? 今、何が必要? 何を感じてる? どうしたの?

これ準備しておいたよ。ご飯の用意できてるよ。etc…
人の為には聞いてきた。これからは自分のお世話をして、自分の気持ちを聞いてあげないと。

そんなこんなで、約1か月の恐怖の迷走劇も佳境に入り、泣き暮れてくたくたになっていた時、現実は大きく動いていく事になる。

……次回に続く

※最後までお読み頂いてありがとうございました。この記事がよかった方は『スキ』又は『サポート』よろしくお願いします。


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