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目覚めの一撃㉘

※注)これは、2020年から私の身の上に起こったことを
思い出しながら、それを乗り越えるまでの経緯を
書き綴っているお話です。
先の事はわかりませんが、今現在はたくさんの出来事を超えて
新たな課題と共に元気に生きています。

(2021年6月)

死に対する恐怖が生み出す現実の世界。何かに追われるように動き、毎日がカオスな状況で、四六時中そのことが頭から離れず、現実が受け入れられずに怖くて泣いていた。恐らくこの時期は一生分泣いたんじゃないかというくらい、苦しくて涙が出る毎日だった。

情報をかき集めても、絶望感が増すばかり。気休め程度の治療か自然死かの狭間で、もう駄目だと決めつける気持ちと、こんな気持ちから抜け出せない自分から逃げたかった。

ある日、そんな現実に打ちひしがれながら、二階の部屋に1人籠もり、母と電話しながら泣いていた。
すると、一階からあきらかにいつもと違う次男の泣き声がした。
長男が事情を聴いている。急いで降りたら、私の顔を見た途端、さらに激しく泣きじゃくる。手首曲がっている。
公園のうんていから落ちて、その時に手をついてしまったようだ。

一瞬なにが起こったのかわからず、頭が真っ白で、かなり動揺してしまったけど、「落ち着け、私」心の中でそう言い聞かせながら、一旦近所の行きつけの接骨院の先生に見せに行った。パっと見て「あ、これはうちでは無理だから大きい病院に行った方がいいよ。救急車呼んでもいいかもしれない。」って教えてくれた。 119に電話してみると、「まだ17:00、整形外科が開いてるのでそちらでお願いします。」とのことだった。
そだよね。しかたがない。タクシーでぶっ飛ばし、少し離れた整形外科へ、レントゲンを撮り応急処置をしてくれた。固定してもらったから、さっきよりは落ち着いたようだ。
結果は骨折。このクリニックでも、やはり処置できなくて、「紹介するので今から救急外来に行ってください」と言われた。救急病院とは連絡取ってくれていたので、再びタクシーでぶっ飛ばす。車が揺れるたびに激痛が走るようで、顔色も悪くなっていく。30分くらいしてようやく救急に到着。

時刻は19時半。怪我をしたのが16時頃だったので、約3時間半、痛みに耐えてよく頑張った。救急では少し待ったものの、すべてがスムーズに進行されていく。やっとベットに横になり、優しい看護師さんに処置をしてもらったら、「ここだとなおるよね?」って不安そうな顔も少し緩んで少しほっとしたようだ。

担当の先生が来て説明を受ける。
「一旦、眠らせて、麻酔をかけた後、曲がった腕を真っすぐにもとに戻す処置をします。今日はそのまま入院して、明日の朝緊急手術になります。」
「えっ!」予想外の展開。ああ……そうか…えらいことになってしまった。急すぎて何も考えられないけど、とにかく手続きやら今やらねばならないことを淡々とこなす。

そうこうしてるうちに、旦那が長男から話を聞いて駆け付けた。

この病院は救急難民を作らない、どんな患者でも受け入れる体制をとっていることでも有名だ。外に迎えに行った時、一仕事終えた救急隊員の人達が防御服を脱いで着替えをしたり消毒をしたりして、物々しい雰囲気だ。
この時は少し落ち着いたとはいえ、まだコロナ感染がかなり警戒されていた時期だった。救急車も大忙しで、コロナ患者専用仮設の受付も用意されていた。そりゃ近くの病院に行ってくださいと言われるよね。焦ってたので、‘‘対応が冷たいな‘‘ なんて思ったけど、その光景をみて納得した。そして、なんだかその場に普通にいる自分が不思議だった。

