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小説 「長い旅路」 2

2.新たな敵

 俺は、病院で生まれたことを除けば、人生で初めて入院した。
 4〜5日は人工的な酸素を吸わされ続け、検査を受けてばかりの日々が続いた。結局、脳と呼吸器には一切の異常が見つからず、血液検査の値が「正常」となるまでの、約2週間の入院で、あっさり退院できた。
 入院中、勤務先の人間は、誰も見舞いには来なかった。普段から「防疫」には うるさい会社の人間達だから、病院になど、まず近寄らない。

 俺は、平社員でありながら「有給休暇」を使い切った。
 退院から数日後には、当たり前のように復職した。
 俺を死骸保管庫に閉じ込めた あいつは「他農場に飛ばされた」と、連絡を受けている。もう、二度と会うことは無いだろう。

 復職当日の朝は、課長が寮まで迎えに来てくれた。俺の車は、ずっと勤務先の駐車場に置き去りになったままなのだ。
 課長が指定した時間は、早朝5:30だった。外はまだ薄暗く、寒い。時間ぴったりになるまで、自室から出なかった。
 出てから5分もしないうちに、見慣れた黒い軽自動車が来て停まった。
「おはようございます……」
ドアを開けながら挨拶をする。
「おはよう、倉ちゃん。……元気になって良かった」
「……ありがとうございます」
当たり前のように、助手席に乗せてもらえたことが嬉しかった。
 他の同僚なら「気持ち悪い」と言って拒むか、乗せるとしても「襲わないでくれよ」と必ず言う。

 課長と共に入浴して、着替えたら「一人で場長のところへ行け」と指示を受けた。
 事務所で場長に会うと、俺が無事に退院・復職したことについて、喜びや感謝の言葉が告げられた。
 そして、何故か、分厚い茶封筒が手渡された。何も書かれていないが、大きさと厚みから判断するに、中身は おそらく数十万円分の現金だ。
「入院費、ですか?」
反射的にそう訊いたが、それは保険会社から全額出るはずだ。
 場長は、辺りを警戒しながら、声を低めて言った。俺の顔は、見ない。
「あれは、不運な事故だったんだ。確かに、痛ましいことが起きた。君は、相当 苦しかったとは思う。だが……事実として、君は無事だし、元気に復職した。ミスを犯した浦田は転勤させたし、本人も、自分の過失について深く反省している……」
(何が言いたい?)
「それは、私のポケットマネーだ」
何を言えばいいのか、分からない。
「いいか、倉本……。今回の件は【事故】だ。そして……【社外秘】だ」
(口止め料、か……)
外部の人間、特に労基署と警察の人間には、話してはいけないということだ。
「きちんとロッカーにしまって、鍵をかけなさい」
この封筒の存在は、おそらく『トップシークレット』だ。
 俺は「わかりました」としか言わなかった。場長に一礼したら、速やかに更衣室に引き返し、ロッカーの中の通勤鞄に封筒を隠して、扉に鍵をかけた。
 その後、石鹸で手を洗う。

 事務所に戻って、休んでいる期間中の日報を読み返す。後から出勤してきた従業員達に「不死身」と呼ばれ、「頭は大丈夫か?」「もう、漏らすなよ!」と からかわれるのを適当に聞き流しながら、始業後に向けた準備をする。
 自分の身体にも、職場にも、特に何も大きな異変は無いような気がした。


 しかし、いざ現場に出ると、体力の衰えを痛感した。息が続かない。以前のようなスピードで動けない。
 病み上がりだからと担当作業は少なめだったが、新人よりも動きが遅い。
 医学的には、呼吸器に「異常は無い」のだろうが、この場所で動ける状態に戻るまでには、やはり何日か かかるのだろう。
 もはや、この場所に立ち込めている気体は、元来の「空気」ではない。

