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雲一つない空㉞

※注)これは、2020年から私の身の上に起こったことを
思い出しながら、それを乗り越えるまでの体験を
書き綴っているお話です。
先の事はわかりませんが、今現在はたくさんの出来事を超えて
新たな課題と共に元気に生きています。

※注)以下の内容は、私個人が聞いたり、興味を持ち、体験して感じた事をそのまま書き綴っています。個々の選択や考え方、各分野での専門家や医師の見解はそれぞれ違うと思います。癌治療はセンシティブな問題ですが、正解はないのです。自分の体験が誰かの何かヒントになれば幸いです。どうぞ、その事をご理解の上、読み進めていただければと思います。

(2021年7月)

巡り巡って振り出しに戻る。答えは自分の手元にあったのだ。
そんな感覚だった。

伊豆の保養所から戻りしばらくして、治療について悩んでいた私に、伊豆の先生が教えてくれた西洋医療に携わる先生のセカンドオピニオンに行った時のお話。

まずはこのストーリーを描書く前に、一度きりの出会いでしたが、まずはこちらの先生に感謝の意を表すと共に、ご冥福をお祈りしたいと思います。

私はテレビを見ないし、ニュースも頻繁には見ないので、情報に疎くて、お亡くなりになった事も知らなかった。昨年、友人に電話で聞いて驚いた。

お会いした時は、自分より先に逝かれるとは全く考えられなかったからだ。
あの日、色々なお話をして、アドバイスをいただいて、不思議な感覚だけど、奇跡的に私は生きている。それも日常を平常心で。

あの時期は、困惑し恐怖でいっぱいで、今にも破裂しそうな精神状態だったから、こんな日が来るとは考えもしなかったけど、現在は度々の不調のもありながらも、こうして落ちついていられるのも、こちらの先生含め、自分に衝撃を与えてくれた体験と、支えてくれた人達のおかげだと感じている。

その後、ニュースを検索して詳細を読んだけど、誰もが同じように、先はどうなるかわからない人生、その限られた時間を、人間の身体や医療という分野を研究し、信念を貫き、最後まで自分の仕事を全うされるという生き方が、一つの事を極められない私にとっては、なんだかうらやましくもあり尊敬してしまう。 

私はあまり信仰心的な感覚が内側にないので、誰かを強烈にフォローしたり支持したりはしないから、この先生の本を読みあさったり、支持者とかにはならなかったけど、たった一回の出会いが、自分を自分の幻想から解放する第一歩となったのは間違いない。そして、私自身もこの時、現実をそのまま受け入れる用意ができていたので、お話できたタイミングもよかったのだと思う。

こちらもまた有名な方なので、かなり気持ちが緊張していた。
東京都心の不思議なマンションの一角に事務所が設けられていた。
早めについたから、景気づけにデパートの中にある高級紅茶専門店でお茶を優雅に飲んでみたりして、緊張をほぐしつつゆったりと時間を潰した。

予定の時間が来て事務所にたどり着くと、にこやかに出迎えてくれた。存在感があって、器の大きい感じの先生だった。助手の女性が優しく案内してくれて、対面の椅子に座り、早速話を始める。

時間は約30分設けられていた。正直、あちこちと巡り巡ってきたので、気持ちの変化はすでに起こっていたので、この時点で心はおおよそ決まっていたけど、どこかまだ治療を放棄するという事の恐怖や不安で心がぐらついている自分がいた。これは社会や団体組織から外れるみたいな気分にも似ている。

そして、内心『もしかすると!』と何か希望のある新たな展開があったりして!と数パーセントの期待の虫もまだウズウズしていた。 
もともとは放射線科の先生だし、一般の病院の先生とは違う感じだし、誰も知らないような、いい治療方法を教えてくれるかも!という淡い期待の気持ちが入室した時点では確かにあった。

