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小説 「長い旅路」 1

1.救出

 毎朝、山麓の町中にある社員寮を出て、山頂にある勤務先まで、車を走らせる。同じ寮から出勤していく同僚達と、乗り合わせることは無い。始業時間は同じだが、退勤時間は まちまちだ。各々、自分の車で出勤しなければ、終業後に『自由』が無い。
 モチベーションの上がる曲を大音量で流し、車内の綺麗な空気を胸いっぱいに吸いながら、パンを齧りつつ運転する。
 泣いてしまう朝もある。
 仕事に関することで泣く日もあれば、流れている曲に纏わる思い出に、涙する日もある。

 この通勤路で、狸や猿に出くわすことは、決して珍しいことではない。特別天然記念物のニホンカモシカや、絶滅危惧種のツキノワグマでさえ、年に数回は必ず見かける。
 うっかり衝突してしまわないよう、気をつけるしかない。カモシカやクマが相手となると、車体が壊れてしまう。

 山を登りきると、車両に消毒液をかけるための金属製のアーチがある。そのアーチの中を通過する前に、まずはタイヤ周りを入念に消毒しなければならない。
 車を降り、車内から持ち出したゴム手袋をはめ、噴霧器のスイッチを入れる。4つのタイヤを効率良く、素早く、それでも確実に消毒しなければならない。もたもたしていると、同僚達が登ってくる。短気な先輩に怒鳴られる日もある。
 噴霧器は2台しかなく、アーチは1つしかない。時間帯によっては、敷地内に入るまでに「渋滞」が発生する。
 手袋を外してアーチのスイッチを押してから乗車し、律儀にシートベルトを装着し終える頃には、消毒液がしっかり噴霧されている。その中を、ゆっくり通過する。高速で走り抜けては、意味が無い。車両の表面に、液がかかっていない箇所があっては「消毒」にならない。逆に、車を進めるスピードが遅すぎると「後端には液が かからない」という事態になる。
 消毒が不充分となる、それらの光景を誰かに見られたら、速やかに「やり直し」をしないと、きつい叱責または鉄拳制裁を受けることになる。
 敷地内の駐車場に車を停めたら、降りる時には「場内用」の履き物に履き替えなければならない。防疫のため、場外の土を、場内に持ち込んではならないのだ。(履き物は、助手席の足元に常備してある。)

 そこまでしなければならないのは、ここが6万羽超の採卵鶏を飼育する大規模養鶏場だからである。従業員や外部業者が、鶏に感染しうるウイルスを持ち込んでしまったら、たちまち倒産の危機となる。

 始業前には朝礼があるが、それまでに必ず入浴し、全身を徹底的に洗ってから、農場指定の作業着に着替えなければならない。
 また、ひとたび作業着に着替えたら、野鳥からのウイルス伝播を防ぐため「業務のため現場に行く」以外の理由で、屋外に出ることは許されない。万が一、自分の車に忘れ物をしたら、私服で取りに行かなければならないし、再度シャワーを浴びることになる。外から走ってくる車の中には、場外の土や空気が入っている。また、十数年前までは屋外で行われていた朝礼とラジオ体操は、現在では社員食堂で行われている。
 朝礼までの間に、前日の出勤者が残した日報を確認し、綿密に予定を立てておかないと、始業後に素早く動けない。
 生鮮食品である鶏卵の生産・流通は、日々「ウイルス」と「細菌」および「消費期限」との戦いである。
 毎日、常に「時間」に追われ、不手際があれば、先輩社員や上司からの、罵倒または体罰が待っている。取引先からのクレームより、まずは身内の暴力を警戒しなければならない。

 自然界と生物を相手にする「一次産業」の分野において【労働基準法】は適用外となっている。そのため、株式会社といえど「残業代」や「年間休日数」という概念は、存在しないに等しい。
 それでも【法令遵守】を掲げる弊社では、刑法その他の法律は適用されるはずなのだが……体罰や過重労働・セクシャルハラスメント等に対する「罰則」は、特に無い。「被害者に退職を勧告する」のみである。
 また「有給休暇」や「傷病による休職」は役職者にのみ与えられた特権であり、「労災認定」と「労働基準監督署」は、もはや都市伝説である。
 明らかに業務か職場環境に起因する傷病を理由に辞めていく場合でも、退職者に認められるのは「退職金」のみである。徹底した『労災隠し』が、弊社の伝統である。
 弊社の従業員は、いわば『使い捨ての奴隷』である。にも関わらず弊社は【終身雇用制】を謳い、いかなるハラスメントまたは犯罪の加害者であっても「解雇」された前例は無い。(自社グループ内の他農場に「飛ばされる」ことはある。)

