見出し画像

小説 「僕と先生の話」 27

27.逃走

 その日、僕が出勤すると、出迎えてくれた先生は眼鏡をかけておらず、眼は真っ赤だった。泣いた後のようだった。
「どうかされましたか?」
先生は、サンダルを履いたまま、玄関に座り込んだ。頭を抱え、俯いたまま、力無く「私は、とんでもないことをしてしまった……」と言った。
 僕は、靴を履いたまま、側にしゃがんだ。
「どういうことですか……?」
「彼が居なくなってしまった……」
「松尾くんですか?」
先生は応えないけれど、他に該当者はいない。
「自分の家に帰ってしまったんですか?」
「わからない……鍵もスマホも、ここに在るんだ……」
「えっ……?」
 頭の中に、激昂した先生から逃げるために、転がり落ちるように階段を降りてきて、和室には目もくれずに玄関から出ていく彼の姿が浮かんでしまった。
「……何か、トラブルがあったんですか?」
「どう説明すればいいのか、わからない……」
僕は、先生が泣いているところを初めて見た。
「和室の状況を、見てもいいですか?」
「いいよ……」

 僕が和室に入ると、彼が使っていたはずの布団がそのまま敷かれていること以外に、特に変わった様子は無かった。
 確かに、彼の貴重品や漫画本は、全てそのまま置いてある。

 昨日、僕は休みだった。


 玄関で肩を落として泣いている先生を2階にお連れして、気持ちが落ち着くようにと、温かい紅茶を淹れた。先生はミルクティーが好きだと知っているから、それを2杯用意した。
 先生は、どこからかタオルを持ってきて、首にかけていた。それで涙を拭ったり、口を覆ったりしながら、いつも食事をする席で、僕が紅茶を運んでいくまで待っていてくれた。

 先生は、紅茶を一口飲んで、大きく息を吐いてから、僕が質問をするまでもなく、話を始めた。
「私は……全く別の事を考えていたんだ……。15年以上前の出来事を、ふと思い出してしまって……当時感じた恐怖とか、自分を傷つけた犯人への憤りとか……そういうもので、頭が一杯になってしまった」
「誰にでも、そういう時はありますよ」
 僕は、熱い紅茶を冷ますため、音を立てないよう気をつけながら、スプーンをカップの中で前後に揺り動かしていた。回して かき混ぜるより、このほうが早く冷めるし、砂糖や牛乳が よく混ざる。
「……それでも、思い出した怒りのあまり熱を出したり、吐いたりするような人は、少ないだろ?」
「そうかもしれません……」
先生は、一口飲むたびに、ふぅーっと、ため息のように息を吐く。
「私は、昨日……何年ぶりかに熱を出した。今、自分が書いている話に、感情移入しすぎたのかもしれない。物語の主人公と、過去の自分を、重ねすぎたんだ……」
僕は黙った。
「お恥ずかしい話、私は熱を出すと……すぐに幻覚を見てしまうんだ……。幻聴もある……。頭の中で、自分に対する【批判】とか【嘲笑】が、ずっと続くんだ。大勢の人が、自分を『気持ち悪い』とか『どうして、まだ生きているんだ!?』と嗤っていたり、『死ね!』とか『精神病院に帰れ!』と罵ったりする声が……ずっと聴こえてきて……ひどい言葉で、頭が一杯になってしまって、他のことは何も考えられなくなっていくんだ」
僕は、紅茶の撹拌をやめた。
「……薬は、飲んでますか?」
「もちろん飲んでいるよ。しかし……何年経っても、疲れたり、風邪をひいたりすると……すぐに、おかしくなってしまう。昔のことばかり考えてしまって、悔しくて悔しくて、赦せなくて、堪らなくなる……。
 聴こえてくる幻聴は、実際に言われた時の記憶の断片なんだ。心無い連中の嗤い声が、次々に想起されて、止まらない……」
悲痛な顔をして、手にしているカップに目を落とす先生。気泡の観察でもしているかのように、ずっと中を見ている。
「今も、熱はありますか?」
「わからない……」
「体温計ありますか?」
「寝室にあるけれども……今はいい」
今の先生は、比較的冷静に、脈絡のある受け応えができる。大丈夫だとは思う。
 僕は、やっと紅茶に口をつけた。
「松尾くんが出ていってしまったのは……先生が熱を出したことと、関係があるんですか?」
先生は頷く代わりに、俯いた。額に手を当て、考え込んでいるような仕草をした。
「彼が、実際に何を口にしたのか……正直、よく分からないんだ。彼の発言と、頭の中のひどい幻聴を、混同してしまった気がする。
 私は……昨日、自分でも『理由』が解らないまま、彼を殴ったり、怒鳴りつけたりしてしまった……」
「それで、彼は困惑して、逃げ出した……ということでしょうか?」
「おそらく……。
 本当に、恥ずかしいのだけれども……私は、昨夜のことを、はっきりとは憶えていないんだ……」
先生はカップを食卓に置いた。
「すまない……。おかしな事を話している、自覚はある……」
「おかしくは、ないと思います……」
僕も、カップを置いた。
「僕は、精神科の薬を売る人間でしたから……何も、おかしくないと思います」
 そのような症状を呈する人々が少なからず存在するからこそ、あの職業が必要なのだ。

