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【小説】 つぎのおはなし

「ゆうちゃん、もうおしまい。帰るよ」
 そう繰り返す私の声は、徐々に厳しくなっていった。

 それは、入院している父を見舞いに行った帰りのこと。病棟の来客スペースにあるテレビを食い入るように見つめる二歳の息子は、一つのことに熱中しだすと、なかなか次の行動に移ってくれなかった。
「お母さん、これから買い物行かなくちゃならないの。はやくして」
 無駄だと分かっていても、イライラしてしまう。もうちょっと、もうちょっとと食い下がる息子にイライラし続けて、じゅっぷん。けっきょく私は、大きな溜め息をついて、息子の横に腰掛けた。
「おかあさんさあ」
 テレビCMの合間に、息子が私に話しかける。
「おしまいおしまいって、おしまいのことばっかり話しちゃいやだよ。そんんなんじゃぼく、いやだ」
 なぜか私の方が怒られる始末。
「じゃあ、なんて言えばいいのよ。おしまいはおしまいでしょう」
「やだ、おしまいは悲しいよ。つぎのおはなしして」
 次のお話ってなに、と尋ねると、彼は「ほら、かえりは、ぼくが車をうんてんするとかさ」とハンドルをきる動作をした。無理に決まってるでしょ、との私の返事は右から左、彼の視線はまたテレビへと戻ってしまった。

「おしまいは悲しい」
 私は、息子が放ったその言葉を、胸のうちで何度も反芻した。

 翌日は休日だったので、息子を夫に預けて父の見舞いへと向かった。父の余命は、長くない。余命半年を宣言されてから、すでに一年が経っていた。なんとかここまで頑張ってきた父だったが、この一ヶ月、明らかにその力を失いつつあるのが見てとれた。
 私は温厚な父が好きだった。母は、すでに亡くなっている。親という存在がこの世からいなくなってしまうことについて、そして死について、夜ごと暗闇を見つめては考えをめぐらし、眠れない日々を送っていた。

 病室に着くと、父は眠っていた。静かに洗濯物を回収し、新しいものを棚に仕舞う。カーテンの隙間から西日が差し込み、病室が静寂の中に漂う。

 どれほどそうしていただろう。いつの間にか父は目を覚ましていた。
「泣いているのか」
 ひどい掠れ声で、父が私に問う。頬に手をやり、自分が泣いていたことに気がついた。父が私の手を握る。
「夢をみた。どこか、異国のマーケットで、僕は果物を買っていた」
 父の手は柔らかく、呼吸は穏やかだった。
「なぜだろう、僕には確信があった。これが僕の来世の姿だ、と」
 来世? と私が聞き返すと、父は緩やかに笑って言った。
「そう。死んだあとの、僕の次のおはなし」

 家に帰り、夕飯の席で、私は夫と息子にその出来事を話した。夫は、何やら真剣な顔つきをしたあとで、「明日は家族全員で見舞いに行こう」と頷いた。
 箸から逃げるトマトをつかまえるのに必死で話を聞いていないそぶりだった息子は、なんとかかんとか、トマトを口の中に放り込んだと思ったら、元気に言い放った。
「ぼくもゆめをみたよ。生まれる、もっとまえ。パパとママがいて…ちょうど今みたいなところ」
 私と夫は思わず顔を見合わせる。
「それ…前世に今の場面を夢に見たってことか」
 夫が息子を問いただすも、それ以上、息子は「わかんなーい」を繰り返すばかりであった。

『おしまいは悲しい。だから次のおはなしして』

 その日、布団に入った私は父の来世の姿を想像した。どこの国の人だろう。髭もじゃの赤毛の大男だろうか。それとも、ヒジャブを被った女性だろうか。考えているうちに私は眠ってしまった。
 ひさかたぶりの、安らかな眠りであった。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!