 従業員達の「働き続けたい」という意志に応えてくれる会社……とでも言えば、聴こえは良いのかもしれないが、要するに、健康な人材が無傷で辞めることは、至難の業なのだ。
 最も安全かつ迅速に退職する方法は【寿退社】だが、それでも、会社側の都合によって、日程は数ヵ月単位で延びていく。
 妊娠が発覚した女性であっても、多くは年3回の「賞与」を餌とした引き止めに遭い、臨月まで駆り出され続ける羽目になる。ほとんどの女性は結婚か妊娠を機に退職を望み、在籍したまま「産休」「育休」を取る人は稀である。

 人材の生命でさえ、非常に軽く扱われている印象が否めないが、鶏に至っては、もはや【生物】としての正当な扱いを受けていない。
 産業動物である彼らは「愛護動物」ではないため、いわゆる動物愛護法によって守られることは無い。
 彼らを虐待・惨殺することについて、法的な罰則は何も無い。【動物福祉】の実現は、ひとえに現場の作業者の良心と教養に委ねられている。
 日本の畜産業界は、国際的な潮流から、大きく取り残されている。

 俺が そのような業界・企業を選んでしまったのは「動物が好きだから」と「どこよりも早く内定が貰える会社だったから」という、たったそれだけの理由からである。大学3年の終盤、次年度は心置きなく卒業研究に打ち込めるようにと、いち早く進路を決めることを最優先とした。
 入社後、合わなければ辞めればいいと思っていた。ここは『先進国』なのだから、当然、自分にも「転職する権利」は有ると思っていた。


 ところが、早くも入社して4年目となる俺は、今や、誰よりも早く出勤し、誰よりも遅くまで残業するグループの一員である。「真面目だから」ではない。一人で風呂に入るためだ。
 始業前および終業後に義務付けられている入浴の時、職場内にある小さな銭湯のような浴室で、他の従業員達に混じって入浴することを、俺だけは禁じられている。
 俺が同性愛者であることが、社内で知れ渡ってしまったからだ。
 自分からカミングアウトをしたわけではない。入社から3年が過ぎた頃、俺の大学時代の同棲相手が、セクシャリティーを公表した上でテレビに出始めたのだ。いわゆる「イケメン俳優」となった そいつは、新しいパートナーと共に『法的な同性婚の実現』に向けた活動に堂々と参加し、この国に【革命】を起こそうとし始めた。(彼の新しいパートナーは、彼よりも芸歴の長い有名ミュージシャンである。)
 俺も、日本でも同性婚が出来るようになる日が来ることを夢見てはいるが、かつてのパートナーの活躍ぶりをテレビで知った時は、複雑な心境だった。
 俺と そいつは、在学中は周囲に「経済的な理由でルームシェアをしている」と説明し、恋愛感情に基づく同棲であることは隠し続けた。18禁の事に及ぶ時は、必ず他県に出かけた。
 喧嘩別れをしたわけではなく、ただ卒業と共に別れた。互いの故郷も就職先もバラバラで、付き合い続けるには無理があったのだ。
 互いの連絡先は知っていたが、特に向こうが忙しく、すっかり疎遠になっていた。そして、テレビでセクシャリティーを公表することについて、向こうから俺に相談は無かった。
 しかし、そいつが堂々とテレビに出始めたことで、同じ大学の卒業生や後輩達に、俺も同性愛者だということを、知られたも同然だった。「イケメン俳優が、大学時代にも別の男性と同棲していたこと」は、SNSを通じて いとも簡単に暴き出され、テレビや雑誌に取り上げられた。俺の名前や顔がメディアに出ることは無かったが、見る人が見れば、分かってしまうことだった。
 俺は、後から入社してきた大学の後輩に、「イケメン俳優の元彼」であることを暴露されてしまった。

 それ以来、俺は原則として一人で風呂に入らなければならなくなった。
 また、入社当初から受けていたパワハラやモラハラは、急激にエスカレートした。
 ただ「同性愛者である」というだけで、まるで性犯罪者予備軍のような扱いを受けた。
 山奥の小さな町では「都会育ちのホモ野郎」を人間として扱うこと自体が【掟破り】であるようだった。

