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中世ヨーロッパではネズミも弁護士を雇えた⁈/『動物裁判』 ★★★★ Popcorn in a Strip Club vol.1

一発目に紹介するのは『動物裁判』/池上俊一、30年前に書かれた、アナール学派系統の文化史の名著です。それを今回ぶらっと入った書店で目についたのをなんとなくジャケ買いしました。環境問題や動物倫理に興味がある方、グレタ=トゥンベリと急に街中で鉢合わせても喋ることないな、どうしよう、などと悩んでる方などにおすすめです。


中世のヨーロッパは色々とトチ狂っていたことで名高いですが、殺人などの罪を起こした動物を人間と同じように裁判にかける風習がありました。弁護人もついてしっかり裁判記録も残ります。豚やネコを絞首刑にしたり、虫や氷河、鐘をキリスト教の世界から破門にしたり、謎の裁判記録がたくさん残っています。魔女狩りなどもこうした風習の延長線上にあったとのこと。この本は著者がそうした裁判記録を一つ一つ拾い上げまとめた成果として出された本です。そのため、研究書色が強く、さらっと読み流すと少し地味に感じる本です。アナール学派の研究者の本特有の緻密さから来る地味さですが、結論から考えられることは多いです。

そもそもアナール学派って何?という方も多いと思いますので、まずはその紹介から入りたいと思います。ウィキペディアでサクッとチェックして次のアスタリスクまでジャンプしてもらってもいいです。むしろそっちの方が良いです。*(1)

アナール学派は20世紀初頭のフランスで始まった史学の研究手法の潮流です。それまでは、歴史の政治的な転換点や重要な為政者を点で追い、点と点の結びつけ方を考えるというのが史学の主流でした。しかし、政治だけが歴史だけではありませんし、書物に残っている人だけが人間の歴史紡いできたわけではありません。むしろ歴史を紡いできたのは名も知れない大衆であり、彼らのいる社会の存在があったからこそ、政治が必要とされてきたのです。大衆や社会そのものを歴史学の対象としようという試みがアナール学派の慧眼でした。

一つのテーマを深く掘り下げて、統計や計量的な手法を駆使して、社会の実像を炙り出していく、というのがアナール学派の特徴的な手法です。また、家族社会学や地理、地政学、食糧史、法制など、史学という一言ではまとめきれない領域横断的な研究が多いのも魅力です。

古代から現代に至るまでの地中海の歴史を一貫してまとめたフェルナン・ブローデルという歴史家の『地中海』という重厚な本がアナール学派を代表する名著として有名です。昨年亡くなったウォーラーステインも20世紀後半の社会科学を席巻した世界システム論の発想の多くをこの『地中海』という本から得たといいます。また、近頃10年おきぐらいに流行る分野横断的な人類学史、具体的には『銃・病原菌・鉄』や『ホモサピエンス全史』などもこうしたアナール学派の残した歴史研究の手法の延長線上にあると言えるでしょう。(個人的にはこれらの本はアナール学派の緻密な調査手法に比較して、特に著者の専門外の分野の調査や考察がユルすぎ、単なる想像に依拠する部分があまりに大きいと思いますが。)

前置きが長くなりましたが、中身の紹介に入りたいと思います。本書は2部構成になっています。前半は動物裁判の判例紹介でビックコミックとかで連載できそうなほど、マッドなエピソード満載です。後半はキリスト教世界における人間と自然の関係性の推移から、動物裁判とはなんだったのかを分析しています。著者の分析を私なりにまとめると以下のようになります。「古代〜10世紀は自然は畏怖すべきものだった。しかし、時代が下るにつれ、自然を体系的、機械的に捉える考え方、すなわち人間と自然を二分する考え方が生まれ、自然をコントロールし、征服するという発想が出現する。中世(=動物裁判が最盛期を迎えた時代)はその過渡期であり、人間が自然を理解する(=自然を人間の論理に取り込んでいく)過程であった。と同時に、動物裁判とは人間が自然を蹂躙、搾取できるという発想の象徴的な行為であった。」

興味深いのは著者が最後に環境問題に言及している点です。科学技術が自然を完全に掌握し、人間の存在を脅かすほどまでになったことへ揺り戻しとして、西洋から環境問題が提起されているのではないか、ただし、中世から続く自然観は根深く、人間と自然の調和ないしはそうした二分法からの脱却は難しいのではないか、と著者は最後に述べています。

ただし、これは著者の30年前のコメントです。この30年を振り返ると、環境問題という観点では、ヨーロッパの方が時には過剰とも思えるほどの揺り戻しがあったように思われます。これはなぜでしょうか。彼らには「自然を蹂躙してきた」という文化的背景の自覚があり、それを克服するという明確なベンチマークがあったからではないかというのが私の意見です。自然と人間の関係が渾然として曖昧だった東洋では、環境問題についてもなんとなく曖昧なままのらりくらりと進んできたように思われます。(もちろん、産業構造や経済の変化の段階の違いもありますが。)「歴史なんて何のために研究、勉強するのかね」という意見を聞くことも少なくないですが、社会全体が進む方向性にに少なからず影響は出てくるのだろうと、私は考えます。*(2)

最後に、本書にはでてこなかった私なりの動物裁判の解釈を附しておきたいと思います。肉食が主流のキリスト教世界でさえ、やはり食餌にする以外の目的で動植物を殺すことに人々はやましさや抵抗感を抱いていたのではないかと思います。キリスト教以前のヨーロッパの信仰はアニミズムだったというのも、その裏付けになるでしょう。民衆レベルのアミニズム的世界観からキリスト教的世界観への変化は時代とともにグラデーション様に変化してきたと、本書内でも語られています。故に、やましさを捨て「気持ちよく」動物を処分するためには、神学、法学的権威から「殺して良いのだ」というお墨付きが必要だった。それが、神の下における裁判であり、破門だったのではないか。動物裁判とはそうした「納得」のためのプロセスではなかったのか、というのが私なりの見方です。

キリスト教、イスラム教、仏教といった比較的新しい宗教は、どれもアニミズムにおける人間と自然の関係性の矛盾、すなわち、「人間も動物なのに、人間は動物をなぜ殺して食べるのだ?」という疑問を克服するために生まれてきた面があるようにも思われます。ユダヤ教由来の宗教は人間が自然を征服しても良いのだと正当化する方向に、仏教はすべての殺生を禁じる方向に、逆のベクトルが働いているのも面白いところですが、この辺りはまた別の機会に考えることにします。

さて、本書は題材も面白く、社会における風習や宗教の歴史の捉え方を学べるという点で、本来は五つ付けたいところですが、文体など少し小難しいところがあるので、一つ減らして★★★★としたいと思います。

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*(1)
私がアナール学派と接点を持ったのは、大学に入り転学部をして大きい括りでの史学を学び始めた頃でした。(経済学部で史学を学ぶという倒錯までの顛末については別稿に譲ります。)史学の手法を学びはじめるにあたって、川北稔さんの『砂糖の世界史』という中高生向けの名著を読み、計量的なアプローチからの地に足のついた帰納的な論証に初めて触れました。「資料収集から読み込みまでがめちゃめちゃ緻密だし注意深く謙虚かつ周到で、ちょっとずつ伏線を張っては回収を繰り返し結論まで持っていくいぶし銀スタイルが、なんかオトナだな」と思った瞬間が転回点だったように思います。そこからウォーラーステイン→ブローデルと辿っていきました。

*(2)
環境問題、自然保護といった概念を権力側が最初に提起したのはナチスドイツだったという情報をどこかで目にしたことがあり、最近はこの辺にも興味があるのですが、なかなか資料が集まっていません。

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