理系の父

山間部の集落に引っ越してきた。
私の父は物理が専門の大学の教員だ。
車で通える距離に大学があること。
山間部であるにもかかわらず幼稚園、小学校、中学校が揃っていること。
何より自然の豊かさを父親が気に入った。

自分はまだ4歳で、この引っ越しを楽しみにしていた。
新居を建てる途中で何度も親と見に来ていたから、家が徐々に出来上がる様子を見ていたし、長い時間をかけて出来上がるプレゼントを待っているような感覚だった。
家は両親が建築士の引いた図面に口を出しまくった特注品だ。建築士も客側からこんなに提案を貰って修正を重ねたことはなかったらしく、面白がっていた。

その為家のつくりが少し特殊で、廊下が無くて壁をできるだけ排除した作りだ。
廊下の分だけ家が狭く見える、と考えて排除したらしい。
薪ストーブとシャンデリアがあり、リビングルームが吹き抜けになっている。
二階建てで、煙突さえある。

引っ越す前は父親に連れられてほとんどを大学の社宅、保育園と大学で過ごしていた。
新しい幼稚園、新しい友達、新しい家、連なる山々が、僕の新しい世界だった。

・・・

「なんで葉っぱは全部同じ形なの?」
『それは一本の木についてる葉っぱが同じなのが不思議だなってこと?』
「そう」
『それは葉っぱが同じだと不思議だと思ったの?』
「うーん、なんか、いろんな形があったほうが普通じゃない?」
『うーん…まあ、いろんな顔の人がいるみたいな感じで、葉っぱも色々な形な方が自然な気がするのかな』
「いろんな顔の人…そうねぇそんなかんじ」
『いろんな説明の仕方があるけど…例えばさ、一つの木から実際に二枚葉っぱを取って、形がぴったり本当に同じことってあると思う?』
「えっ、わかんない」
『それじゃ実際取ってみようか』

「全然違う」
『でしょ?だからまず、葉っぱの大体の形は似ているけど、実際に同じって訳じゃない。これって人の顔と同じだと思わない?』
「思う」
『そう、だから、葉っぱの形が大体一緒なのは、同じ種類だからってのが一つ目』
「なるほど」
『もう一つは…木とか草とかがどうやって成長するのかって話をすると分かるんだけどね…』

・・・

「ねえ、今日学校で物質の3状態を習ったんだよ」
『おお』
「それでさっき薪暖炉見て思ったんだけどさ、炎って液体でも気体でも個体でもなくね?ナニコレ?」
『炎は、そもそも激しい酸化の結果生まれたエネルギーの放出って感じだね。燃焼という。』
「えっ、でも見えてるじゃん。エネルギーって見えることあるの?」
『物質は温度が高くなると目に見える光になることがあってそれが見えるのよ。だから、物の状態っていうよりも化学反応そのものって言った方が正しいかな』
「化学反応?」
「ああ、そこからか。世の中には元素表ってのがあってね…」

・・・

「今日三平方の定理を習ったんだよ」
『おお、もう習ったのか。どう思った?』
「凄すぎる。あんな整った形の式で三角形の説明ができるなんて凄すぎる」
『やっぱそう思うよな。三平方の定理は歴史的にも測量で使われてきたし』
「測量?」
『例えば…ピラミッドの高さを測りたいと思ったら、実際にはどうする?』
「各段の高さを足して行けばいいんじゃないの」
『それは数学としては正しいんだけど、実際にそれやるの考えると面倒くさくない?』
「そりゃぁね」
『実際ピラミッドは墓の大きさが権威の大きさを象徴したから、重要な問題のわりに大変だったんだよ。そこで三平方の定理と相似を使うとね…』

