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【小説】 ごま塩のかつら

 まるで、眠っている妻を起こさないようにしているかのように、男性は小さな声で私に話しかけた。
「美容師なんてやめときなさい、って、妻は両親から、それはそれは反対されたみたいです」
 右手に握られた銀色の鋏は、まるでそれが彼の身体の一部であるかのようにしなやかに動き、妻の頭の周りを滑らかに飛び回った。
「ご結婚のときですか」
「そう。もう五十年も前の話です」
 角刈りの頭は真っ白なのに、太く豊かな眉毛は黒色だった。年月を物語る垂れ下がった瞼の奥の瞳が、左手の櫛とともにゆっくりと妻の髪を撫でる。
「収入も安定しないし、髪をいじくりまわすなんて、なよなよした男に違いないとか、なんとかいって。今じゃ考えられませんよねえ」
 困ったように笑い、「でも、そうしたら妻は」と男性は続けた。
「激怒して、『それならお父さんもお母さんも、二度と美容室で髪を切らないでよね!』といって、家を飛び出したんです」
 わあお、と私は小さく胸の前で拍手する。
「かっこいい」
「そう、妻はかっこよくて、破天荒で、よく笑う人です。おかげで僕は、どれほど彼女に振り回されたことか。彼女がいなければ、僕はつまらない人間でした」
 真っ白の髪は、すでにショートヘアに綺麗に整えられていて、ほとんど切る必要がないようにも思われた。
「…これは少し、おかしな話なんですけれど」
「ええ」
「この人は、むかし、髪を抜く癖があったんですよ。勉強したり読書したりするときに、つい抜いてしまうんだと言って」
「そういえば、私の友達にもそういう人がいます」
「あれはね、頭皮に良くないんですよ。だから僕は止めたんです。将来髪が薄くなっちゃうよ、って。そしたら、『じゃあ今から抜いたのを集めて、かつらを作っておかなきゃね』なんて言うんです。変な人でしょう」
 鋏はペースダウンして、さく、さく、と、丁寧に丁寧に、少しずつ髪が切り進められていく。
「でもね、妻は冗談だったと思うけれど、それから僕はほんとうに、彼女の髪を切るたびに、少しずつ髪を集め続けることにしたんです。いつか来るその日のため、かつらを作るために」
 そう言って、彼は意味ありげに笑うと鋏を置き、置いてあった鞄の中から大切そうに、一つの箱を取り出した。
「もしかして」
「そうです、これがその、かつらの完成品です」
 中から、黒髪と白髪の混じったかつらが出てきた。小ぶりのそれは、頭頂部に乗せ、ふわっとボリュームを出すようなものらしかった。
「結局、まだ一度も使ったことはありません。これを見せたとき妻は、色がまだらでごま塩頭になってしまうじゃないのと文句を言っていました」
 丸顔を笑顔でいっぱいにして、男性は再び鋏を取った。
「だけど私は気に入ってるんです。これは、いうなれば妻の歴代の髪の毛なわけですから」
「ずっと、奥様の髪の毛を切ってこられたんですか」
 もちろんですよ、と言った男性の口元がほころぶ。
「ずっと僕に髪の毛を切らせてください、というのがプロポーズの言葉でした。結婚してから、今日この日まで、ずっと私が切ってきましたよ」
 なにか思い出に浸るように、男性は髪を切る手を止める。
「でもある日ね、一度だけ。一度だけ、他の美容院で切りたいと言い出したことがありました。あのときは寂しかったなあ。子どもが小さくて育児が大変な時期で、飛び出すようにして家を出た彼女は、およそ一時間後、少しばかり奇妙な髪型になって、怒って帰ってきました」
「怒ってたんですか」
「そうです。頼んだ通りに切ってくれなかった、といって。結局、そのあと僕がもう一度切り直しました」
「やっぱり、奥様の希望に沿えるのはご主人だけだったんですね」
「そりゃあ、もちろん。頭の形から本人の好み、髪の毛の癖…誰よりも分かっているのは、この僕しかいないんです」
 そう、誇らしげに語る男性は、鋏を持ちかえて、今度は妻の前髪を切り始めた。短い白髪の粒がごくわずか、顔に舞い落ちる。
「それからは、他の美容院に浮気するなんて言わなくなりましたが、その代わり、『私もあなたの髪を切ることにする』なんて言い出すようになったんです。これには参りました。美容師の髪型がダサい美容院に、誰が行きたいと思います? 素人の妻のカットでちんちくりんにされては、後輩スタッフにどうにか修正してもらったりしていました」
 男性が、角刈りの頭をぽりぽりと掻く。もしかして、と頭に目をやる私に、男性は苦笑いしながらうなずいた。
「そうですよ。この角刈りも、妻の仕業です。少し伸びてきてしまいましたが」
 こめかみの髪の毛をつまみ、目が、見えるはずもない短髪の先を見ようと上を向く。
「年をとってからは、鋏は難しいということで、バリカンで刈られるようになりました。いっそ諦めて、美容院にでも行かせてくれれば良かったのに。僕に対抗して、むきになっていたんでしょうね」
「ご主人は、ずっと奥様の髪を切っていたんですものね」
「ええ。前回切ったのは、三日前だったかな。ここ最近は日課のようになっていて」
 なるほど、どうりで髪が伸びていないように見えたわけだと、私は深く頷いた。
「歳を取るとね、やることがないんです。子どもたちもみな、自分たちの生活を持って。私は妻の髪を触るのが好きだし、妻のほうは…きっと、シャンプーがお目当てだったんじゃないかな」
 そう言って笑う男性の目尻には、光るものがあった。ふいに身をかがめた男性が、お客さま、と妻の耳元でささやく。
「今日はドライシャンプーにしておきましょうか」
 男性は鋏を置き、持参の鞄の中身を漁った。しばらくして、あれ、ないという声を上げる。
「どうしたんですか」
「いえ…持ってきたドライシャンプーが見当たらなくて」
「たしか、奥様の好きな匂いのものを持参されると仰ってましたよね」
「そうです。おかしいなあ」と言いながら、男性は何度も鞄の中を覗き込んだ。
「なければお貸ししますよ。残念ながら無香料ですが、私も持ってきているので」
 私は仕事用の鞄を開けて、ドライシャンプーを差し出した。
「いや、どうもすみません。参ったな。『こんなに大事な場面で忘れ物をするなんて』と、妻に怒られそうです」
 残念そうに後頭部に手をやり、男性はぺこぺこと頭を下げた。
「お気持ちは届いていると思います」
 私の言葉に、男性は一つ、何かを飲み込む仕草をし、うんうんと頷いて妻の頭にシャンプーのミストをふりかけた。
「こうしてね、頭頂部から下に向かってマッサージされるのが特に好きだったんです。それで、ああ、いいわあ、もう一回やってちょうだい。なんて、何遍も何遍も言うわけです。僕は指が痙攣しそうになりました」
「プロの手さばきを何度も堪能できるなんて、幸せですね」
 男性は、彼が五十年ものあいだそうしてきたように、妻の硬い頭皮を何度も優しくマッサージした。
「どうでしょう。幸せだったんでしょうか」
「今も、ゴッドハンドだわって、仰っているはずです」
 へえ、そうなの?、と言って男性が妻の顔を覗き込む。
「なんだか、こうしてマッサージしていたら、血の気が戻ってくるんじゃないかなんて考えてしまいます。本当のゴッドハンドなら、出来たのでしょうね」
 そう言って男性は眼鏡を取り、右腕で目元を覆った。糊の効いたワイシャツに、涙の染みが付く。仕事を辞めてからも、妻の髪を切る時はいつも、仕事のときに着ていたこのワイシャツを着ていたんです、とは、つい先刻の男性の弁だ。

