見出し画像

小説 「長い旅路」 8

8.社会復帰

 俺の履歴書は、すっきりとしたものだった。大学を卒業した後に、働いた会社は一つだけ……。そこを退職後、書ける職歴は何も無い。
 ただ、本来ならアピールポイントや志望動機を書くはずの欄が、心身の症状に関する申告で埋まってしまった。(初めのうちに偽りなく申告しておかなければ、後でトラブルになるような気がした。)

 恒例の、檜村さんとの面談の日。普段食卓として使っているテーブルを挟んで、彼と向かい合って座る。
 俺は、まだ顔写真を貼っていない、文字だけの履歴書を彼に見せた。
「うわぉ!素晴らしいじゃないか!」
彼は朗らかに笑い、ほとんど知っているはずの中身を、改めて しっかりと読む。
「やる気満々だね……!」
俺の隣に座っている母は、何も言わない。
「綺麗な字だね」
檜村さんは、いつも基本的に俺の言動を褒めてくれる。

 彼が、母に「福祉作業所」と「椎茸栽培」の概要を説明する。母は、真摯に耳を傾けている様子だ。
 彼の視線が、母から俺に移る。
「もし、ここに就職が決まって、定着できたら……面談は、こっちでも出来るんだよ。ご家族じゃなくて、作業所の職員さんが同席になるけど……」
(気が早いなぁ……)
「ハローワークは、行った?」
「い、いいえ……まだ……」
「そっか。だったら……」
彼は、ハローワークの他に、役所でも手続きが必要なことを教えてくれた。
 公的な年金を受け取っている身である以上、それに加えて収入を得るには、きちんと役所に申請をしなければならないという。(福祉作業所で働くこと自体が『福祉サービスの受給』であり、税金が使われることである。そのため、障害年金を受給していない人でも、福祉作業所で働くためには、役所への申請と『福祉サービス受給者証』の取得が必要だ。)
「もし、あれだったら、俺が一緒に行くから……」
毎度のことながら、彼はとてもフットワークが軽い。やる気に満ち溢れている。
 誰かを就職させることが出来たら、彼に追加報酬が出るのだろうか……?


 俺は、ほとんど全ての手続きを檜村さん同伴でクリアして、あの作業所で働くことが正式に決まった。
 あの、防犯カメラの付いた部屋で、まずはパック詰めとシール貼りを教わることになった。小学生でも出来そうな、簡単な作業だ。

 初出勤の朝、母と2人で朝食を食べる。父は、今日も早出だ。
「和真。今日から、お仕事だね」
「……うん」
俺がスケジュールを忘れていまいかと、心配しているのだろう。
「無理せず、頑張りな。まずは一日……ね」
「うん」
 味のしない米と、食感だけは楽しめる漬物を口に運ぶ。
 吐かない程度に、出来るだけ腹を膨らませ、仕事に備える。


 地下鉄に乗って作業所に行くと、面接や見学の日に姿だけは見ていた女の職員が、ロッカーの場所やエプロン等の取扱いについて、ざっくりと教えてくれた。(彼女は、母と同年代のように思われる。)
 手話や筆談が面倒なのか、俺が「どうせ、すぐに辞める」と思っているのか、彼女は あれこれ指さしながら、馬鹿でかい声を出すだけで、正直、説明は解りにくい。【福祉】を冠する作業所が、紙媒体のマニュアルさえ用意しないことが、奇妙に思えた。説明が聴こえない人や、憶えられない人を「無視」することが許される会社ではないはずだ。
 作業が始まる前に朝礼があり、俺はそこで20人ほどの仲間達の前で、苗字だけ紹介された。
 その後、挨拶や自己紹介をさせられることもなく、淡々と作業が始まった。
 俺としては、この部屋に居る人達の中で、誰が職員で、誰が利用者なのか……くらいは把握しておきたかったのだが、それらに関する紹介や説明は一切無く、更には「私服の上からエプロンを着用する」という点は、全員 同じなのだ。職員にも、制服があるわけではない。

 初出勤の俺は、ただ、下手くそな『説明係』の向かい側に立って、彼女の動きを真似ていれば、とりあえず良いらしい。(彼女の、名前すら把握していない。きちんと伝えてもらえなかった。名札も無い。)
 ただひたすら、ラップの上から、所定の位置にシールを貼る。至極くだらない鶏卵の検品作業の記憶が、オーバーラップする。
 ただ、部屋が静かなのは良い。悪霊にでも取り憑かれたように四六時中 笑い転げながら、猥談ばかりし続ける狂人は、ここには一人も居ない。
 見学に来た日も そうだったように、ここで働く人々は、あまり会話をしない。元気の無い人が集まっているからかもしれない。