 どうにか卵の回収を終え、次は死骸を回収しながら、淘汰すべき鶏が居ないか、見廻りをしなければならない。
 バケツの乗った台車を押して、死骸を集めて廻る。その臭いだけで、目眩がする。
(“課長と、風呂場で何してるんだよ……”)
 ここには もう居ないはずの人間の声が、はっきりと聴こえた。
「えっ……?」
言われた時の記憶にしては、驚くほど鮮明で、大きくて……寒気がした。
(“気色悪い……”)
まただ。
 頭の中に、小さなあいつが居るみたいだ。
 何も知らない鶏達は、いつもと同じように餌や仲間を突つき、首をかしげて俺を見ている。
(“確かに、あの俳優はイケメンだとは思うけどさ。だからって……『ハッテン』は、無いわぁ……”)
(“マジ、気持ち悪い……”)
(“俺らと一緒に風呂入るの、やめてくんね?怖いから……”)
過去に先輩達から言われた言葉や、自分をせせら笑う声が、頭の中で響いている。あいつの声だけではない。複数人の声だ。
 経験したことのない現象だった。

 その日から、鶏の死骸に触れるたびに、頭の中で人の声がするようになった。声がし始めると、いつも胸の奥がモヤモヤして、目の前が暗くなる。心肺の周辺が、痺れているような、震えているような、不快な状態に陥る。肺の中の空気が腐っていて、その毒で乳頭が腐り落ちるのではないかと思うほど、胸周りに奇妙な違和感があった。
 それでも、外の空気や、事務所の空気を吸っていれば、いくらかマシになる。
 【事故】以来、俺が死骸保管庫に近寄ることは無かったが、あの時見た「星雲のようなもの」が、明るい鶏舎内でも見えるようになった。
 日が経つにつれ、頭の中で自分を嗤う声の中に、課長の声や、かつてのパートナーの声が混じり始めた。彼らが実際に俺を侮辱したことは無いが、頭の中では、彼らの声が、俺を執拗に罵った。
 初めはセクシャリティーと体型について揶揄したり、否定したりする声が多かったが、やがて、常に複数人に監視され、業務上のミスについて非難されたり、言動の全てを批判されたりしているかのような感覚に陥っていった。
 あの日、とんでもなく有害な気体を多量に吸ったことで、脳がおかしくなったのかもしれない。
 しかし、病院の検査では「異常なし」だった。
 腑に落ちない……。


 稀少な休日に、入院していた病院に電話して、胸周りの違和感についてだけは相談した。後日、レントゲンや心電図による検査を受けたが、やはり「異常なし」だった。
 医者が言うには「閉じ込められた時のことを思い出してしまうから、苦しくなるのではないか?」とのことで、呼吸器内科ではなく心療内科を受診することを薦められた。
 しかし、俺の生活圏内に「心療内科」を掲げる病院は存在しない。あるのは「入ったら、死ぬまで出られない」と噂の精神科病院だけである。
 そこに行く気には、なれなかった。
 そんな所で「事故のトラウマ」や「頭の中の声」について話したら、独房のような個室に入れられて、別の病気になるほど薬を飲まされて、毎日見ている鶏のような死に方をさせられる気がした。
 人間が、精神科病院の奥にある檻の中で、四つん這いになってぐるぐる回っている映像を、ローカルニュースで見たことがある。(顔にはモザイクがかかり、音声は変えてあった。)
 その病院は確か、経営する法人が変わっただけで、まだ存在しているはずだ。
 この国では、あのような所業が【合法】なのだ。……それを知った時の衝撃は、忘れられない。


 復職から一ヶ月ほど経った頃、風呂場で課長が声をかけてきた。
 俺が浸かっている湯船に、課長だけは平気で入ってくる。
「倉ちゃんさぁ……体調が、あんまり良くないんじゃない?元気無いよ、ずっと」
課長と、現場で一緒になることは、ほとんど無い。会うのは、社員食堂か風呂場だけだ。
 俺は、正直に打ち明けることにした。
「俺……もう、死骸の臭いを嗅いだだけで、目の前が真っ暗になって……息が詰まるようになって……。でも、肺には異常が無いらしくて……」
「『トラウマ』ってやつかい?」
「そう、みたいです……医者にも言われました」
「そうかぁ……。まぁ、しょうがないよね。死骸置き場で、死にかけたんだもん。怖くもなるでしょ」
「自分では……あんまり『怖い』とか思わないんですけど……」
「だってもう、身体が拒絶してるんでしょ?死骸を」
「まぁ……そうですね……」
「卵の部屋に、移ればいいんじゃない?」
「えっ……?」
「検品か、洗浄か……出荷か……鶏を触らない部署に、移ればいいじゃん」
その発想は、無かった。