 そのとき、窓もない部屋に爽やかな風が通り抜けた。
「あれ? 何の匂いでしょう。良い匂い」
 男性がぱっと顔をあげ、桃…と言った。
「妻は桃の匂いが好きだったんです」
 いったいどこから…と不思議そうにしていた男性は、ふと何かを思い出したかのように自分の鞄を覗き込んだ。がさごそと探るまでもなく、中からドライシャンプーのボトルが出くる。
「あれ」
 つい先刻あれ程探していたものが、いともかんたんに見つかってしまった。二人して、ぽかんと顔を見合わせる。
「さっきはなかったのに…」
「奥様がいたずらなさったのでしょうか」
「かもしれないですね。いたずらしてみたは良いけれど、やっぱりこのシャンプーが良いと…もう一度やってちょうだいと言っているのかも知れません」
「やはり、気持ちがよかったんですね」
 そうなの? といって男性が妻の頬を撫でた。シュッ、と男性がミストを振りかけるたび、あたりに桃の香りが広がる。
「地肌がこれほど冷たくなければ…頭皮がこれほど固くなければ…妻はまだ生きているんじゃないかと思ってしまいます。心の準備はしてきたつもりでしたが、なかなか受け入れがたいものですね」
 私は黙って頷いた。
「ねえ、さちこさん。本当は、もう一回してちょうだいと言っているのでしょう」
 男性は妻に問い、静かな返事を待って、「だけど」と、自ら言葉を継いだ。妻の頭頂部から額、頬にむかって優しく手を添える。そして、まるで我儘を言う妻に言い聞かせるように、現実を受け入れられない己に言い聞かせるように、ささやくような掠れ声で、「だけど、これで最後だからね」と言った。
 部屋に、男性の「ありがとう」という微かな声だけが、繰り返し響く。繰り返し、繰り返し。桃の香りが一段と濃くなっていた。
「…ドライヤーは、冷風のほうが良いんですよね」
「ええ、できれば」
「寒いかもしれないけれど、ごめんね」
 男性は妻に向かってそう言うと、ドライヤーをつけた。妻に何か話しているようだったが、その言葉はドライヤーの音にかき消されて、近くにいる私にも聞こえなかった。ただ、横になる妻だけが聞こえていたのだろうか。彼女が穏やかに頷いたように見えた。

「さちこさん、お願いがあるんです」
 ドライヤーを終え、最後に仕上げのブラッシングをしながら、男性は妻に語りかけた。
「あのかつらだけど、僕が持っていても良いだろうか。本当は、ほんのちょっと前までは、きみの頭に着けて送り出してあげると、固く心に決めていたのだけれど」
 男性が手を止め、箱の中のかつらを妻の頭に被せる。
「ほらね、ぴったりだ。きみのために作ったものだから、きみがあの世に持っていくべきだろうし、ここ何年もきみが気にしていたぺたんこな髪の毛も、これをつけたら全く気にならないと思う」
 だけど…と男性が口ごもった。
「すみません。僕はどうしても手放したくない。まだもう少し、きみとの思い出を大切に持っておきたい。きっときみは、綺麗な髪の毛で送り出してくれなかったといって、僕を非難することでしょう。ごめんね、未練がましくって。これはあと少し、僕のもとに置かせてください。僕が死んだら、僕があの世へ持っていくから」
 そう言って男性は、妻の頭からかつらを取り、自分の頭に乗せた。かつらは不格好に、白い角刈りの上にふわりと鎮座した。
「すみませんが、僕が死んだときは、こうして棺に入れてくれませんか」
 私に向き直って、男性がそう笑いかけたそのとき、どこからか女性の快活な笑い声が聞こえた。

 愛する夫の手で、桃の香りを身にまとって、妻は最後の身支度を終える。

いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!