一通り病院での結果やこの先に進められている治療法のこと、今日までの自分の経緯を説明した。その間先生はパソコンでPET検査の画像を真剣なまなざしで見ている。
そして一言。「うーん。腸骨内のこことここにあるね。骨盤はあるけど、これは微妙。これに関してはこの画像だけでは、はっきりと断言できないけど、あるのはある。」
話すことは録音して、後から聞き直して良いと言ってくれていた。
そして、それくらいこの先生は結果をオブラートに包まない。超がつくほどストレートに話してくれているのが分かる。小さい頃からはっきり言ってはいけない空気が嫌いだった、だから、人によってはショックを受けるかもしれないし、残酷に感じるかもしれないけど、この直球ストレートな話し方は私向きだと感じた。

結局は、私の場合は下腹部にあるし、原発病巣の場所考えると放射線は得策ではない。
人間の臓器は下にいくほど多くなるので、再発した場所に当てて治療してそこが良くなっても、今度は大丈夫な場所に後遺症が残って、生活が辛くなる可能性が高い。これは病院で副作用として説明された同じ内容だった。
抗がん剤も病院と同じ見解。
治療したとて、やはり延命治療になる。
それぞれの部位によって、治療に関しては状況が違うらしい。
放射線もかけて何とかなる人には、都内の放射線科を紹介しているけど、私の場合はやはり今、この状況で治療するのは得策ではないとのこと。

「うーん。はっきり申し上げると、通常の医学的見解だと、この状況なら治るということは考えない方がいいでしょう。その治る、治すという気持ちが自分を追い込んで悩ませて逆に苦しくさせるから。二年と言われたの?じゃあ仮に二年の寿命だとしたらあなたはどう生きたいか。そちらを考えた方がいい。二年で死ぬではなくで、残りが仮に二年だとしたら、その時間をどう生きたいのか、どんな風に過ごしたいのかを考えた方がいいです。私の知っている患者さんでも、もう駄目だと言われた人が気づいたら5年過ぎてましたって人もいますし、もちろんお亡くなりになった方もたくさんいますが、仮にそうだとしても自然に逝く方が、身体のダメージが少ないです。イメージとしては老衰という感じです。内臓不全が原因です。」

その後、骨転移の場合は内臓にどのような影響を及ぼす可能性があるか。リンぱ転移の事、内臓のダメージはかなりのパーセンテージ進んでも、人間は生きていける事などなど、興味深い話が盛りだくさんだった。

今、身体が辛いですか?と聞かれたら、不調はあるけど自分で何とかできるレベル。ご飯も美味しく食べられる。痛みはたまにあるけど、激痛じゃないから普通に生活できている。それそのもの自体に激痛はないのですと言われて妙に納得。そういえば手術の前に何年もお腹に抱えていたあの大きな塊。身体の中にあったけど、重い、だるい、若干痛いとかはあったけど、泣くほどの激痛などがなかったから、普通に生活していて気づかなかったことを思いだした。

生きていく事に希望はもちろん持っていたいけど、必要以上の期待をして自分に負荷をかけるのはやめようと思った。遠まわしでもなく、かといってキツイ跳ねのけるような感じもなく、ただ淡々と説明を熱心にしてくれたことで、力が完全に抜けた。手放そう全部。そんな気持ちだった。

ものの20分で話は終了。まだ時間があるから、もっと聞きたいこと話したいことありますか?何かここまでの事に質問はありますか?って優しく聞いてくれたけど、全くなかった。なぜか自分の心が妙に納得していて、腑に落ちるってこういうことって感覚だった。恐らくいい話も悪い話もオブラートに包まない医療の実例をわかりやすく聞けたのも理由の一つにあったけど、自分が宣告されてから感じてた事が、なんだかわからないけど全て一致した感じだった。

笑いながら最後の10分先生と談話していたら、助手の女の人が、「すごいですね。この状況で笑ってる人珍しいですよ。ここに来た人は、みんな切羽詰まっていて大号泣ですから」って言った。
「多分、初めの頃に来てたらそうだったと思います。もう水分なくなるくらい泣いたので、涙も出ないみたいです。」って私は言った。
そう、もう泣く段階は一旦終わったみたいだ。

