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かっこいいバグ/『高丘親王航海記』澁澤龍彥 ★★★★★/Popcorn in a Strip Club vol.6

 玄関から外を出ると大きな湖の見える部屋に住んでいる。『高丘親王航海記』という小説に近江の湖の風景がよく出てきたのを思い出して、15年ぶりに読んだ。週末に鴨川で夏至の日のミッドサマーパーティーをして、自転車で帰宅する最中、峠を超えて眼前に湖が開けて見えた瞬間、今読まねばならないと思い夢中で読ん。

この本は仏文学者である澁澤龍彥の唯一の長編小説であり、病の床の中で書かれた遺作でもある。書籍として世に出る前に日本の仏文学界の巨星は荼毘に付されていたという。私がこの本を初めて手にとったのは中学か高校の頃と記憶しているが、今回改めて読み直し、当時はいかにその意味内容を理解していなかったかということを痛感した。15年の時を経て、私自身が作中の高丘親王と同じように東南アジアを歩き回り、仏教について、あるいは人の死について考えた末、再びこの小説に戻った時、そこには新しい物語が立ち上がっていた。

 主人公の高丘親王は平安時代の実在の人物である。平城天皇の息子であり、次期天皇の地位にありながら、若くして政界の謀略によりその地位を剥奪された。その後は政界復帰を目論むでもなく、空海の一番弟子となって仏門に帰依し、東大寺の大仏の仏塔の修理などの陣頭指揮をしたことで知られる。終生権力などには興味がなかったようで、空海亡き後も高野山を継ぐといったことはなく、晩年は齢60を過ぎてから唐に渡り、さらに天竺を目指すために広州を出帆した後、洋上で行方不明になっている。聡明さ、バイタリティと知的好奇心、権力や金への清潔さは、高貴な出自ゆえのノブレス・オブリージュであり、ブッダと重なるところもあるだろう。

 澁澤の書く『高丘親王航海記』の物語は、高丘親王の一行が唐を後にして洋上で行方不明になったところから始まる。物語のエンジンは単純である。高丘親王は父の愛人であり、幼い頃の養母でもありながら、早逝した藤原薬子の影を求めている。彼女は亡くなる寸前に天竺について意味深なことを仄めかした。そのために、彼女の影を希求する心が年老いてなお高丘親王を天竺へと向かわせる。


 彼の必殺技は、昼寝をして、夢を見るということである。何か困難に直面するたびに、高丘親王はすぐに眠って夢を見る。すると、夢の中で再び不思議なことに直面する。映画『インセプション』ばりに夢の中でも夢を見て、結果、いつの間にか万事が丸く収まっているのである。この小説を一行でまとめるならば、寝てばかりいる死にかけのおじさんが、いい年こいて母と初恋の人を一緒くたにしたような存在を追いかけて天竺に向かう物語である。

 澁澤の本業でもあった精神分析的なアプローチによる批評は専門家にまかせておくとして、私はこの物語を「寛容さ」というキーワードで捉えてみたい。物語は病床で死に直面しながら、死に向かうことについて表現しようとした澁澤自身の執筆状況が話の筋にそのまま反映されている。が、その書きぶりやプロットはテーマと逆接していて、非常に鷹揚でほのぼのとした旅路に終始する。それは高丘親王自身の優しさ、寛容さ、達観、に由来するものである。その点で、今、この状況下で読まれるべき作品と私は考える。(現在の私の興味関心については、”暴力の時代が来る”という記事にまとめてあるのでもし良かったら読んでみてください。)

 この物語が普通の冒険譚と決定的に違う点は、困難や障害、敵と思われる事物に直面すると、主人公自身がすんなりその解決を引受け、難なくクリアしてしまう点にある。実際、屈強で博識な二人の侍者とともに旅をしているのだが、障害を乗り越えるのに彼らの力を借りることはほとんどなく、ただの退屈しのぎの話し相手のために連れてきたというようである。

 また、困難を引き受けたとて、敵と戦ったり、問題解決するような素振りを見せず、その場流れに身を任せ、殆どの場合は眠りこくって夢を見ているうちに、のらりくらりと交わしてしまう。結果、高丘親王の身に降りかかるあらゆるもは彼の味方になっている。

 例えば、少年だと思って侍者の一行に迎え入れた秋丸という子どもが女子だということが判明するシーンが象徴的だ。「仏門に帰依するものが女など連れて…」とか「天竺までの険しい道を女が同行できるのか…」などとあれこれ悩むパーティの仲間を尻目に、高丘親王は「まあいいじゃん、行けるとこまで一緒に行けば、また男に変わるかもしれないし」と鷹揚過ぎる謎思考で解決してしまう。

ここから、本稿は二つの結論に向けて並列に分岐する。一つは澁澤の死生観、仏教観、あるいはそれに由来する物語の構造的な巧妙さ、独創性についてであり、2つ目は寛容さについてである。

 まずは1つ目から片付けていきたい。高丘親王の寛容な振る舞いは、澁澤なりの解脱の解釈であると読むのが妥当ではないかと私は考える(*1)。すなわち、高丘親王は「解脱」を知っている人物として描かれている。

 その上で、『高丘親王航海記』が普通の仏教にまつわる物語、あるいは一般的な物語全般と全く異なるのは、「解脱」の先が描かれている点にある。どういうことか。そもそも仏教の目的は「解脱による救済」である。すなわち人々は「こんな苦しいことばかりの世の中」から救いを求めているのであり、「解脱」がゴールとなる。すなわち、仏教の物語においては、登場人物が解脱を理解したところで、世界がフラットになり、全てがゼロに回帰して、当人は輪廻転生から脱し、そこで物語(=俗世)が終了する。