 休憩時間になると、『説明係』は部屋から消えた。
 俺が部屋から出る理由は無いので、手近な椅子に座って、なんとなく室内を見渡す。
 朝一の作業中は静かだった部屋が、だんだん騒がしくなり始めた。
 作業ごとの班ではなく、仲の良い利用者同士が固まってグループを作り、スマホで動画を観たり、雑誌を眺めたりしている。もちろん、一人で過ごしている人も居る。次に備えて準備をしている人も居れば、居眠りをする人も居る。
 中学校や高校の休み時間と、大差ない。
 ただ、成人だけが集まっている空間としては、かなり「幼稚」な雰囲気であることは否めない。堰を切ったように飛び交いだした言葉は下品だし、画面を見て はしゃぐグループの大声に耐えかねて、逃げるように退室する人や、泣き出してしまう人さえ居る。
 誰に、どういう障害があるのか、特に紹介は無い。身につけている物や、歩き方、話し方、行動で、なんとなく判る人も居るが……ただ、座ってスマホ画面を見ている人達は「どこにでも居る、普通の人」にしか見えない。
 画面を見ながら、一人で ぶつぶつ話していたり、足でリズムをとっていたり……決して「静か」ではない人も居るが、そんなものは、普段から駅や電車の中で よく見る光景だ。特に「おかしい」とは思わない。
 一人で喋っている人の大半は、耳にイヤホンを着けている。

 俺が新人だからといって、特に絡んでくる奴も居ない。
 あの養鶏場なら、新人は一日中 先人達の「好奇の目」か「監視」に晒され、少しも気が休まらない。出身地や家庭環境、大学での専攻に関する質問攻めに遭って、更には体型の良し悪しや能力について、まるで和牛か競走馬のように、細かく【審査】される。それによって、担当作業や「定着させるに値する人材か否か」が、決められる。人材の指導・教育に費やすコストは、断じて「平等」ではない。「役職者候補」でない者は、会議資料に並ぶ専門用語の意味すら教えてもらえない。(「自分で調べろ!」と突き放されるが、畜産業に関する用語は、インターネットで検索しても、何故か ほとんど出てこない。学校で専門知識を学べなかった人は、専門書や業界誌を探し回って読み漁るしかない。)
 過疎地だと「新しい人が来る」ことは、一大イベントだ。
 しかし、ここは都会だ。皆、日常的に入ってくる「新入り」になど、大して興味が無いのだろう。

 作業が再開され、だんだん「昼休み」が近付いてくるにつれて、皆 集中が切れてくる。「お腹が空いた」と騒ぐ若者も居れば、ラジオに合わせて歌い出す おっさんも居る。何の脈絡も無く、アニメかゲームの台詞らしい文言を繰り返し続ける人も居る。それでも皆、手は動いている。
 職員であろう人達が、騒ぎ始めた人達を窘めたり、「時間まで頑張ろう!」と励ましたりしながら、時は過ぎていく。
 自分が小学生の頃に通っていた「学童保育」を彷彿とさせる空気感だが、与えられた作業を投げ出して帰ってしまうような人は居ない。

 午前の作業は無事に終わり、心配していた、弁当を食べる時間になった。
 エプロンを外して、一人で食堂に行き、列に並んで仕出し弁当を受け取ったら、部屋の隅にある席に陣取った。
 弁当箱は、ごはん用と おかず用に分かれている。蓋を開ければ、いかにも安っぽい量と品目で、こま切れ肉や揚げ物といった「茶色い おかず」が目立つ。正直、美味くはなさそうだが、この業者の弁当を食べ続けるかどうかは任意だ。(一食250円の弁当代は、毎月の給料から天引きされる。)ここで注文せずに、自分の好きな物を持参してもいい。
 面接時に社長から聴いた説明によれば、消化器の病気や拒食症状、著しい偏食のある人は少なくないので、昼食を食べ残したからと言って、特に叱責や罰則は無いという。(仕出し弁当の場合は、容器を空にして返却しないといけないので、残した本人が中身を棄てなければならない。)
 申し訳ないが、今日の揚げ物は棄てさせてもらおう……。仕方ない。作業中に吐くよりは良い。

 食べられそうなものだけを慎重に食べ進めていると、大柄で、坊主頭の、40代半ばくらいの男性が、俺の向かい側に座った。まるで運送業者かラグビー選手のような、逞しい体つきをしている。彼は、仕出し弁当に追加して、自前のカップ麺を2つ食べるようだ。
 彼の髪や体毛は ほとんど黒に近い茶色だが、瞳の色だけは薄く、琥珀色とでも言うべきだろう。彫りの深い顔立ちで、眉が太く、眼光は鋭い。体格も相まって、結構な威圧感がある。
 外国人かもしれない。
「お疲れ様です。……新人さんですか?」
彼が口にしたのは、至って流暢な日本語だった。そして、強面と巨体に反し、口調は柔らかい。まるで、看護師や心理職の人のようだ。
 俺は、黙って口の中のものを噛んでいた。質問には答えられなかった。彼の独特な雰囲気に、すっかり魅了されていた。
 彼は、俺が黙りこくっていても、まったく気にならないようだった。自分の名前や担当作業、働き始めて どのくらい経つのか等を、一方的に話し続けた。
 彼の話し声は とても聴き取りやすく、安心する。
 初めは怖いとさえ感じたが、笑うと、すごく優しそうな人に見えた。温厚な性格なのだろうか。勤務先の「先輩」にしては、とても腰が低い。