 俺の体調の悪化と業務との因果関係は明白であるため、診断書無しで、すぐに異動が決まった。

 異動先は、9割が女性の部署だった。
 そこに『体罰』は無かったが、彼女らは、ほとんど仕事を教えてくれなかった。作業は「見て覚えろ」と言うばかりで、基本的に社内のゴシップの話しかしない。
 そして、暇さえあれば、俺と課長の関係や、俺の「元彼」のことばかり訊いてくる。何か少しでも答えたら、瞬く間にそれを言いふらす。広められる噂には、必ず下品な尾ひれが付いている。
 死骸に触れることは無くなり、衛生レベルの高い部屋に移ることは出来たが、俺は完全に『腐女子』達の好奇心の餌食となり、新しい悩みを抱えることになっただけだった。
 頭の中は、相変わらず うるさい。
 帰宅後や休日には、頭の中で、お局様の笑い声が響く。休んだ気がしない。
 また、テレビで元彼を見るたびに、腐女子共の卑しい質問や、けたたましい笑い声を思い出す。
 彼に罪は無いが……俺は辛かった。
 だんだん、テレビを見なくなっていった。


 異動から2週間で、俺はどうやら不眠症になった。頭の中が うるさくて、うるさくて、布団に入っても眠れないのだ。
 誰の声か判らない、下卑た嗤い声が、ずっと止まない。女子学生のグループが、いかがわしいBL漫画を読みながら笑い転げている時のような、不快な声が、ずっと自分の一挙手一投足を嗤っている。
 生きた心地がしない。

 ある夜。仕事終わりに風呂場で体を洗っていると、課長が入ってきて、何食わぬ顔で隣に座った。
 俺と挨拶を交わした後、頭を洗い始める。
「お局様、倉ちゃん気に入ってるみたいだよ。良かったね」
「は、はぁ……」
あの女に気に入られてしまった人間は、もう全員辞めている。あの女は「友人」や「彼氏」に対する束縛が病的に強く、相手のプライベートタイムを食い尽くすからである。
 しかし、逆に嫌われてしまった人間は、死ぬほどの嫌がらせを受ける。食事に劇薬を混ぜられたり、車に細工をされたり、SNSを使ってLINEの内容を晒されたり……悲惨な目に遭う。標的となった人間は、好かれてしまった場合より、もっと早く辞めていくか、転勤を願い出る。
 明らかに【犯罪者】である、あの女を解雇しない弊社は、狂っているとしか言いようが無い。
 とはいえ、あの女の嫌がらせによって本当に死んでしまった人は、今のところゼロである。(誰かが死ねば、初の解雇者となるかもしれない。)
「……やっぱり、元気無いね。まだ、慣れない?」
「慣れないというか……セクハラに、耐えきれないといいますか……」
「セクハラ!?」
「俺と、元彼のことを……根掘り葉掘り訊いて、言いふらして……」
「答えなきゃいいじゃん!」
「何かしら、適当に……嘘でもいいから言葉を返さないと……飯に消毒液とか入れられちゃうんで……」
「は!!?」
 課長は、あの悪名高い「お局様」の暴挙を、そこまで詳しくは知らなかった。
 俺は、知りうる限りの情報を提供した。
「何、そいつ……クビにしなきゃ!!」
「いや、むしろ逮捕……」
「ほんとだね!!」
課長は、あまりにも現実離れした話を聴いたためか、ずっと笑っていた。怒る気にもならないらしかった。


 その後、俺は寮に向けて車を走らせながら今後について考え「自分が辞めれば、全てが解決する」という結論に至った。
 課長に逢えなくなるのは、すごく寂しいが……こんな、矛盾だらけの無法地帯にいつまでも居たら、きっと頭が狂ってしまう。今、既に、かなり危ない状態に陥っているのだ。【自覚】があるうちに、抜け出さなければ……きっと、本当に取り返しのつかないことになる。
 課長と一緒に逃げられたら、最高だが……そうもいかないだろう。

 寮に帰り着いたら、冷凍食品ばかりの夕飯を食べながら、転職サイトを見続けた。
 もう、一次産業とは「おさらば」しよう。
 浴室の無い事業所で働こう。
 場長から受け取った金で、引越せばいい。


次のエピソード
【3.難航】
https://note.com/mokkei4486/n/n5793d3a94e2f

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