見出し画像

What?How?Wow!佐藤可士和展

佐藤可士和展@国立新美術館に行ってきました。

ごきげんよう、もくれんです。

広告とアート、果ては私がnoteとの向き合い方について深く考えるきっかけになる美術展でした。

アートはオナニーでもいい

端的に言うと、改めて「アートはオナニーでもいい」と思った。というのも、広告≒商業デザインはセックスなんだよね。相手がいる。視聴者や消費者がイッてくれないと困るわけですよ。相手が広告を気になる、好きになる、そしてイク(行く、行動する)のここまでがワンセット。至極当たり前のことだけど、それを心や身体で感じる佐藤可士和展だった。

広告は「相手に届く表現」という縛りがあり「届けたいものを届けないといけない。」というのが大前提。ラブレターに近い。故に、不愉快な表現が少ないんだろうなと思った。インパクトがある表現であっても「気持ち悪い」になりづらいんじゃないかな。それと比べるとアートは「俺が描きたいものを描きたいように描くんじゃ。」だから、よく言えば自己表現、悪く言えば自慰行為だと思う。アートは夜中に溢れちゃったポエム。

アートにメッセージ性はなくても構わないし、あっても相手に伝わらなくても構わない。少なくとも、私はセザンヌやカンディンスキーが何を言いたいのかはよくわからない。彼らもわかりやすく伝える気は無さそうに思う。鑑賞者である私がイクかどうかは、おそらく彼らは知ったこっちゃない。なんなら「イク奴だけついてこいよ!」のスタンスだと思う。ゴッホやモディリアーニみたいに「イッてほしいのに、相手はイッてくれない!!」ってなった人たちもいるけど。

会田誠は清く正しくアーティストだな!!

広告は「クライアントごとの独自性」

佐藤可士和展を見てると「あ、これも佐藤可士和なの?」ってくらい、たくさんのロゴや広告やパッケージを作っていた。広告と同窓会した気分になった。「あー!あったね、こんなの!」が沢山。私の青春プレイバック。

広告って「どこかで見たことある」じゃダメなのね。前に「SAPPOROのCMはビールのCMにはなってるけどSAPPOROのCMにはなってない」って聞いたことがあるんだけど、クライアントごとに独自性を追求するのが広告なんだなと思う。ロゴひとつとっても、やっぱり全然違って似てないわけ、当たり前だけど。むしろ「コレも佐藤可士和なのに、アレも佐藤可士和なの?」

これってアートと比べると非常に興味深い。アートはアーティストらしさを求められることが前提になってる。例えば、草間彌生に仕事頼むときに「水玉以外でお願いします、できればパステルカラーでよろしく。」ってことはない。草間彌生らしさをクライアントは待ってる。むしろ草間彌生らしさで勝負してほしいと思っている。ひと目見て「草間彌生~~!!」ってわかって構わない。逆に広告は「佐藤可士和~!」ってなっちゃ多分ダメ。佐藤可士和という名前はいわば黒子。なぜなら佐藤可士和を伝えるのが佐藤可士和の仕事じゃないからだ。

What・ How・ Wow!

佐藤可士和展には、それぞれの広告やロゴ、デザインについて「どのように作ったか、それをどのように浸透させたか」についての解説もあり非常におもしろかった。自分のスマホでオーディオガイド(無料!)が聞けるので、佐藤可士和本人の声で背景を説明してもらえる。これも凄く新しいなと思った。本人が解説してくれるオーディオガイドってあんまりない気がする。

佐藤可士和展は佐藤可士和の仕事ぶり(What)を振り返る展覧会なのだが、その振り返り方(How)がクリエイティブで改めて面白さ(Wow!)があった。言ってしまえば広告だったりロゴだったりするわけで初見のものは少ないしなんなら日常生活でよくお見受けするものたちを「こういう見せ方をするのかぁ。。!」と軽く感動した。うまいことやりよるわ~流石やわ~!

私の文章はオナニーかセックスなのか

たいていオナニーなんだけど、セックスに切り替えていきたいなーと思っている。そもそもは「私が書きたいから書いてます。」ではあるのだが、やっぱり読んでもらえると嬉しいし「読み応えがある」、「楽しみにしている」というお声をいただける文章を書きたい。

読んでもらえることだけを考えたらテーマをひとつに絞ってお役立ちコラムに振り切ったほうがいいことは重々承知なのだが、書きたいものは色々あるし、ひとつのテーマで書ききれるほどのネタもない。正常位だけじゃ飽きるから体位は3回は変えたい、そんな感じ。美術のことも日々のよしなしごとも真面目で卑猥なことも全部書きたい。どいつもこいつも役に立つ系の話題ではない。

なんで書いてるの?って聞かれると「私の文章で、食べられるようになりたいな」が一番強いので、オナニーばっかりしている場合ではなく、ちゃんとセックスに移行しないといけないなと思う。一方で、バズることばっかり考えて書き始めると、話題になりたいっていうエゴが臭う文章になる。胡散臭い。あと私じゃない文章に多分なる。

何を伝えたいのか、何が私たらしめているのか。どうやってWow!を届けるのか。私にも無理がなく、読んでくれる人たちにも無理がなく、そしてお互い楽しい、そういう文章を書いていきたい。

名前も広告

散々、「佐藤可士和」と書き続けて思ったのだが、可士和はいい名前だ。佐藤が無個性で埋没しやすい苗字が故に、可士和が映える。しかもカシワって音がすごく日本人に馴染みがあって誰でも読める。読めないようで読みやすい。私がクラスメイトだったら、彼を下の名前で呼ぶと思う。呼びたくなる名前なのだ。なぜだろう。舌に転がして音が心地よいのかな。もしこれが柏だったら、素敵な名前だけど可士和ほどのインパクトはない。可士和の独自性たるや。もう絶対すぐ覚えちゃうよね、佐藤可士和。私の本名も埋没する苗字なので、よく下の名前で呼ばれるから勝手に親近感も湧く。これ、佐藤雄一とかだったら覚えてもらえなかったんじゃないかなーと思う、少なくとも可士和よりは。

私の「もくれん」の名前を考える時、苗字のあるペンネームも考えたのだが、どうにもこうにも知人の皆様にペンネームを名乗るのが恥ずかしく(だって苗字名前にするなら良い字を当てたいしなんかカッコつけた名前になっちゃうんだもん。)閉口していた。「好きな花の名前にしよう、覚えやすいし、一般名詞だけど。」ともくれんになった。もくれんに決めてから「もくもく れんれん」という擬音を思いついた。

だから「もくもく れんれん 書いていく もくれん」になった。

とてもしっくりきている。

これからも もくもく れんれん 書いていく人でいよう。未来永劫ずっと。

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?