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書くことと生きること

あけましておめでとうございます。本年も不定期ではありますが、細々と更新していきたいと思います。さて、新年を迎える当たって、一作目にはやはり、今年の抱負でも書き散らしていこうかなと思ったんですが、その前にちょっと書き留めておきたいを思い出したので、放言しておきましょう。言ってしまえば、昨年の反省のようなものです。

最後に文章らしき文章を書いたのが、昨年の9月のはじめ、当時はまだ夏季休暇だったこともあり、友人と飲み歩き、青臭い思索に耽りっては時々文章に型取り、まさに蜜月ともいうべき時間でありました。学生の本分である勉学にも精を出さねばならないと、徐々に肥大していた壁越しの焦慮には、読書で得られた衒学的な知識で十分でした。入学して一年半も経つのに、僕にはまだ、博識であることと、学問を修めていくことの違いがわかりませんでした。
夏季休暇を終えても、依然としてその余韻が尾を引いており、過剰な自己肯定から生まれた愛他主義には以前の自分には想像もつかなかった何か狂気めいた必死さがあったように思います。存在が世界を侵食する喜びに取り憑かれていました。
それまでの僕は、人に対して受動的な抱擁ともいうべき態度でした。どういうことかと言いますと、来るものは拒まず、されることにも拒まず、それらすべてを一種のペシミズムを以つてラベリングし、その人を全肯定し、全受容することであります。そこに主体性はありません。その人の目前には、僕の映せる範囲でのその人がいるわけです。この隷属にも近い関係の中にこそ、円滑の極意があると無意識ながら味をしめ、その秘術を慈しみ、ときに人間関係には忍従しなければならないなどと人生訓めいた言葉を、真摯な口調で語ってやることで、人から尊敬を集めようとしていました。人間関係は利害の過多で結びつくんだから、この人が望むことに習熟し、実践し、ときには人生訓めいたことを言ってやれば、それなりに人受けすることを知っていました。

どうして自分のことを全肯定してくれる人を意識的に嫌うことができますか。これはさしたる長所もない自分がなんとか人間の隙間を、深傷を負うこともなくすり抜けていくために獲得した術でした。
この態度を積極的に行使し始めたのが、夏季休暇を終えたあたりだと思います。積極的に人に話しかけ、その人の悩みを引き出し、解消し、友達になった留学生とは互いの母国の問題点を語り合い、必要とあらば自分の時間を縫ってまで買い物に何回も付き合ったりと、これらは全部、僕が望んでやっていたことでした。とにかく人に優しく、寛容で、思慮深く思われることが至上命題で、精神力の大方を注いでいましたから、当然のごとく、人も自然と集まってきます。

人に囲まれて気づいたのは、ありきたりですが、常に孤独だということです。何も満たされません。僕はこの一連の愛他主義で、一体何を証明したかったのでしょうか。僕の言っている意味がわかりますか。孤独です。孤独しか見えませんでした。ドーナツに例えるとわかりやすいかもしれません。自分の存在意義が皆目見えず、周りにひたすら物理的な対象をいくら積み上げても、積み上げるだけ中心の空間が空虚に見えていくだけなんです。こんなことを言っておきながら、弁明するように聞こえるかもしれませんが、友人らにはもちろん感謝はしていますし、彼らを嫌う正当な理由ももちろんありません。ただ、実体の確認のためにそういう関係へ落とし込んでしまった自分の狡猾さがたまらなく嫌なのです。それに気づきもせず、いや気づいているのかもしれませんが、何食わぬ顔で、僕にいつも通り接してくれる優しさに耐えられなくなるんです。

だから、僕は人と次第に距離を置き始めました。連絡先を自分から交換することもなくなりましたし、SNSでの通知もオフにして、他者の介入を徹底的に除外しました。忙しさを理由に断った約束も数しれません。忙しい、便利な言葉ですね。僕は、忙しくもないのに、人と会わないために、短文で会話を切り上げるために、そして神様の立場からでも正当に見えるように、忙しさを作り出していたんじゃないんですか。本当は、人との関係が深まっていき、化けの皮が剥がされてしまうことがただ怖かっただけなんでしょう。短い時間で築き上げた関係は、短い時間でなくなってしまうものです。
僕には次第に以前のような平穏さが戻ってきました。側から見ると孤独に見えるかもしれません。けれども、僕には一人でいることが、いや、自分と一緒にいることが、孤独から逃れることのできる唯一無二の方法なんだと、改めて認識しました。

じゃあ、自分と一緒にいるにはどうしたらいいんでしょう。それは、書くことに他ならないと思います。自分は一番近い他人です。自分のことは自分が一番わかりません。言葉にしなければお互いを分かり合えないように、自分とはもっと、分かり合えないんじゃないですか。

僕はあんまり自分の内心を面と向かってさらけ出すのが得意ではありません。自分を見ている他人を、面前で否定してしまう気がするからです。それに自分すら分かっていない自分を、邪な心で見せびらかそうとする安易な虚栄心が見えてしまうから嫌なんです。

それに、今の考えに合致した言葉を無意識から掬い出すほど、頭が良いわけではありません。人を笑わせるのも、人の相談に乗るのも好きですが、言葉の背後にあるのは、ただ計算されたいい加減さです。適当なことほどハッキリ言えるでしょう。本当のところは、浮かんできたあり合わせの言葉をつなぎ合わせて、なんとかその場を凌いでいるだけなんです。

文章を書くというのは、言葉の精妙な配列から、句読点の付け方、文の緩急に至るまで、時間の許す限り心の奥底に届くよう言葉を鋳造できる、最も深い自己対話の形式なんじゃないかと気づきました。
今年は、自分の声を、もっと拾ってあげられたらいいなと思っています。そして、もう少し自分の声に従って生きたいと思います。

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