「要するに、先生は昨日、具合が悪くて、彼に八つ当たりをしてしまった……ということでしょう?彼に、それを話すしかありませんよ」
「彼はもう、私に会いたくないかもしれない……」
「でも、鍵とか電話って、無かったら絶対に困る物でしょ?だから、受け取りに戻ってくると思いますよ」
「君が居る時間帯を狙って、私に会わずに、私物だけを持ち帰るんじゃないかな……」
「来たら、僕が先生とお引合せします」
先生は、再びカップを手に取り、残りの紅茶を飲み干した。
「来るといいなぁ……。もし、彼が来て……会うことが出来たら、謝りたい」
「とりあえず、待ってみましょう」

 しかし、数日待ってみても、彼は戻ってこなかった。先生は、日に日に元気を無くしていった。アトリエに立ち入ることが無くなり、一日の大半は応接室でノートパソコンに向かっているけれど、ほとんど文章を打っていないように見受けられた。


 ある日の退勤後、僕は自宅の風呂場で湯船に浸かりながら、思い返していた。
 僕は、インターネット上で誹謗中傷を受けてからの数年間は、どこで何をしていても「この言動について批判されるに違いない」とか「どこかの掲示板に書かれるに違いない」という妄想に囚われていた。自宅でも、大学でも、他の場所でも、ずっと「誰かに監視されている気がする」という漠然とした不安が付き纏った。当時は、服を選ぶだけでも怖かったし、風呂に入るため裸になると、体型や身体的特徴を理由に嘲笑されているような気分になった。(過去に描いた漫画を根拠として、作者である僕が「同性愛者に違いない」という噂が流布されていた。しかし、僕は異性愛者である。)
 卒業後、就職先でパワハラに悩みながら激務に追われているうちに、掲示板について考えてしまうことは皆無に等しくなったけれど……。
 それでも、あんなに好きだった『絵や漫画を描くこと』は、恐ろしくて出来なくなったし、15年以上経った今でも、街中で通行人達が笑いながら話していると「自分の悪口に違いない」と感じてしまう時がある。大学の学生寮で盗撮の被害に遭ったためか、未だに大学生と思われるグループを見かけると、ただならぬ恐怖を感じる。過去に受けた被害が「今も続いているかもしれない」という不安に駆られ、日常的に侮蔑されていた頃のことが、思い起こされて止まらなくなってしまう。
 そんな状態の時は、テレビを観るのさえ、怖いのだ。誹謗中傷の被害者に関するニュースや、芸能人が「イジられている」姿を見るのが、とても辛い。

 残念ながら、元気だった頃の松尾くんは、僕や先生のような「精神疾患の人間」を、嗤う側の人間だった。今は、自身が闘病中だから、考え方や感覚は変わっているように見受けられるけれど……。先生が過去に浴びせられたという罵詈雑言に近しいことを、彼は勤務先で頻繁に口にしていた。僕は、それを知っている。当時の僕は「なんて幼稚な奴らだ」と、相手にしなかったけれど……不快に思っていたことには相違ない。(だからこそ、彼が先生を頼ってきたことが、初めは不思議でならなかった。)
 ひょっとすると、かつての元気を取り戻しつつあった彼が、テレビか何かをきっかけに、幻聴に苛まれている先生の前で、差別的な軽口を言ったのかもしれない。憶測に過ぎないけれど……。

 ただ、僕は、彼が戻ってきたら、これまで通り、穏便に接するつもりだ。
 今の彼は、もう、僕や先生を非難したり、嗤ったりしない。
 僕は、過去なんて水に流したい。

 外で、雷が鳴っている。
 彼は今、どこに居るのだろう……?


次のエピソード
【28. 勇姿】
https://note.com/mokkei4486/n/na918a97b531b

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?