見出し画像

小説 「六等星の煌き」 7

7.兄妹と犬

 リュウバに滞在し始めて3日が過ぎたが、待てど暮らせど、隕石に関する報道は無い。(検証に、時間を要しているのか……?)
住民の数を考えれば、一日も早く警報を発令して頂きたいところなのだが、未だに、ラジオや新聞は「新彗星」の話題を取り上げる。
 海軍に何らかの動きがあったという情報も無い。

 私達は、食費を少しでも浮かせるため、安価な食品や日用品を売る店に立ち寄った。そこでは新聞も売られている。私は、買うつもりの無い新聞を眺めながら、今後の立ち回り方について思慮を巡らせていた。

 街で暮らす人々が日常的に買い物をする店のはずだが、思いのほか客は少ない。
 新聞を眺めるのを やめた私は、店側が用意したかごを持って店内を歩き回り、缶詰や飲料、焼き菓子等の食糧を、2個または4個ずつ入れていく。もちろん、カンナにも好みを訊く。

 私はそこで、ある事に気付いた。
 店内で、大人の買い物客達に混じって、幼き日の私を彷彿とさせる、貧しい身なりをした10歳かそこらの少年が、何度も棚の間から顔を出し、やけに店主や他の客を見ている。少年は、店側が用意した籠ではなく、自前の袋を提げている。
 ある事に思い至った私は、煮魚の缶詰だけは3つ購入し、店を出る前に、あえて店主からよく見える場所に少年を呼び寄せて、1つを譲ってやった。私は「やるよ」としか言わなかったし、その場に居合わせたカンナも、終始 黙っていた。
 突然のことに、少年も驚いたのだろう。黙って缶詰を受け取った後、店内で立ち尽くしていた。

 買い物袋を提げて通りを歩き、宿に向かった。今夜の夕飯は、缶詰ばかりの粗末なものになる予定だ。
(食べ物を恵んでやるより、隕石のことを教えてやったほうが、良かったかもしれない……。しかし、信じるだろうか?)
 あの貧しい少年は、食品を盗みに来ていたに違いない。孤児だった私の直感が、そう告げていた。
 金の無い者は、鉄道で逃げることすら適わない。本当に貧しい者達を救いたければ、今すぐにでも、私が自ら人々に呼びかけて、避難を始めてもらわなければならない。
 しかし、国家は依然として、あれを「新彗星」と報じ続けている……。私の警告を、信じる者など、この街に居るだろうか。


 隕石に関する報道がなされないまま、時だけが過ぎてゆく。私は毎夜、宿から望遠鏡であの天体を観る。そのたびに、胸騒ぎがする。日に日に、天体が明るくなっているように思えてならない。
(何故、軍は情報を公表しないのだ……!?)
 軍の関係者が国立観測所に問い合わせ、情報提供者の私が神経症であったことが知られてしまったのだろうか。しかし、陸軍のハリス殿も、私の見解に理解を示していた。
 基地の被害を最小限に留め、人命を優先するならば、すぐにでも「新彗星」などという発表を撤回し、軍の車両や船を使って人々を避難させるべきだ。
 星を観て焦る私をよそに、カンナは同じ客室の中で、黙々と缶詰を食べている。
 私は、いつまで この街に滞在するのか、それまでに人々にどうやって避難を呼びかけるか、懸命に考えた。
「頭が痛いのですか?」
「え?」
カンナに問われ、ふと我にかえる。無意識のうちに、頭が痛む時のように、額を押さえつけていた。
「今後のことを考えると、頭が痛くなってきました……」
「水をたくさん飲んで、早めに寝ると良いですよ」
「……そうします」


 翌朝は一人で新聞を探しに出かけたが、やはり依然として「隕石」の話題は無い。どの店で売られている新聞も、大して変わらない。
(この国は、どうなっているのだ……?)
 それとも、やはり私は神経症によって幻を見たか、あるいは眼を病んでいるのだろうか?

