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母親の口紅を、背伸びしてつけていたあの頃の自分に。

 昔の話である。母が仕事で家を留守にしていたとき、私はきまってドレッサーの引き出しを開け、中身を眺めていた。きらきら輝く粉に、薄桃色の液体が入った香水瓶。ろくに使い方も知らないのに、取り出してはうっとりと眺めていた。母はいつも、私には決して化粧品を触らせなかったから、見ていることがばれたら怒られる。だから必ず元の位置を覚えておいて、庭先で車のエンジン音が聞こえると、そっと戻した。
 その後少しして、母は家から出て行った。荷物は全て新しい男の家に運ばれた。ドレッサーを開けても、中身は何も無い。かろうじて残っていた化粧品の香料も、月日が経つにつれて薄れていく。それは、母に愛されたという記憶を奪われることだった。私の名を呼ぶ声を忘れ、抱きしめられた熱を忘れ、最後は残り香さえも消えていった。
 それから数年して、私は少女から女性へと成長した。愛想笑いのデート帰り、あと一歩のところでバスに乗り損ねて、次のバスを待つため駅構内の本屋に立ち寄った。特別買いたい本があったわけではない。ただの暇つぶしである。適当に本の背を追いながら、棚と棚の間を歩いていた。
 足を止めたのは、書名が気になったからだ。江國香織の『すみれの花の砂糖づけ』という本。江國香織は高校生のとき、教科書にのっていたから知っていた。「デューク」という短編で、悲しいような寂しいような、けれどもどこか救われるような話だ。私はわかりきった教師の説明の合間に、誰にも内緒でその小説を読んでいた。その思い出がよみがえって、思わず手に取る。淡い絵柄の男女が二人でダンスを踊る表紙が見えた。「すみれの花の砂糖づけ」だなんて、随分ロマンチックな名前じゃないの。ヨーロッパの皇女が、すみれの花の砂糖づけを好んだ逸話をどこかで聞いたことがある。背表紙の紹介を読むと、詩集だということがわかった。パラパラめくると、何篇もの詩が書かれている。バスに乗っている間に、読み切れるかもしれない。私はそれをレジに運んだ。


 少し不愛想な運転手に、電子マネーで運賃を払う。一番奥の窓際の座席に座って、私は本を開いた。目次を通過して、一つ目の詩が「だれのものでもなかったわたし」。

すみれの花の砂糖づけをたべると
私はたちまち少女にもどる
だれのものでもなかったあたし

 くすりとした。あまり好きでもない男と出かけてきたばかりだったから、この詩が身にしみる。たしかに私は、誰のものでもなかったはずなのに。それでよかったはずなのに、今では週末に男と出かけるのを日課としているなんて。
 男女に関する詩も多いが、読み進めていくにつれて家族に関する詩がぽつりぽつりと存在感を放つ。私はだんだん頭にかかっていたモヤが晴れ、息が苦しくなりだした。ぐにゃりぐにゃりと世界がゆがんでいき、詩が鍵となって記憶の箱をつぎつぎ開いていく。「9才」という詩にたどりついた時、私は耐えきれずに本を閉じた。その年は、私が母を"失った"年だった。
 

母と肉屋にいくたびに
私はレバーに見入っていた
ガラスケースの前につっ立って

 始めの三行を読み、はっと息をもらした途端、今まで忘れていたはずの母の香水がふわりと香った。

あれを食べたい
とか
あれにさわりたい
とか
私が言うと 母は顔をしかめた

  女が、現れる。
 ドレッサーに向かう母に尋ねた。それはなに、と首をかしげる私に「まだ知らなくていいの」とかえす。眉をひそめながら唇に色をのせていく母は、私の知る大人の中で一番綺麗だった。
 たった数行の言葉で、いとも簡単にあの頃に引き戻される。

母はそれを買わなかった
そして
あなたは残酷ね

言うのだった

 最後に母を見たあの日、彼女は私のせいだと言った。泣きもせず父の手を握る私を、残酷だとも言った。
 バスを降りて、急いで自宅に向かう。靴もそろえず部屋に入って、ドレッサーの前に座った。
 鏡には、母がいた。
 そこで気付いた。私は母を忘れたのではなく、取り込んでいたことに。時をきざめばきざむほど、私の姿は母に近づいていく。
 ドレッサーの引き出しに入った、今は私のための化粧品。その中から一本口紅を取り出して、震える手で唇に重ねる。その姿を、呆然と見た。

 


 私の姿はとっくに彼女になり、もう何が私であるかわからなくなった。唯一私をとどめるのは、まだだれのものでもなかった時の遠い記憶。
 
 私はこの本を読むと、たちまち少女に戻る。
 母親の口紅を、背伸びしてつけていたあの頃の私に。

#読書の秋2020