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帰国途上

最後の投稿から早ふた月以上たってしまった。街を覆い尽くした冬の面影はほとんどなくなり、建物の影には太陽の目を盗みながら気息奄々と春を待つ残雪の様子が日常の風景となっている。少し可哀想である。僕はというと案の定、今年の目標であるひと月に10本以上の文章を書くという目標は早くも崩れ去ってしまった(年間で辻褄を合わせる姑息な手段に出るしかない)。

文章を書けなかった主な理由は、文章で考えを整理するほどの余裕を心に持てなかったからだ。学期末テストに加え、海外研修のための準備等もあり、ここ二ヶ月は本当に忙しかった。
それに加え、海外研修で日常言語を英語に切り替えていたため、言葉が出てこなくなっていた。
その分英語が上達したかと言われれば、決してそんなことはなく、どっちつかずの言葉を朧げに話す帰国後の僕は、自分の国で異邦人になっていた。かのシオランも言う、母国とは国語であるとは、真なのだと痛感した次第である。

海外での経験は、おそらく一生忘れることなく今際の際まで握り続け、かつ人生観を大きく歪める、いわく言いがたい強烈なものだった。歪めると表現したのは、僕の中で、無意識ながら日本人として、もっと敷衍すると人としての生き方に確立したロールモデルがあったのだけれど、それが今全くデタラメな形に歪められ、あるべき姿を失ってしまったからだ。こう生きれば人間として生きていけるという指標をわずか十日ばかりの海外生活で完全に喪失してしまった。その程度の生き方しかしてこなかった人生を深く恥じ入るべきだとも思う。いずれにせよ、一種のアイデンティティクライシスに近い状態へと陥っていると断言していいのだろう。

ただ、今はその詳細を書くだけの筆力がない。僕は強烈な現実にぶつかったとき、その現実を現実として受け止めることが人よりも格段に苦手らしい。現実は、周りに揺曳する根拠を手綱に少しずつ回想し、その回想を言葉で精緻に解剖し終えた時の文章にしか現れない。そこでしか僕は現実に出会えない。

現に今回の海外研修でも、確かに僕は羽田から海外へと旅立ち、ホームステイをし、研修を終え、なんらの滞りなく再び日本を踏みしめた。それなのに振り返ってみると、それはまるで夢であるかのように、輪郭のぼかされた淡色の僅かな断片しか残っていない。お土産も、仲間内の証言も、少し灼けた前腕も、眼前にしっかり存在するというのに。

幸い、手帳や写真に旅をあらん限り記録したので、軌跡を再現することはできるのだが、当時の感情を内包したヴィヴィッドな文章を、僕はおそらく書けない。時折、お土産から香る残り香が旅の記憶を鮮烈に呼び覚まし、ツイッターなんかにメモ書き程度の投稿をしている。ごく稀にそういった意識の対流が起こり、脳裏に南国の日光が現れたりもする。けれど、この体験を確固たる自分の所有物として認識し直すには、まだまだ時間を要するに違いない。
これから少しずつ、旅が、日光が、外国語が、僕から何を削り、何を与えたのか、それを自己分析的な観点から書いていこうと思う。
無事帰国するまでにはもう少し時間がかかりそうだ。

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