 あてもなく市場を歩いていると、背後から「待ちやがれ!糞ガキ!!」と怒鳴る声がした。振り返ると、細身の少年が、店から盗んだのであろう蔬菜そさいを手に、走り去っていくのが見えた。昨日、私が缶詰を譲ってやった少年である気がした。全く同じものを着ていたのだ。
「誰か、そいつを捕まえてくれ!!」
他の者に何かを盗まれかねないため店から遠く離れるわけにはいかない店主が、店の前で怒鳴り散らしている。しかし、通行人は誰も少年を追わなかった。
 あまりにも足が速く、すぐに路地へと消えたのだ。
 私が、自分の歩みで その路地の入り口に到達した頃には、既に そこには誰も居なかった。また、その路地は成人が駆け込むには狭すぎた。


 私の経験上、無償で食料を手に入れたければ、川に行くのが良い。道具があるなら釣りが出来るし、素手でも、運が良ければ何かを捕えられる。川辺に生えている野草の中には、食べられるものもある。
 既に、カンナが一人で川辺に居るはずだ。彼女は今朝、猟刀を手に「魚を獲って、川辺で焼いてみたい」と話していた。
 街中を流れる大きな川の、河川敷は広々としていた。小さな畑が幾つも作られ、鳥除けの仕掛けが風に舞いながら光っている。草取りや、見廻りをする人の姿が見える。
 カンナが どこに居るかは、分からない。

 土の上を通り過ぎ、石ばかりの川岸へ歩を進める。大きな川は流れが速く、うっかり近寄れば流れに身を攫われそうだ。素人が気軽に魚を獲れるような場所ではない。
 どこからか、煙の匂いがした。火事や野焼きであっては まずいと思い、辺りを見回す。
 遠くで、誰かが焚き火をしているのが見える。火を見ている人の側に、大きな黒い犬が居る。なんと大きな犬だろうと思って眺めていると、やがて「火を見ているのは子どもだ」ということに気が付いた。石を積んで作ったかまどのようなものに、鍋らしきものを乗せている。
 この時間帯に一人で外に居るということは、家が貧しくて学校に通えないのだろう。
 私は、その子どもにカンナのことを訊いてみたいと思い、そちらに歩いていった。

 私の接近に気付いた犬が、吠え立てる。しゃがんで鍋を見ていた子どもが、吠える犬に何かを言ってから、こちらを見た。
 犬が襲ってくる様子は無いので、そのまま歩み寄る。すると、鍋を見ているのは、市場で蔬菜を盗んでいた あの少年であることが判った。
 盗んだばかりの蔬菜を、茹でるつもりでいるようだ。ぐしゃぐしゃの古新聞が敷かれた上に、苦味のある青菜が、千切って置いてある。
「よぉ。昨日の、あれは食ったか?」
面識と恩義のある私は、堂々と少年に声をかける。
「なんで、急に あんな物くれたんだよ」
問いには答えない。礼すら言わない。不躾な小僧だ。
「分けてやらないと、盗むと思ったからな」
一緒に火を見るかのように、私は少年の側に しゃがんだ。犬が、鼻を鳴らして私の足腰を嗅ぎ回る。
「……蔬菜が欲しい時は『兎の餌にする』と言って、くずを分けてもらえばいいんだ。わざわざ売り物を盗んだりなんかしなくていい」
「……おっさん、頭良いな」
彼の感覚だと、28歳の私は「おっさん」らしい。普段は「若造」とか「坊ちゃん」と呼ばれている身であるから、妙な感じだ。
「人を捜しているんだ。私と同じくらいの歳で、軍人のような格好をした、髪の短い女性を見なかったか?」
「……見てない」
「そうか……残念だ」
私は立ち上がり、更に上流を目指すべく歩き出した。
「あ、おっさん!」
少年の声に、振り返る。
「魚、美味かったよ。……ありがとう」
しゃがんだままだが、きちんと礼が言えた。
「気にするな。……家は、近くなのか?」
「あれだよ」
「あれ?」
少年が顎で示した方向には、大人の身が隠れるほどの高い草が生い茂り、更には木々や岩に隠れるように、今にも崩れそうな小屋が建っている。本来は住居ではなく、物置小屋だったのではなかろうか。長年 雨風に晒され、木材が すっかり黒ずんでいる。
「こんな所に住んでいるのか?……川が暴れ出したら、終わりじゃないか」
「もう何年も暴れてないよ」
少年は、ずっと鍋を見ている。
「親は、仕事か?」
「親なんか居ないよ。俺と……妹と、こいつだけだ」
いつの間にか、少年の飼い犬は私を警戒しなくなった。主人の横に大人しく座り、舌を出して鍋を見ている。
「……孤児なのか?」
「まぁ……そうだな。母ちゃんは死んだ。親父は……知らない」
「おまえ、歳は いくつだ?」
「12だよ」
12歳にしては、小柄だ。
「妹は?」
「9歳」
「この街にも、孤児院は在るだろ?」
「逃げてきた。……妹が虐められたから」
何も言ってやれない。
「妹は、家の中に居るのか?」
「居るけど……何だよ」
「いや……なんとなく、気になっただけだ」
兄が料理をするのを、手伝ったりはしないのかと思っただけだ。
 兄妹2人が食べるには、青菜が2〜3束だけでは少なすぎる。
「少し待ってろ」
 私は、畑のあった場所まで走り、主に「兎の餌にしたい」と言って、間引かれたばかりの幼い根菜を10本ほど分けてもらった。
 それを手に、青菜を茹でている少年のもとへ戻った。
「これも、食えるぞ。洗ってきてやるよ」
「おぉ!」
私は、川の水で根菜を洗い、茎を適当に捻じ切り、細い根を幾つかに折ってから、それらを全て鍋に放り込んだ。
 少年が、過去に盗んできたのだという塩を少し加える。
「随分と、かさが増えたな」
「おっさんも食う?」
「おまえ達の分が減るだろ……遠慮しておくよ。人捜しもあるし」
「見つかるといいな」
「……見つかったら、連れてきてやるよ」
少年は、不思議そうな顔をしていたが、私は あえて応えなかった。
 彼らに別れを告げ、私は宿に戻った。