ネットニュースで見たり、人から話を聞くだけでは、妙に不安だけが印象に残ってしまい。“怖い”とか、何かあっても病院の受け入れ態勢が少ないから入院できないとか、私自身は身体の抵抗力を考えたら、感染リスクを考えてしまっていた時期もあったけど、まさに今、自分が何の違和感もなくその現場にいるなんて…。そして、この時期に入院や付き添いなんて考えられなかったけど、想像とは裏腹に、緊急でもちゃんと受け入れ、緊急処置をしてくれている。
問題なく父母も院内に入れたし、付き添いで子供のそばにいれたし、院内を動き回って手続きも普通に進行している。

なにより、こんな時でも、淡々と仕事を全うしている人達に尊敬の気持ちがわいてくる。 どんな仕事でも、プロとして活躍している人達は、ほんとにすごいと改めて感じた瞬間である。

感謝のワークの時にも社会で働く人々が私の気持ちに出てきたけど、誰かがどこかで自分の時間を切り盛りしながら働いてくれていることで、私達の便利な生活が成り立っている。大昔のように自然にもっと近い暮らしや、自由な生活に憧れてはいるけど、この現代においては、自分の自由や便利さは、誰かの支えあってこそ。生活や精神状況が苦しい時期に、一人で頑張ってきたなんて、傲慢な考えが浮かんだこともあったけど、当たり前に機能している何かは誰かの働きで通常運転しているのだから、感謝の気持ちは忘れてはならんとつくづく感じた。

そして、それは自分もそうなのだ。
なにかしら誰かのなにかになっている。

身近に友や家族がいなくとも、自分とは普段関わりのない人達とも、色々な角度で知らないうちにサポートしあってると考えると、孤独感や自分だけが大変だという気持ちが消えていく。

必要以上に想像だけで不安を煽り、未来や子供の為にと躍起になって心配したり反発したり絶望する感じ。実際にまだ起こっていない事と戦って、ポジティブな可能性も壊してしまうのは残念な事だと心底感じた。まるで誰かさん(自分)が今、陥ってる感じとよく似ている。

もしかしたら。実際は違うのかもしれない。何か起こってもその時々に抵抗せずに対処すれば何とかなるのだ。いや、自分でできる限り何とかするのだ。そうしたら自然に必要なサポートが目の前にやってくる。そんな風に感じ始めた時期だった。

三日間の入院と次の日の早朝に手術が行われることになり入院手続きをし病室へ。私も不安定な時期なので、旦那が寝泊りするのかと思いきや、専門用語や日本語よくわからないし、ママがいた方が安心するよね!と、なんだか私に起こっている深刻な状況が無に帰した感じになっている。二度目の「えっ!」が発令される。私が泊まるのね。(笑)
本当にこの超絶マイペースな神経を少し分けていただきたい。

さすがにその日は、着替えやら睡眠やらお風呂やら、用意することがたくさんあるので、旦那に泊まりの付き添いを頼み帰宅した。

バスも終了していたの再びでタクシーで最寄り駅に着き、最終電車にほどなく近い電車に揺られて帰宅。家に到着したのは夜中の1時前。長男は、自分で買ってきたお弁当を食い散らかして、みんながいないのをいいことに、お友達とオンラインゲームをしていたと思われる状態で床に転がるように眠っていた。
中二男子初めての一人暮らし……みたいな状況だ。いつもなら腹が立つけど、こんな時にもマイペースな旦那と共に、マイペースすぎる平和な寝顔に、この日はなんか癒された。

ひとまず何とかなりそうだ。でも、子供だから全身麻酔だし、手首の二本の骨が両方折れて重なってしまったので、ボルトを通して固定するから、2回手術しなきゃだし、うまくいっても後遺症が残るかもだから、今やってるスポーツも止めなきゃならんかもしれないし。全治9か月だし。「9か月後…はたして私は元気なんだろうか…??」心配しだしたらキリがないくらい。
でも、今日の教訓を思い出して、目の前のことに集中して今やる事やるしかないと、必要以上に怖がる必要なし。止まらない妄想を現実に切り替えた。お風呂に入り、準備をして、結局眠れないまま早朝6時に家を出た。自分の手術の前の日が思い出されるくらいに同じパターンで、神経質な自分と熟睡してる長男とのギャップに少し笑えた。