 テレビでニュースキャスターが話すような、よどみの無い『標準語』で、つらつらと作業所の概要を語る彼に、誰かが「彼は、耳が悪いんだよ」と言った。
「あぁ、そうなの?……後で、スマホ持ってくるよ」
声の主に そう返事をしたら、彼は再び俺の顔を見てから、平然と食事を再開した。
 下の階層で椎茸の収穫を担当しているという彼は「飯村さん」という名前らしい。そして、周りの仲間からは「玄ちゃん」とか「玄さん」と呼ばれている。ルーツは どうであれ、彼は日本人なのだろう。
 玄さんは、俺が食べ残した揚げ物を、快く引き取ってくれた。
 彼は職員ではなく利用者だというが、肉体
は至って健康そうだし、あの職員より、よほど賢そうに見えた。


 午後からは、午前と同じ部屋で、椎茸の入ったパックにラップをかける作業を教わったが、習得する前に、外された。相変わらず『説明係』は あの職員で、彼女は どうも「せっかち」らしい。
 説明が雑な上に、出来映えやスピードが気に入らなければ、容赦なく「速く、綺麗に出来る人」と交替させる。初心者を一人前に育てようという意欲が、まるで無いようだ。
 そして、彼女は基本的に「若い男性」の扱いが雑だ。俺も、彼女にとっては「頭の悪いガキ共」の一人に過ぎないのだろう。
 ラップをかける前の工程を担当する班に合流し、流れ作業でやってくる「検品済み」の椎茸を、指定された範囲内の重量に収まるようパックに入れていく作業を命じられ、それは難なく出来た。
 職員よりも利用者のほうが、よほど丁寧に作業を教えてくれた。


 特に何も問題は無く初日が終わり、俺は まっすぐ帰宅した。15:30に作業終了であるため、まだまだ明るいうちに、街を歩く。これで「仕事終わり」なのだ。信じられない。
 誰も居ない家に着くなり、俺は通勤鞄を放り出し、自室のベッドに寝転がる。
(俺、今日、働いてきましたよ……!)
頭の中で課長に呼びかけるも、応えは無い。
 自分の体から、キノコの匂いがする。父が帰ってくるまでには、風呂に入っておきたいが……眠気に抗えず、そのまま「寝落ち」した。

 目が覚めると夜だった。部屋は暗いが、遮光カーテンは開きっぱなしで、レースのカーテンの向こうから、街灯の光が入ってくる。部屋のドアも、開いたままだ。
 廊下の照明がついている。両親も、帰っているようだ。

 のろのろと起き出してリビングに行くと、父が新聞を読みながら、テレビの音声を聴いている。俺には見向きもしない。
 夕食の匂いがする。
 台所から母が出てきて「おはよう」と言ってくれた。
「よく寝たね。……お仕事、どうだった?」
「……よく分かんね」
馬鹿正直に答える。父が、鼻で笑った気がする。
 母は、いつものように背中に触れながら、褒め称えるように「お疲れ様」と言ってから、食欲や体調について訊いてきた。
 身体に、特に違和感は無いので、俺は「いつも通り」の食事を希望した。

 食事中、父はネットか何かで調べたらしい「椎茸に関する知識」を延々と語っていたが、無視した。自分が椎茸に触れる日が来てから、玄さんに教えてもらえばいい。
 下手な先入観は持ちたくない。

 この日は、いつもより多く食べることが出来た。


 風呂場で、俺は改めて「頭の中の課長」に、ついに【社会復帰】を果たしたことを報告した。
 やはり、応えは無かった。
 それでも、俺は誇らしかった。
 本当に電話をかけて報告してもいいくらいの、れっきとした【進歩】に思えた。
「貴方に背中を押してもらって……俺は……新たな一歩を、踏み出せました……」
誰にも届かない報告は、シャワーの湯と共に、排水口へ消えていく。
 そこには、涙も混じっている。
 この風呂場で「良い所が見つかって、良かった!」という、課長の声を聴いた日のことが、忘れられない。
 もちろん、本物の課長と風呂に入っていた日々も、あれを飲んだ後のことも……よく憶えている。忘れようがない。
「俺、頑張ります……。貴方に救っていただいた、生命で……もう一度……」
彼に語りかけるたびに、涙が溢れて止まらない。
「そして……出来ることなら、もう一度……」
 湯気で曇った鏡には、ほとんど何も写らない。
「本物の、貴方に逢いたいのです……」

 どれだけ無様に泣いても、流してしまえば、親には知られない。



次のエピソード
【9.暗鬼に魂を喰われる】
https://note.com/mokkei4486/n/n91ec03ae5c14

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?