 客室で、夕食代わりに缶詰や氷砂糖を貪り食っていると、カンナが戻ってきた。
 収穫は、無さそうだ。
「浅いところを目指して……川を辿って、山に入ってみたのですが……気味が悪いほどに、獣が居ません」
「街が近いからではないですか?」
彼女は至って真面目な顔をしているが、私には、それほど恐ろしいことではないように思われた。
「いくら人里が近くとも……栗鼠リスの一匹も見かけないなど、妙です。鳥の声すら、しません」
「駐屯地のある山でしょう?日々、軍の車両が走っていれば、皆 逃げていくでしょう」
「……天変地異の前には、野にある獣は皆 姿を消すと言われています」
(落ちる日が、いよいよ近いのか?)
腹の底が冷えるような気がした。今、獣達が災厄を予知して逃げているのなら、落下の日は、私の予測より ずっと早いかもしれない。
 昼に見た あの犬は、平然としていた。しかし、あれは「野にある獣」ではない。すっかり人に飼い慣らされた犬だ。
 私はカンナに、川原で暮らす兄妹と犬の話をした。
「もし、魚や獣が獲れたら、彼らにも食わせてやりたいのです」
「お優しい方ですね。承知しました。明日は、何かが獲れると良いのですが……」

 翌日には、私も駆り出され、再び あの川の上流で魚獲りを試みることになった。
 川の魚は、鳥や獣のように よそへ逃げるわけにはいかない。必ず そこに居る。
 今日は運が良く、浅い場所で魚を何匹も獲ることが出来た。
 ブーツを脱ぎ捨て、袖と、ズボンの裾を捲り上げ、水中に目を凝らす時、幼き日の、学校帰りに学友達と魚やエビを獲っていたことを思い出した。魚が眠っていそうな岩の隙間や陰を探し、自分の手が大きな魚や亀の口であるようなつもりで、水中に入れてから そっと隙間に挿し入れて、魚が居れば、反射的に掴む。時には蟹に挟まれることもある、少々危険な技だ。それでも、その蟹をこちらが食えばいい。
 私が掴み損ねた魚を、彼女が捕えてくれることもあった。宿で借りてきたバケツに水を入れ、そこに魚を生きたまま入れていく。

 彼女を連れて、あの兄妹の住まいに向かった。あのかまどの側で、少年が、集めてきた枝を積み上げている。
 今日も、あの黒い犬が近くに居る。私達の接近に気付くと、やはり吠える。見事なまでに真っ黒で、美しいとさえ思う。金持ちが欲しがりそうなほどの、良い犬だ。
「よぉ。今日も来たぞ」
私は、軽く手を挙げて挨拶をする。
「捜してる人、見つかった?」
「彼女が、そうだ」
「え……その人、女の人?」
「あぁ、そうだ」
「へぇ……」
その後は特に何も言わず、手や服に着いた土を払う。

 カンナが、持っていたバケツの中身を少年に見せる。
「上のほうで、魚を獲ってきたんだ。火を借りてもいいか?半分やるから」
「いいよ!」
「何か……串になるような物はあるかい?」
 少年は、家の中から竹の串を持ってきた。
「ちゃんとしたのが、あるじゃないか」
 カンナは、受け取った それを、石に頭を叩きつけて絶命させた魚の、口から刺していく。
 そして、串刺しになった魚を8匹、私が起こした火の周りに並べていった。その頃には、既に魚には塩が振ってあった。
 犬が、炎に焼かれていく魚を前に、よだれを垂らしている。
「ドン!『待て』だぞ!」
主人に窘められたドンは、鼻を鳴らし、そわそわと落ち着かない。
 少年は「妹を呼んでくる」と言って、古い小屋の中に消えていった。私は、引き続き火と魚を見る。カンナは、魚から注意を逸らすべく、ドンに ちょっかいを出して遊んでいる。ドンは嬉々として応える。

