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『マイノリティ』でおもうこと

わたしは昔から自分は何かしらのマイノリティであることを自覚していた。昔から、は詳しくいうと小学生高学年ぐらいだと思う。

はじめの違和感は同級生がかなり年下に思えて、みんなが楽しみにする行事をまったく楽しみにできなかったり。どこか不安感のようなものが常にあって、こういう感覚は子供は持たないものじゃないかと思って、どこか自分は変だ、と思っていた。

引っ越しの多い家庭だったので、はじめは割と頻繁に生活環境が変わる、そのせいだと思っていた。実際は元々のわたしの性質がそうさせたのだろう。勿論、環境はそれを助長させたかもしれない。小さい時は家と学校が全世界のようなものなので、そのうちのひとつ学校が変わることは、世界が一変するに等しい出来事だったに違いない。自分が周りと違うということは、否応無しに感じることだった。いっぱん的な子供より、俯瞰でまわりを見ることが多かったように思う。けれど、そうは言っても、なんか自分は違う、と感じていた。

なんだか生きづらさを感じる。大人になってもその感覚はずっと持ちつつ、転職は繰り返しつつ、けれど数は少なくとも友人もいて。
こういうものなのかと、人は色々というし、自分はこういう感じなのかと、なんとなく納得してるような感じで生きてきた。
けれど気になっていたのが、自分の『幸福感の低さ』だった。

幸福感の低さは、誰かと共感したい感情が満たされない、に繋がっていた。
『変わってるね』ではなく、『そうそう!』の共感が得られないのは、自分が多数派にいないからだということは明白だった。つまり『わたしは少数派、マイノリティだ』と確信していた。

以前の文にも『名前がつくこと』の話はしたけれど、現象に名前をつけることがわたしは結構重要だと思っている。たとえば病気に名前がつかないで単に不調が続くときを想像すれば不安感しかないが、名前(病名)がつけば何かしら対処法があると思えるし、まわりからも助けを得られる可能性があると思えるだろう。名前がつくことは、孤独じゃなくなることに繋がる。

わたしの現象をまず、マイノリティ。と名前をつけることは、自分の所属する場所を確認してみる行為だったかもしれない。わたしは全く『マイノリティ』を、悲観的に使っていない。ある物事に集まる人が多いところと、集まる人が少ないところがあって、わたしは単に『人数が多い少ない』を言っているだけだと思っている。多い少ないに意味合いを付けることは、また別の作業で、そこはキッチリと分けたい。

わたしは何かのマイノリティだという感覚があったけれど、何というマイノリティかはずっと分からなかった。それが先の文に書いたけれど、HSS型HSPだということに気がついた。これは本当に人生の一大事となった。マイノリティという広義から、さらに抽出されたカテゴリーへ。人生で初めて、所属感というものを体験した。

名前がつくということは、所属するところを与えられ、孤独ではなくなるということ。という発見を最近して、自分の中で結構気に入っている。
人は、親などによって名前がつけられるところから人生がスタートして、所属を得て孤独ではないことになって、生き始める。
もしかしてその後も、どこかに所属していること、孤独ではないことが、人には必須なのかもしれない。
不必要とさえ思っていた所属感を偶然得たことで、それが人にとって必須要素であることに気がついた。

わたしは自分を『マイノリティ』と名付けてひとつ確認をして、『HSS型HSP』と名付けて初の所属感を得た。
わたしにとって『マイノリティ』は自分の足がどこに立っているか俯瞰で見る場所で、さらに『HSS型HSP』は所属の実感を得る場所だ。
人にとって必須要素の所属感と言ったけれど、大事なことは、所属感であり所属場所ではないことだ。この聞き間違いみたいな勘違いは結構大きな問題になるから改めて所属感であることを確認しときたい。

たとえば、ここの国にわたしは所属しているという実感が大事であって、所属している国がどこかということが大事なわけではない。つまり、違う国に所属していると思っている2人は、どこかの国に所属しているという実感を持った同感覚の2人なのだ。
所属場所が同じならば、あるある話で共感をし合えるかもしれないが、所属感という感覚は所属場所を問わず共感し合える。

世の中では同感覚同士の2点間でよく諍いが起こっているように思う。異なる宗教に熱心な者同士は、宗教に無関心の相手より諍いが起きやすいし、肌の色に関心のある者同士は肌の色に無関心な人とより、問題が発生している。
どちらも所属場所に固執してしまった勘違いから来ていて、同じ熱意で所属感を感じている同士として、より共感し合える相手であることを忘れがちである。相手の所属場所が違ってもあなたの所属場所は侵されないということをもっと知ってほしい。違う場所ではあるが、同熱意で所属感を抱いている2人なのだ。

この理論はいろいろに適応できる。たとえば、我が犬をいちばんと思っている飼い主は、別の、我が犬がいちばんと思っている飼い主と、同じ感覚を持ち合わせる同士として成り立つ。もしもこの2人が敵対するとすれば原因は、ポイントを我が子の場所に置いてしまった結果、相手にいちばんを譲るとこちらがいちばんになれないと勘違いしてしまったことに帰するだろう。我が子がいちばんと思っている感情の方に正確にポイントを向ければ、敵対であるどころか、同士であることに気付くはずだ。我が子がいちばんだし、相手の我が子もいちばん。が成り立つことがもっと有名になってほしい。

マイノリティの副カテゴリーには『HSS型HSP』以外に『左利き』とか『先住民族』とか『同性愛者』とか色々ある。これらに共通する響きの中のひとつに『弱い』があるように思う。それは『マジョリティ』からの圧力を意識したところから来ている。
マイノリティの音に弱いが響いて聞こえるのは、マジョリティ側の別の勘違いのせいだと思う。世の中は決めがたいことに多数決での解決方法をよく取るので、マジョリティの『あるある』が採用されることが多くなる。そのことでマジョリティは立場の強さを自分の強さのように錯覚を起こしやすいのだろう。

人は名前をつけて、いろいろに所属をさせる。
それは人に『所属感』が必要だからだろう。
けれど聞き間違いみたいな勘違いで、
所属感ではなく所属場所にこだわった時、そこに諍いが生じる。
その諍いは本来不要のものであることがわかる。

持ちづらいという自分の性質もあるし、所属場所にこだわったが故の諍いが世の中で目につくし、『所属感は持たないに越したことない』と思ってきたが、思いがけず得た『HSS型HSP』の所属感に高揚している自分を振り返って、あらためて、
所属感は人に必要であること。
それでいて所属場所が重要ではないこと。
を確認しようと思う。


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