・・・

「今日、大学生になったら数学科に行きたい話を塾長にしたんだ」
『おお、数学科か。それで?』
「そしたら、とにかく止められてね。生半可な覚悟で行くところじゃないってさ。でも、なんであんなに止めるんだろう?」
『あー…それで怖くなったりした?』
「いやまさか。数学面白いもん」
『まあ、おまえ数学科は向いてそうだよ』
「へえ、そうなの?」
『あんまり現実に関心が無い人が多いというか…そういうタイプじゃん』
「まあ現実に関心はないけど…」

・・・

「今日は初めての集合論の講義だったよ」
『そうか、どうだった?』
「先生がいきなり「本当の数学の世界へようこそ!」とか言い出して面白かったよ」
『ふーん。どの先生?』
「〇〇先生」
『あの人か…教育熱心な訳じゃないけど、心強い先生だよ』
「なんとなく分かる気がする。相当斜に構えててひねくれてる感じだった」
『プロ意識の高い人だよ。それで内容はどうだった?』
「まずは集合じゃなくて、命題って言葉の説明から始まって…」

・・・

『オマエさ、6.28…って聞いてどう思う?』
「え、どんな文脈で?」
『物理の電気系の実験講義で、測定した結果として出てきた数値』
「分かんないけど、大体2πじゃない?」
『だよなあ…』
「え、どういう?」
『いや、今日そういう講義で6.28が大体2πだって一目見て気が付かなかった子がいてね、そういうのって自分はなんで気が付けるんだろうって思って』
「なんで気が付けるかかぁ…数的直観の教育みたいな」
『そうそう』
「それでいうと、最近群論の講義が始まったけどさ、単位元の一意性の証明で」
『ちょっと待って、群論はお父さん使ったこと無いのよ。化学の人とかで分子分析とかやるとかだと使うけど』
「え、なにそれ。物理で群論使うの?」
『お父さんも詳しくないんだけど、結晶の構造を見る時とかにレーザーで…』

・・・

『結局お前のやってる代数幾何っていうのは多項式を使った幾何なんでしょ?』
「まあそうだね」
『それって素人からすると、多項式ってそんなに分からない事あるの?って感じがしてて、どんなタイプの数学を背景にしててどういう事をするのかわかってないんだよね』
「ああ、じゃあちょっと説明するか…素朴には多項式とそれを図として空間上に描いた時の図形の話だけど、図形の側には代数多様体って名前がついててね」
『多様体なの?』
「そうだよ。でも多分お父さんが想像してるいみでの多様体じゃない」
『どういうこと』
「多分想像しているのって、表面がある程度微積ができて…」

・・・

「論文の査読が通ったんだよ」
『聞いた聞いた』
「え、誰から?」
『△△先生』
「あ、マジか」
『でも思ったより落ち着いてるじゃん』
「嬉しかったけど、面白かったから考えていたら論文になったって感じだけどね」
『マジかそんなテンションか』
「現実に興味ないからかな」
『それで、どんな内容なの?先生から来てもよくわからなかったんだよね』
「うーん、説明は難しいけど…自己同型写像って言って何のことか想像つく?」
『いや、なにそれ』
「例えば…例として二等辺三角形上の自己同型写像から紹介していくけどさ…」

・・・

「修論書いてくる」
『え、どこで?』
「□□らへんの山の上で書いてくるよ」
『へえ、なんかいい効果あるの?』
「やっぱ茶畑の匂いを浴びながら山腹で作業するのが懐かしくて落ち着くのよ。あとコロナで体動かせてないから」
『そうか、いってらっしゃい』
「いってきます」

山間部で育った僕は高い空が好きだった。
流れゆく雲をみて、その高さと大きさを感じつつ浴びる風を愛している。
山際に落ちるいくつもの夕日と土が情緒を養った。
美味しい水と幾許かの大切な友。

何時も何か仕事をしている、ギャグの多い、白髪の増えた父よ。
現実に興味が無いって、ようするに資本主義に興味が無かっただけだよ。疲れるから。

僕は知っている。
一万を超える対話から、父の深い愛情を。

・・・

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