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啓発PRの受難

最近の啓発PRは何をやっても批判されがちだ。
どういうものを出してもどこかから批判が起きる。
最近だと乳がん検診の啓発のポスターの例もあった。
どうも、最近は何かを啓発するということに対して受け入れられない人を見つけ出し、批判記事にしてPVを稼ぐという傾向があるようだ。
ニュースサイトでは、コメント数やアクセス数が多い記事がランキング表示されていることも多い。
これは広報やPRに携わる者としては頭が痛い。なぜなら、商品やサービスを拡散していくための手法としてコンテンツマーケティングを取り入れているケースは多く、少しでも話題にしたいと努力しているのに、そうした努力が埋もれるばかりか、中にはネガティブ反応を引き起こされてその対応までしなければいけないからだ。

啓発PRは批判しやすい

啓発ポスターやCMといった類は、対象とする人に何らかの行動してもらいたくて作成するものだ。
例えば乳がん検診を受けたことがない人が検診を受けるきっかけになったなら成功なのである。今回のように、すでに乳がんが見つかった人は、今回のPRで対象とするペルソナではないのだ。なのに、がんになった人が傷つく、という理由で批判されていた。

なんだろう、この既視感は。前にも同じような論調の記事を読んだぞ。
しかも1つや2つじゃない・・・。

読んだ瞬間にそう感じた。
啓発のための刺激よりも、全方位にわたって傷つく人がいないことが前提だという一方的な価値観を前面に押し出し、それが少しの違和感であっても許されない、という論調。
誰にとっても100%、違和感なく受け入れられる制作物を作ることは何であっても非常に困難だ。何かしら突っ込みどころはあるのは当然のことである。
そこにつけこんで批判記事を書き、さも問題があるように取り上げた結果、PVは上がり賛否両論の多数のコメント数を獲得、記事自体の広告収入は上がるのだろう。

啓発PRが標的にされるもう一つの理由

これほどまでに啓発PRが標的にされるのは、時代背景もあるのだろう。
自分が受け取る側としても感じるのは、人々は啓発されること自体をそれほど求めていない、ということ。つまりは、大きなお世話だと感じてしまうのが先なのだ。何かを啓発することで「よりよい未来が待っていますよ」というメッセージだということはわかっていても、そうした情報を押しつけがましく感じてしまう。さらにコロナ禍で様々な制限を受ける期間が長くなると、「ああしろこうしろ」と言われること自体に嫌気がさす。
そうした人々の心理状態を逆手にとり、必ず突っ込みどころがある啓発PRを標的にする。もはやテンプレート化していて誰でも書けそうな内容だ。

広報・PRの本質が阻害されてしまう

ニュースサイトのビジネスモデルをとやかくいうつもりもないし、使命感を持って記事やコメントを配信している人たちも多くいることは承知している。しかし、自分の利益のためにネガティブな感情を増殖させるだけの記事が許されていたら、本来仕事としてプライドを持って広報やPRしている人たちが報われない。

商品やサービスPRのために、自分たちで記事を作って拡散するコンテンツマーケティングは今や主流だし、ネットを通じたPR手法の進化は歓迎している。しかし、巧妙に読者を誘導し、負の感情を世間にまき散らして利益を得るだけの記事が乱立することで、世間の関心がそちらに向かってしまい、本来のPRコミュニケーションが阻害されていると感じる。
広報やPRは、ターゲットにメッセージを届け、態度変容を促す仕事だ。マイナスイメージの火消しがメインの仕事になってしまっては、本来の広報の仕事として効果が阻害されてしまう。
今回標的となってしまった啓発系PRの広報担当の方々は、不運としか言いようがない。

コメントすべき記事か見極めて

この情報過多の世界で、このような金儲けのための記事をどれだけ読まされているのかと思うと辟易する。自分が嫌な記事には批判コメントを書き込みたくなるから、みんなつい書き込んでしまう。実際に書き込む人は読んでいる人のほんの一部だとされているが、コメントが集まれば集まるほど、その嫌な記事は多くの人に表示される。自分が嫌な思いをしたとコメントすることで、さらにネガティブ感情を増殖させてしまうのだ。
ここまで理解して記事にコメントしている人はどれだけいるだろう。

この記事を読んだ後、感情に任せてコメントするのではなく、投稿ボタンを押す前に「この記事にコメントすべきかどうか」を立ち止まって考えてくれる人が増えてほしいと思う。

広報やPRに携わる人間として、真摯にPRに取り組んでいる多くの広報・PRパーソンに敬意を表して。

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