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子育ては自分のインナーチャイルドを満たす事

私と夫は似ている。

育った国や環境は違えど共に両親が仕事で忙しかったので鍵っ子だったし両方に妹がいて面倒を見ないといけなかったこと。

ある程度の習い事もさせてもらえていたけど
全部自分で行って、帰ってきて「あそこのとこ上手にできたね!」とか誰にも褒めてもらえることやフィードバックは親からはなく、ただ淡々と習い事のルーティンをこなしていた子供時代。

今、夫と私には10歳の娘がいて週に4日の習い事の送迎はもちろんのこと、娘のこなす習い事を見学したり(携帯ばっかりを見ていない)、休みの日には一緒に練習もしたりして過ごしている。

それで夫と共に気づいたんだけど、
まめに、真剣に、二人共、娘の習い事には積極的に関わるようにはしていて、

それって・・・きっと・・・

自分が幼少期にしてほしかったことを今、娘を通してやらしてもらっていてそれが昔の子供時代を癒やしている気がするね。という結論になった。


私の母は実家業の化粧品屋を手伝う、というレールが既に敷かれていて頭のいい高校を卒業後、行きたかった外大の進路を諦めて家業を手伝うしかなかった。

そして母は母で昔、自分が習いたかったピアノや、
習い事を私にさせてくれ、きっと一番の夢だったであろう、英語を勉強して話せるようになる、という外大での自分の夢を次世代の私に託したんだろうな、と思う。

だから、高校を卒業してからアカデミックでなかった私がやってみたかったことは(英語が話せる・わかるようになること)という目的のため、1年半の留学でオーストラリアで勉強させてもらった。

で、縁は不思議なもので、今の自分がここメルボルンにいるわけなんだけど。

私が小学生低学年の頃、変質者に追っかけられたりしたことが何回かあって、一人で校区外のピアノ教室に行くのがとても怖くて、何故か校区外の駅を超えた瞬間、マッハでチャリをこいでピアノ教室まで行っていた記憶はまだある。

校区外に出るのは悪い事、という昭和の教育のおかげもあって一人で行くのが怖かったんだよなー、本当。

「昔て実はそうやってん。」っていう話をこないだ母にしたら、
「えーーーー。そんなんしらんかった。」と驚かれた。

当時は6歳年の離れていた妹の保育園の送迎も
週に何回かは手伝っていたので、母もまさか私がそんな一人で行くのを怖いと思っているとは想像もしていなかったと思う。

けど、状況的に私が母を手伝わないと家族が回らない。

店の早出、遅出等も叔母と交代でやっていたのでそういう「ピアノまで送って行ってほしい。」的に言えるオプションはないと悟っていたんだと思う。

やっぱり一人でいる家、というのは子供ながらに
寂しかったので、母が遅出の日は習い事が終わったりしたら自転車で“校区外”にある店に行っていた事の方が多かったと思う。

よくよく人生を振り返ってみたらきっと、
寂しい子供時代だったんだろうな。

親の手伝いがあって伸び伸び、子供時代に
子供ができなかった、的な?

今は夫と二人で「焦って大人にならんでもいいよ。子供は子供らしくいっぱい遊んで!」というのを娘によく言っている。

自分が母になり、そんな子供時代の自分を癒やすためか、私は仕事を早朝シフト〜昼間のものを選び、娘を学校に迎えに行き、私か夫、どちらかは家にいる。という状況を作っているんだと思う。

夫の家庭は私より少しだけ複雑だったんだけど、
ある程度同じような状況で育ったから、私が週3ぐらいで仕事して一緒に習い事に連れて行ったり、「You Tubeの前に宿題しーやー!」と言える(誰かが見ている)、一緒にピアノの練習をしたりする事を好ましく思っているんだと思う。

夫も「自分達が親に放課後、宿題とか習い事見てもらえてたりしたら今と状況は違っていたのかもね?」なんて話をしている。

そう思うと、本当、子育てって無償の愛というか、なんというか、癒やさせてもらってありがとうね、と感謝の気持ちまで湧いてくるから不思議なんだけど。

まー全員がそう。とは言い切れないが、
親になると成長する、というのはそういう自分との幼少期を振り返り向き合う・対面して、自分の負の部分を癒やすという事に繋がるんだろうな。

気をつけないといけないのは自分の行動が娘にとってウザすぎないか、折を見て聞かないとな、と思っている今日このごろ。w



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