 やがて小屋から出てきた少年の妹は、どうやら盲目らしい。兄に手を引かれ、足元の石に躓きながら歩いてくる。
 少年は、火から離れた場所にある大きな石に妹を座らせると、少し待っていろと言い、魚を取りに来た。私は、よく焼けていると思われる一匹を選び、熱いのを堪えて、苦いはらわたを手で取り除き、それをドンの近くに放り投げた。ドンが むしゃむしゃとはらわたを喰っている間に、魚が中まで きちんと焼けているかを確かめる。
 「いけそうだな」と、少年に渡すと、彼は すぐに妹のところへ戻った。「熱いから気をつけろよ」と言いながら、妹に魚を手渡してやる。
 よほど腹を空かせていたのか、妹は一言も話さず魚に齧り付く。
 私は、全ての魚からはらわたを出し、一匹だけは串から抜いて丸ごとドンにやった。適当に振って冷ました魚を足元に放ってやると、まだ熱かったのか、しきりに鼻息を出しながら、それでも美味そうに齧り付いていた。丸飲みはせず、キツネが魚を喰う時のように、腹から少しずつ齧っていく。
 火の側に戻ってきた少年が、妹の目のことと、彼女は「大人を怖がる」のだと教えてくれた。特に大人の男を怖がるそうで、食べ終わるまで そっとしておいてやってほしいとのことだった。
 私達は承諾し、そのまま火の近くで静かに魚を食った。
 全員が食い終えたら、魚の骨は川に流した。

 ドンが走り出し、石の上に座っている妹に駆け寄る。彼女は、走ってきたドンを抱きしめる。ドンは、上機嫌で尻尾を振る。
「随分と、大人しい子ですね」
カンナが口を開く。
 確かに、いくら盲目とはいえ、子どもらしい活力がまるで無い。声も出さない。また、9歳にしては身体が小さく、6〜7歳に見える。飢えによるものか、あるいは、何らかの病に罹っているのかもしれない。
 声をかけてやりたいような気もしたが、名を知らない。
 少年に尋ねると、本人はアイク、妹はサーヤだと教えてくれた。(犬の名がドンであることも、改めて教えてくれた。)
 私達も、それぞれの名を答えた。
「サーヤに、声をかけてもいいか?……嫌がるか?」
「どうだろう……。魚をもらったし、大丈夫じゃないかな」
そう聴いた私が動き出そうとすると、アイクは「ただ……」と、言葉を継いだ。
「あいつは、口が利けないんだ。返事をしないけど、叱らないでやってくれよ」
「わかった」
やはり、何らかの病を抱えているように思われる。
 アイクが先に声をかけ「魚をくれた人達だ」と紹介してから、私達は彼女に挨拶をした。
 サーヤは いかにも不安そうな素振りを見せ、抱き寄せたドンから離れない。
 私が居た孤児院にも、このような口が利けない子というのは居た。しかし、当時の私は子どもになど まるで興味が無かった。日々、大人を騙して金品を手に入れ、腹を膨らませることだけを考えていた。
 私は、サーヤの身体のことには あえて触れず、アイクに身の上を話した。
「私達は、遠い街から来て、宿に泊まっているんだが……宿には台所が無くて、困っているんだ。毎日でも ここに来て、今日みたいに火と鍋を借りられたら、すごくありがたいんだが……」
「いいよ。貸してやる」
「良いのか?」
「何か食わせてくれるなら」
「よし。一日一回なら、食わせてやる」
「やったぁ!」
「ただし……私達は、そう長くは、この街には居られないんだ」
「そうなのか?残念だなぁ……」
「この街には……」
 私は、初めてリュウバの住民に隕石の話をした。
 しかし、学校に通ってすらいないアイクには、到底飲み込めない話であるようだ。
「空から、石が落ちてくるのか!?……嘘だろ!?」
「本当だ。おまえだって、隕石燃料くらいは知ってるだろ?あれは、地面に落ちた隕石から造るんだぞ」
「街に、石が落ちたら……どうなるんだ?」
「一瞬にして、街が消える。……燃え尽きるんだ」
「人は……どうなるんだよ!?」
「亡くなる。大勢。焼け死ぬか……王の」
「やめろよ!『死ぬ』だなんて!!」
アイクの怒鳴り声が、私の話を遮った。
 恐ろしい話を聴いたサーヤが、声も無く泣き出してしまった。ドンが、その涙を舐める。
「何、泣かしてんだよ!おっさん!!」
「すまない。怖がるようなことを言った。しかし……私は天文学者なんだ。隕石が落ちる前に、人々を逃すため、この街に来た。軍の偉い人にも、話はしてある。いずれ、船や車で、街の人を……」
「信じられるかよ、そんなん!!」
「それでも、次の新月の頃には、この街は……」
「馬鹿!おっさん、馬鹿だろ!!サーヤを泣かすな!!」
 激昂し、私に掴みかかろうとしたアイクを、カンナが、いとも あっさりと取り押さえた。いくら男児でも、軍人あがりの大人の手を振り払うことは出来ない。体の後ろで、がっちりと両腕を固められ、まるで動けない。
 アイクの顔が、みるみるうちに赤くなる。押さえているカンナは、至って涼しい顔をしている。
 それを見たドンが、彼女に牙をむいた。主人を捕えた『敵』の、足に咬みつこうとしたのだ。私は、咄嗟に川原の石を拾い上げ、その鼻先に投げつけた。
 ドンが、悲鳴をあげて頭を振る。
 投げたのが誰か瞬時に理解したドンは、私に向かってきた。
「ドン!やめろ!『待て』!!」
主人の声が耳に届かないのか、何度も私に咬みつこうとする。どうにか かわし続けた私は、バケツのある場所まで走ることしか思いつかなかった。それを盾にする他はない。
 犬の足は速い。振り返る暇は無い。
「『待て』!……行くな!!『座れ』!!」
 アイクの叫びが、辺りに響く。
 私は、火の近くにあるバケツを掻っ攫い、振り返ると同時に構える。中はもう空だ。底を、ドンに向ける。
 しかし、ドンは思ったより ずっと遠くに居た。解き放たれたアイクに、宥めすかすように体を撫でられている。
 拍子抜けしたが……良かった。