 それでも、同じ農場内に、たった一人だけ味方が居た。その上司は同性愛者ではなく、妻子が居る。
 ある日の残業終わり、俺が一人で入っていた風呂に、平気で入ってきた。
「よう、倉ちゃん。お疲れー」
「課長!?……お、お疲れ様です!!」
俺は、湯船の中で飛び上がりそうになった。誰も入ってこないと思い込んでいたので、すごく驚いた。
「ごめんよ。俺、今日は早く帰りたくてさぁ。……誰かに見られたら、やっぱり倉ちゃん殴られるんかな?」
「いや、いや……どうでしょう?」
俺は、思わず、広い湯船の中で体育座りをした。
「内緒にしとくよ」
課長は、平然とシャワーの前に置かれた椅子に座り、頭を洗い始める。
「あの……課長は、平気なんですか?」
「何が?」
「俺と……同じタイミングで風呂に……」
「去年まで普通に入ってたじゃん」
「あ、いや……そうなんですけど……」
「今日、息子の誕生日だからさぁ。早く帰らないといけないんだよ。倉ちゃん上がるまで待つ理由とか無いし。……他、誰も居ないから」
「え……あ、ありがとうございます……」
「何が『ありがとうございます』なの!?」
背中を丸めて頭の泡を流しながら、課長は笑い出す。
「お、俺にも分かりません……」
 泡を粗方流し終えてから、課長は顔をあげて振り返った。
「……のぼせてるんじゃない?」
「そ、そうかもしれません……」
 その日は、そのまま風呂から上がり、玄関以外は全て戸締りをしてから、逃げるように帰った。
 途中で、狸を轢きそうになった。


 いつしか、長いサービス残業終わりに課長と2人で風呂に入ることが通例となり、社内では「課長が、男と不倫している」「“両刀”に違いない」という噂が広まり始めた。(つくづく幼稚な会社である。)
 それでも、課長は「どこ吹く風」であった。家族の写真や、小学生の息子さんが描いた絵をデスクに飾って自分を鼓舞しながら、淡々と日々の激務をこなしていた。
 よく、同僚達のゴシップや悪口に花が咲いているはずの喫煙所から「鶏の話しようよ!」と言う、課長の笑い声が聞こえていた。(俺は、煙草を吸わない。)


 広大な鶏舎内で、黙々と鶏卵を回収しながら「回想」や「空想」に耽るのが、俺の ささやかな息抜きである。
 まるで図書館に本が並ぶかのように、壁一面に鶏の頭が突き出たケージが並んでいる。体の向きを変えることすら出来ない狭いケージの中に押し込められ、まさに【産む機械】として飼われている雌鶏達が、顔の前に用意された餌を突ついたり、隣の鶏と頭を突つき合ったりしている。(他の鶏の体を傷つけることが無いように、嘴の先端は、雛のうちに焼き切って丸めてある。)
 俺の仕事は、卵専用のレーンに落ちた卵を、廃棄するものも含めて、全て回収することである。廃棄卵を入れるゴミバケツと、売り物となる卵を入れる大型のパックを載せた台車を押しながら、目的の物を回収しつつ、明らかに病気であろう鶏や、後で回収しなければならない死骸を探す。
 途中で、何度も出入り口付近に引き返し、ゴミバケツに回収した廃棄卵を、糞と同じ床下の処理設備に流したり、出荷する用の卵が大量に入ったパックを、洗浄と仕分けの部屋に送るベルトコンベアに乗せたりする。
 凄まじい臭気と雑音の中、誰かと和やかに雑談をしながら共同作業をするなどということは、まず無い。
 他の従業員同士なら ともかく、俺には、課長の他に味方は居ない。業務と無関係な話をして笑い合うような仲間は居ないのだ。
 使い捨ての防塵マスクを着けてはいるが、可能な限り口を閉じて、黙々と作業を進める。暑い日は、特に臭気が酷い。床に溜まりっぱなしの糞や、暑さにやられた鶏の死骸が腐っているからだ。臭気が、無防備な目に しみる時がある。
 それでも、接客業やオフィスワーク等よりは、断然、気が楽なのだ。俺は、基本的に「会話」が嫌いだ。クレーム対応なんて、まっぴらだ。

 ここと、隣の鶏舎だけでも、俺と全く同じ作業に勤しむ従業員が、常に5〜6人は居る。卵と死骸の回収は、新人だろうが、アルバイトだろうが「誰でも出来る雑用」とされているが、回収をしつつ、気象条件や鶏の様子に応じて適切な空調管理をするのは、素人には難しい。
 空調管理を しくじると、鶏を大量に死なせてしまったり、産まれる卵が激減したりする。鶏舎が大きければ大きいほど、ミスがあった時の損失も大きい。それなりの緊張感を伴う。
 午前の時間を目一杯使い、途方もない数の卵と死骸の回収が終われば、出来る範囲での糞の除去、餌タンクの残量の確認、設備の点検と修理、ゴミ捨て、鶏舎周辺の草刈り、他、終わりの無い雑務が待っている。
 12:00を目処に、事務所に戻って休憩用の服に着替える。社員食堂での食事の後は、衛生上の理由から、午前とは別の作業着に着替えることが義務付けられている。
 午後は、鶏舎内の空調管理と併行しながら、残量が少ないタンクへの餌の補充と、設備の点検・修理が主な作業となる。特に、飲水設備の管理と、防鳥ネットの点検・修理は、非常に重要だ。


