雲と仏教と、好きのかたち
雲を眺めるのが好きだ。
特に、パノラミックな場所で、つよい風にゴンゴンと流されている雲が好きだ。たとえばチベット高原とかの、粒子の粗い青さをもつ空を、光や影を大地に投影しながらゴンゴンと流れる雲なんがか最高に好きだ。
車窓から見る雲も好きだ。
ああ、どうしようと、なぜか焦りにも似た苦しさを感じるほどに好きだ。
雲が好きだが、詳しいわけじゃない。積乱雲くらいしか名前を知らないし、雲が生まれる仕組みもよくわからないし、写真を撮ることもない。
好きにはふたつある。
対象物に関してとことん突き詰める好きと、
理由のない好き。
わたしの好きのほとんどは、後者だ。
由来も歴史も特に知りたくない。知識もいらない。
ただ、自分をゆだねたい。それが、私の「好き」のかたちだ。
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オタク、といわれる、ひとつのコンテンツを楽しむことに心血を注ぐ人たちがいる。昭和から平成を経て、この言葉のネガティブ感はだいぶ薄れたと思う。森高千里と宅八郎をリアルで見てきた世代としてはすごい変化だと感じている。
最近では、「推し」という存在にエネルギーを注ぐ人も多い。
なんと呼ばれていてもいいのだけど、そのような人たちを見て驚くのが、「知りたい / 欲しい」という欲求が強いこと。
わたしは好きであっても別に知りたいと思わないし、欲しいとも思わない。
だからグッズを集めたり、発売日に並んだり、常に最新情報に触れて気持ちを高揚させている人たちを、心からすごいと思っている。あれ、才能だ。
対象物に関してとことん突き詰める好きと、
理由のない好き。
前者のパワーは大きい。経済を動かし、自身のメンタルをととのえ、人との関係性をはぐくむ。
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わたしにだって、雲以外に好きなものはたくさんある。わたしの人生はちゃんと好きなもので構成されている。でも、何でだろう、好きになって、知るための行動を取ると、途端に好きじゃなくなる。
きっとわたしは、詳しくなくても許容してくれる人やものに、心や時間をゆだねることが好きなんだと思う。
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たとえば日本酒やウイスキー。
たとえば鉄道。
わたしは好きなものに対して、知識がなければないほど、好きが増すタイプだから、詳しいと思っていろいろ聞いてくれる方、申し訳ない。
銘柄や年代とかをインプットする余地がないほど、ほわわーってなるお酒が、好きなお酒だし、型式も行先も分からずに乗っているだけで知らない土地へ連れて行ってくれる電車が、好きな電車だ。
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話は変わるが、仏教が好きだ。
大学では仏教史学科にいた。
卒論は「中国西域における仏陀観の変遷」。カンタンにいうと、インドで生まれた仏像がシルクロードを経て日本に伝わるまでに、どうして顔やかたちが変わっちゃったの?ってやつだ。図像学(イコノロジー)ともいう。
仏教で大切な概念に、「ゆだねる」がある。
親鸞いうところの他力本願とは、他人任せという意味ではない。すべてを他力(仏の心)にゆだねきる、ということの難しさを説いた言葉だ。
自分ではなく、他人でもない「なにか」にすべてをゆだねるのは、とっても怖い。「ちょっと頑張ればなんとかなるっしょ」とか「あいつのせいで…」とか、人は常に自分や他者のせいにして生きている。それを捨て、仏にゆだねるのが、他力本願だ。
流行りの言葉でいうと、生殺与奪の権ってやつをイメージしてもらうと、その怖さがわかるかもしれない。この言葉の起源はラテン語らしいけど、「少しだけ任せますわ」「あ〜、あかんかったから引き払いますね」なんて判断が一切通用しない状況。ほんとうに怖いと思う。
剣を突き付けられての生殺与奪の権とちがい、仏教において仏に身をゆだねることは、極楽への道でもある。カンタンなようで、やっぱり難しい。
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仏教では、とくに大乗仏教では、信仰をもつ庶民に知識を求めない。
仏のことを知らなくてもいい。経典が読めなくてもいい。まったく知識がなくても、身をゆだねるだけで、よい。
雲と同じだ。
だからわたしは大乗仏教が好きだ。
わたしが何も知らなくても、受け入れてくれるから。
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昔、空を眺めながら『雲が流れたり、空が青い理由を言葉であらわしてくれたのが、仏教なんだよ』っていったら、
『なんだ、そんなこと意味ないよね』と返されたことがある。
違う、違うんだ。空も青さも、雲の流れる速さも、科学的に解説できるだろうけど、そういう知識を超越して「雲を好きでいていいんだよ」「好きな理由を、わざわざ考えなくてもいいんだよ」と、生を肯定し、それを言語化してくれているのが、ブッダの教えなんだ。そのときはうまく反論できなかったけど、そういうことだ。
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私には好きな人がいるけど、その人を好きな理由なんて言葉にできないし、ぜんぶ知りたいとは思わない。
ただ私を完全に肯定してくれて、私も完全に肯定できているだけで、十分好き。頭空っぽにして、人生をゆだねられるから、余計に好きなんだと思う。
こういう「好き」を持っている人がどれくらいいるかわからないけど、「好きなら知ってて当たり前でしょ?」と思われるのがしんどいなーと思ったので、ちょっと書いてみた。
2021年は、もっともっと「好きなら知らなきゃ」を捨て、心地よい人やものに心身をゆだねて生きていきたいと思う。
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