正直、先生の話を聞いた内容の中で、最初の治療の段階だと手術ではなく別の方法もあったみたいなので、手術前に会えてたらよかったのかな…と一瞬頭によぎったけど、瞬時に気持ちは切り替わり、これが私の人生のタイミングだったなら、ベストな時期にここに来たんだと、今日までその都度対処して、やってきたことはこの後の結果がどうであれ間違いではないと思えた。

過去。父や友人を亡くしたことを、もっとできる事があったのではないか?やってあげれることがもっとあったのでは?とかあれが致命的たっだとか、あれをしていれば…などなど色々考えたこともあったけど、正解はだれにもわかないし、それがその時のその人達の必死で考えた選択だったなら、ただ事実を受け入れるしか私にはできないんだと感じた。

父が亡くなった時に、いま自分が日常に取り入れている自然治療や家庭でできる手当を勧めたことがある。すごい剣幕で叱られてうるさく言うなら帰ってくるなとまで言われた。
そう、今ならわかるあの時の父の気持ち。私も話すたびに治療をしきりに勧められたり、根拠のない大丈夫を連発されて、早い決断を求められた時はうんざりしていたから。結局は自分の身体の事は自分で決めるんだ。周りの人はアドバイスやサポートはできても、やはり決めるのは本人の精神だから…死に関しては神の領域。永遠はないのだ。

父は治療を受けて、最新の技術と言って提案された2回目の手術を受けてすぐに亡くなった。でも、最後は私に母と出会って、子供達と暮らせて幸せだったと言ってたし。治療を選択して最後まで頑張っていた父の選択を否定するつもりは一切ない。当時、私は手術に反対して長年無念に感じていたけど、亡くなった後でさえなお、私は父の選択を尊重していなかった自分に気づく。この世は間違い探しばかりだ。そんな自分にもうんざりしていた。

最後は自分で決めたなら、それはその人にとっての正解なんだと今になってみて思う。そこを否定することは、その人の人生や最期を否定してしまうような気持ちになってしまう。

人生においての価値基準や何を持って幸せと思うかは人それぞれ。
いいものはもちろん人と共有していきたいし、伝えて生きたいけど、この世は自分の正しさが全てではないことの気づかされる。

父や友人の闘病の体験や存在は、いなくなってからも、今尚私にたくさんのサポートやヒントをくれている。感謝すべき大切な存在だ。

人生はおそらく、良いことも悪いことも、成功も失敗も1ミリのずれもなくその時の精神や肉体レベルに合わせた事が、必要なタイミングで起こるのではないかと感じる。だから、精神や肉体レベルは意識的に上げていきたいとは思うけど……。起こることはその時その瞬間の私にとっては、全て完全な状態なんだと考えるようになった。

ここまで来たらなるようにしかならん。生きるなら生きる。死ぬ時が来たら死ぬ。でも、そう考えると、自分の人生の展開を信頼することにチューニングを合わせていけば、死もまたベストなタイミングで起こるのだろうそんな感覚だった。だから怖がらないで自分の人生を信頼しようと思う。

人間に産まれたからには、誰にでもいつかは終わりが来るから、限られた時間をどう生きるか……。この言葉が胸に残った。
この先はできる限り力を抜いて生きたいものだと思う。
それが一番難しかったから。

帰り道、私の心は何故か解放感に満ちていて、雲一つない晴天のようだった。 もう、手放そう。自由だ。考えない。とにかく今日一日を生きよう。それが明日につながればいい。つながらなくても後悔しないように心を整えて、前進あるのみ。後戻りはできないのだから。

爽快な気分で母に報告の電話をした。治療は受けずに自然に任せることにしたと。私以上に悩み焦っていたので、母もどこか解放されたような感じが伝わってきた。恐らく治療は受けてほしかったはず、でも今回は反対されなかった。抵抗も感じることなくすっと受け入れていくれた。やるだけやった感が半端ない。

この先どういうふうに転んでも、自分の中の覚悟は決まったみたい。
暑い日差しの中に吹く風が心地よくて、久々の東京を散歩しながら駅に向かった。長い長いトンネルからようやく抜けた。そんな気持ちで家に帰った。

…続く

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