 夕方。現場における作業終了時間が迫った頃、俺は2年上の先輩と、回収した死骸を保管庫に移動させていた。場内車のトランクに、死骸を山盛り入れたゴミバケツを3つ積んで、農場内の坂を下る。
 この先輩は、自社グループ内では有名な「パワハラ野郎」である。俺が入社する前に、他農場から異動してきたという。アメフト部で鍛えた巨体が放つ威圧感は凄まじく、何故か いつも不機嫌で、毎日 誰かを怒鳴りつけている。二束三文の値段とはいえ肉用に出荷されていく廃鶏の一部を、何かの腹いせに締め殺すことさえある。この先輩自身も、異動前は日常的に罵倒され、殴られてきたとかで、体罰や暴言に関する感覚そのものが狂っている。誰かを骨折させたくらいで、いちいち反省など しない。
 その凶暴な先輩は、運転する俺の横で、開け放った窓から肘を出すように、腕を窓枠に乗せ、風に当たっている。
「……おまえ、毎日 課長と風呂場で何してんだよ」
「何もしてねっすよ」
「課長も、良い身体してるからさ。……俺は心配なんだよ」
(俺が、課長を襲うとでも……?)
「いかがわしいBL本の読みすぎなんじゃないすか?」
「誰が読むかよ、あんな気色悪いの……」
鼻で笑われた。
 以後は、互いに無言のまま、坂を下る。

 鶏糞と汚水の処理設備の近くに、死骸保管庫がある。かつては大型トラックの荷台として使われていた冷蔵コンテナが、今では鶏の死骸の一時保管庫として使われている。そこが死骸で一杯になると、回収業者が呼ばれる。
 保管庫の中に照明は無いが、きちんと「冷蔵」の温度帯が保たれ、死骸が腐っていくスピードは、幾分 緩やかになる。とはいえ、ほとんどは持ち込まれた時点で既に腐っている。
 車を降り、重い鉄の扉を開けて、俺が一人で保管庫内に入る。先輩が、外からバケツを入れてくる。受け取った俺は、その中身を保管庫内に並んだプラスチック製の巨大な樽に移す。(本来は漬物製造用として流通しているはずの樽である。)
 血まみれになっている空のバケツは、先輩に返す。そうすると、次のが渡される。
 ほとんど息を止めたまま、そんなことを、3回やる。

 3つ目のバケツを返した後、樽の一つが大きく ひび割れていることに気付き、足を止めた。
 出来るだけ早く、新しい物を発注しなければならない。(外部から搬入した物品は、『検疫』のため、表面を消毒した上で、最低14日間は所定の倉庫内で保管してから現場で使用することになっている。)
 近寄って、目分量で樽の直径を確認していると、保管庫の扉が閉まった。庫内は真っ暗になり、外から鍵をかけるような音がした。
「嘘でしょ!!?」
 俺が「いつも通り、すぐに出た」と思い込んで、先輩が扉を閉めてしまったのだろう……!
「俺、まだ中に居ますよ!!」
真っ暗な中で、手探りで見つけた鉄の扉を叩きながら、精一杯の大声で叫ぶ。
「浦田さん!!!俺、中に居ます!!」
先輩の名を呼んだり、どうにか扉を揺すろうとしたり、必死に自分の存在をアピールするが、扉は開かない。
 扉の鍵は、外からしか、開けることは出来ない。……閉じ込められたのだ!!
 庫内は、凍死するほどの低温ではないが、山のように置かれた鶏の死骸が腐っているのだ。酸素など、ごく僅かしかない。
 一秒でも早く出なければ、窒息死する!!
「浦田さん!!……浦田さん!!」
 俺が中に居ることに、先輩が「気付かない」などという、はずがない。共に事務所へ戻るべき後輩が、突如として「消えた」ら、直前に閉めた場所に「閉じ込めてしまった」と、どんな馬鹿でも気付くはずだ。
 先輩が空のバケツを洗っている間に、独りで先に歩いて帰れるような距離ではない。