 一方、本作において、高丘親王は、解脱を知っており、物語中のあらゆる場面で解脱を知っている者として振る舞う。しかし、薬子の幻影=天竺、というただ一点において彼はこの世を捨てきれていない。というより、解脱の結果、そうした自分が俗世において捨てきれないものを、捨てきれないものとして諦めている、というのが正しいように思われる。

その結果、高丘親王はラストでウルトラCを選択する。トラに食われることで、解脱を知覚しながらも、解脱せずに輪廻転生を続ける、あるいは俗世にとどまり続けるのである。ここにおいて、解脱が最終目的である、という仏教の根幹が否定される。それはすなわち、「解脱しているからこそ、輪廻転生の世界においてすら苦しみを感じることはないのではないか」という澁澤からの問立てでもある。ここにおいて、「解脱によって、俗世から足を洗って違う世界に行き着く」という、仏教の根本思想に内在する矛盾がハックされている。結果として高丘親王は解脱を知っていながら、かっこいいバグとしてこの世を輪廻転生し続ける。

 もう少し物語一般の話に落とし込めば、次のようにも言えるかもしれない。あらゆる物語の類型において、その登場人物は具体的であれ、抽象的であれ、何かを求めている。困難に立ち向かい、それに打ち勝つことを希求して成長したり、宝や愛情など、「求めるもの」を手に入れるまでの物語が描かれる。

しかし、『高丘親王航海記』においては主人公が最初から何かを求めているのに、何も求めていない状況が両立している。すなわち高丘親王は最初から、夢見という最強の能力と、鷹揚さという最強の性格を身に付けている。何もがんばらないし、結局最後まで何も手に入れない。そこにはただひたすらに無欲な優しいおじさんがいるだけである。物語の類型においては完全なる破格であり、普通であれば読むに耐えない小説になる。しかし、最後までページを捲る手が止められない面白さがある。それは、万華鏡を覗き、終わりのない色の変化をただ見守っているような楽しさでもある。こんな小説は稀だ。(*2)

 2つ目に行こう。今、2020年においてこの物語を読む意味についてである。BLMなど昨今の状況を鑑みて、「差別は無知から始まる」というようなコメントをWeb上で見かける事がある。確かに一理あるのかもしれない。しかし、それだけでは舌足らずだし、道徳の教科書に書かれているような、表層的な綺麗事に終わるような気がしてならない。知ることだけでは、差別や紛争は解決しない。なぜなら、それらは無知や知とは関係なく、不寛容さから生まれるからだ。例えばゴリラは無知だが、差別をしないであろう。人間の幼子も同様である。

 高丘親王は行く手を阻む敵や異型の怪物を差別しない。敵を敵と怪物を怪物と思わない。というより、寛容さの鬼たる高丘親王には、敵や怪物という概念が存在しない。外部が存在しない。全てに平等に対応し、受け入れ、内部化する。結果、全てが高丘親王の味方につく。かと言って高丘親王は何か物質的な成功を収めるわけではない。ただ、周囲も幸せをもたらし、本人も幸せに死んで、次の輪廻転生へと旅立っていくのである。

今回は星5つ★★★★★ 2019年のM1のぺこぱの漫才とその評に少しでも共感した方に、背中を叩いておすすめしたい小説だ。

(*1) この点はもう少し、踏み込んで学術的に説明される必要があるかもしれないが、力不足のため、私は現時点で明確な根拠をお示しすることができない。「そう読めば本作が一層面白く感じられる」という提案にとどまる。ここで、仏教における「解脱」とはなにかという点について補足しておきたい。解脱とは、仏教の目的である。言い換えれば、仏教とは解脱とは何かということを考え、追求する行為であり、解脱をいかに解釈するかで、その部分に人それぞれの色が出る。そのあたりが寛容さが仏教の特色でもあると私は思う。私自身が参考になったと感じた、解脱観はヘルマン・ヘッセ、魚川祐司、みうらじゅんの3人がそれぞれ提示しているものである。ヘルマン・ヘッセは『シッダールタ』という小説において、ヨーロッパ人という立場から彼なりに解脱について理解しようとしている。彼の言葉でいうと、「時間の流れを理解し、そこから自由になること」である。魚川祐司氏は在野の仏教研究家で、私がミャンマーに住んでいたのと同時期にミャンマーで仏典の研究をしていて知った。(後から、前職の同僚の実兄のだということが判明するのだが、その話はまた別の機会に)彼は『仏教思想のゼロポイント』という本で、解脱とは「煩悩や渇愛の消滅という状態を知る」ことだという。また、みうらじゅんは『見仏記』などで知られる仏像愛好家であり、(彼の活動の原点は小学生のときの仏像のプロファイリングにあるという) 『最後の授業』というNHKで放送されたバラエティ番組で彼なりの仏教観が語られたことがある。(たまにYoutubeにアップされては消されている番組である。)曰くそれは「自分探しならぬ、自分なくしの旅」個人的にはどの表現もかなり解脱という感覚に肉薄しているように思われる。しかし、最後の一つ、真髄に至るまでに綿のようなものが挟まっている感が拭えない。それはひとえに、「解脱」という概念自体が、言語化できるものではなく、体験によって理解されるべき感覚なのであろう。まさしく、夢を食べたことがなければ、夢の味がわからないのと同じである。
 


(*2)強いて言えば、エイモス・チュツオーラの「やし酒のみ」がそれに近いかもしれない。あれは、やし酒を求め続ける物語ではあるのだが。


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