「すまない。石を投げたりして……」
私が、詫びの言葉を述べながら彼らに近寄ると、ドンは唸り声をあげた。アイクは、ずっと、怒りに燃える忠犬を宥めている。
「ドン、違うんだ。俺が悪いんだ。咬んじゃ駄目だ……」
 私はサーヤが気にかかり、そちらに目を向けると、カンナが彼女と同じ石に座り、何度も謝りながら、その小さな肩を抱いていた。
「ごめんな。びっくりしただろう……」
サーヤは、もはや放心状態であった。カンナに悪意は無いが、よく知らない大人に肩を抱かれ、捕えられたように感じているかもしれない。
「ちょっと、喧嘩になりそうになっただけだ。誰も、怪我をしていないからな。……大丈夫だからな」
優しく声をかけるカンナは、まるで歳の離れた姉のようである。
 ドンの怒りが鎮まってきたため、アイクが手を離し、妹の側へ行って抱き寄せた。
「ごめんな。俺が、ドンを怒らせたんだ……」
サーヤは、ずっと泣いている。
 真っ暗な世界で、兄の怒号や、愛犬の悲鳴を聴いて、絶望すら感じただろう。
「本当に、すまないことをした……」
私は、他には何も言えなかった。
「いいんだ。……おっさんが悪いんじゃない」
アイクは聡明だ。
「俺達は……明日から、どうすればいいんだ?」
彼は、真っ赤な眼をして、私に問うた。
「毎日、腹一杯食って、しっかり寝ろ。体力を養え。私達が、街から逃げる時……一緒に、車に乗せてやる」
「街のみんなに、知らせようか?」
「それは、軍の人に頼んである。私達も動く。だから、おまえは何もしなくていい。
 きっと、今のおまえみたいに、怒る大人がたくさん居る。……おまえが怪我をしたら、誰がサーヤを守る」
「……わかった」
「明日も、また来る。あと2〜3日のうちに、街を出るだろうな。荷物をまとめておけよ」
「うん……」

 私はカンナと共に、宿へ戻った。
 受付でバケツを返す時、主人に変わった様子は無かった。住民の避難が始まっている気配は、どこにも無い。
 明日からは、いよいよ大人達への呼びかけを始めなければならない。「気狂い」と、罵られてもいい。本当に私一人が狂っていて、石は落ちず、誰も死なないのなら、それこそが【最良】だ。
 しかし、私は、偉大なる父の教えと、己の歩んできた道を信じている。
 亡き父が、私に「戦え」と告げている。


次のエピソード
【8.同志】
https://note.com/mokkei4486/n/naa6b2a2de188

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?