 しかし、目の前の扉が開く気配は無い。
 外の音は聞こえない。車がどうなったのかは、判らない。
 恐ろしい仮説が、頭をよぎる。
(故意に……閉じ込めたのか……!!?)
だとしたら、紛れもなく【殺人未遂】だ。生きて ここを出られたら、先輩だろうが、ぶん殴ってやる。その後、同じように閉じ込めてやる!!
 真っ暗で何も見えないが、目眩がしてきたのは分かる。呼吸をする度に、体内から酸素が出ていってしまうかのようだ。
 気体にも、水溶液と同じように【浸透圧】がある。気体の分子は、濃度が高いほうから低いほうへ、急速に移動する。淡水魚を海水の中に放り込んだら、体じゅうの細胞から水分が抜け出て死んでしまうように、ヒトを、極端に酸素濃度が低い場所に放り込むと、肺の中に かろうじて残っている酸素が、みるみるうちに逃げていく。血中の酸素濃度は、急速に低下する。
 肺の中が、ビリビリと痺れてくるのを感じる。この保管庫には、まともに吸ってはいけない気体が充満しているのだろう。しかし、息を止めたからといって、肺の痺れが治まるわけではない。肺の中には、本来なら吐き出すものである「呼気」が溜まっているのだから、苦しくなっていくのは必然だ。
 再び扉を叩きたいが、動けば、酸素を消耗してしまう。
 とはいえ、唯一の救いは、この時間帯なら、他の従業員達が、別の鶏舎から回収してきた死骸を入れに来る確率が高いことだ。その時に、扉は開く……!!
 一縷の望みに賭け、可能な限り「死骸から出るガス」ではなく「自分の呼気」を吸うために、ポケットから取り出した ぐしゃぐしゃの防塵マスクを着ける。
 外で車の音が聞こえたような気がしたら、必死に扉を叩く。外部と連絡が取れるような機器は、何も持っていない。

 誰も やってこないまま、時間だけが過ぎていく。5分かそこらだとは思うが、酸素が足りないのだから、そろそろ限界が近い。
 瀕死の状況下での【火事場の馬鹿力】とやらを信じ、複数回、全力で扉に ぶち当たる。しかし、外の空気が入るような隙間さえ、開けられない。真っ暗なままだ。外にある鍵は、頑として動かないようだ。
(まずい……死ぬ……!!)
 いよいよ立っていることが出来なくなり、全身から、力が抜けていく。だんだん、気が遠くなる。
 それでも、心臓は まだ諦めていないようで、自分の心臓の音が、鼓膜を破りそうだ。
 どうにか、扉を叩く。
(生きるぞ!!……俺は……生きて、あの先輩を、ぶん殴る!!……生きて、もう一度、課長に逢う!!)
 涙が止まらない。やがて、全身の筋肉が震えだす。

 その時、何故か、あの日 風呂場で聴いた課長の声が、はっきりと聴こえた気がした。
(“今日、息子の誕生日だからさぁ……”)
 課長の優しい声に、一瞬だけ、呼吸が楽になった気がした。

 しかし、いよいよ、呼吸をする意味が無くなりそうだ。どれだけ吸っても、ここにはもう、酸素が無い。
 目の前に、ピンク色のような、黄色のような、緑色のような……形の無い星雲のようなものが、広がっては消える。
 脳が、そろそろ限界らしい。
(さようなら、課長……)
 総てを諦め、意識を手放した。
 自分の身体から、心臓そのものが消えたような気がした。





 目の前に、白い光が見える。丸い、蛍光灯だ。
 俺は、事務所内の休憩室の畳の上に、布団も無しに寝かされていた。真正面に見えているのは、天井についた照明器具だった。
「おい、目が開いたぞ!!」
「倉ちゃん!!」
場長と課長が、俺の顔を見て、泣き叫ぶかのように、喜んでいる。課長に、頬や肩を叩かれている気がするが……まったく動けない。何も言えない。
「すぐに救急車が来るからな!!」
(こんな、汚い格好で……救急車に乗るのか……)
 仕方ない。死ぬよりは良い。
「倉ちゃん、死んじゃ駄目だよ!!」
彼らの声は はっきりと聴こえているが、身体がまったく動かない。眼球すら動かせない。
 息を吸うのが、怖い。
 まるで、自分の身体が腐っているかのような、とんでもない臭いがする。
「倉本!!」
誰のパワハラも止められない、お飾りの場長が叫んでいる。
 やがて救急隊員らしき人が2人やってきて、大きな声で何かを言い始めたが、その頃には、誰が何を言っているのか、判らなくなっていた。
 鼻と口が、何かで覆われる。身体が持ち上げられる。
 そこから先は、憶えていない。


次のエピソード
【2.新たな敵】
https://note.com/mokkei4486/n/n034b429209bf

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