手術は無事成功し、心配していた麻酔も大丈夫だった。効きが強めだったのか部屋に帰った後も眠っている。起きたら身動きが取れないだろうから、今のうちにと夫婦で食事に出た。お昼ご飯を食べながら、唐突に旦那が「ママの代わりに怪我したんじゃない」と言った。
「えっっ!」3回目発令。そして背筋に何か走った。
時々、旦那はふと意味深な事を口にする。「やめてよ変なこと言うの!そんなこと言わないで!怖いから。そんなことないない。ありえない。」その時は全否定したが、後から思えば、あながち間違えてはいなかったようにも思えた。

その言葉がショックすぎて、一気に現実に引き戻された感じで、いつもの自分が戻ってきた感覚だった。そんなこと望んでもいないし、絶対にあってはならん。そういえば、ここ1か月は時に、いつも上の空だったし恐怖に飲み込まれすぎて、周りも自分も消えていた。もし私が弱って、心ここにあらずの状態が原因なのだとしたら、このままではダメだ。変えなければ。切り替えなければと心に誓った。
ふわふわと浮いていて、生きてるのに魂は死んでるような状態の私を、この出来事が地に降ろしてくれる為に一役買ってくれたみたい思えた。

実際には、看病してもらわなくてはいけない立場から、看病、お世話する側に何故か回っていて、結構ハードスケジュールだったけど、特に問題なくできている自分がいて、あれ?私、どこか悪かったのか?色々まだやれているではないか。と思うほどにタフな自分がそこにいた。

何かが分離していく気分だった。病気だから未来がなくてダメな自分という着ぐるみを脱いで、生きてるし行動できている自分に書き換えていく感じが自分の中で起こっている。(※これは未だに度々起こる不安な自分を落ち着かせ、生きるモチベーションを上げるのにすごく役に立っている。)

役を降りる。これだ。

この日から自分が想像する‘‘死‘‘にたいする恐怖は徐々に消えて、今生きている自分や行動できている事に電波を合わせる事が、少しずつできるようになった。あのどん底の精神状態から考えると、こんな風な気持ちになれるなんて想像もしてなかったので、とても重要な奇跡体験となった。

運命が動いていく瞬間。自分や誰かが痛手を負っての学びはもう勘弁して欲しいけど、この体験は今後の私にとっては、人生で起こる様々な、そして一見不幸な出来事をも好転的に受け取り、それが人生を変える大きな気づきにもなる事を実感した瞬間だった。

経験なんて必要ない!経験する前に内側で気づけばいいと言った人もいたが、やはり実際に体感することでしかわからないこともあり、生ぬるくはない体験だけど、眠っている自分が目が覚めるには必要だったようだ。

後から聞いた話だけど、怪我をした公園は家から歩いて20分くらいかかる場所だった。大き目の線路を超えた向こう側にある公園で、近道は遮断機のない踏切の線路を横断する。(もう今は閉鎖された)日本ではあまりない場所を通過する。
あそこは危ないから、子供だけで渡らないで!と言ってはいたけど、あの日は
曲がった手首と激痛に耐えながらも、そこを通って、20分歩いて一人で帰宅したというからびっくりだった。改めて、ほんとに無事でよかったと胸を撫で下ろす。途中の道のりに大人もいただろうけど、誰も泣いている彼に声をかける人はいなかったみたいだ。小3男子の恐るべし根性。我が息子ながらタフな奴だと、感心してる場合じゃないけど感心した。これぞ不幸中の幸いともいうのか、全治9か月という怪我を負ってしまったけど、その後の経過も良く今はずっと続けていたスポーツにも復帰していて、私も完治するまで、何とか元気に通院しながら面倒が見れたどかろか、不調はありながらも今も元気に暮らせている。

もしかしたら、あの意識の切り替えがなければ、それもこれもなかったかもしれない。

……続く

※最後までお読み頂いてありがとうございました。この記事がよかった方は『スキ』又は『サポート』よろしくお願いします。



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