小説 「僕と先生の話」 5
5. 夢
面接の翌朝、僕は起き上がることが出来なかった。
目は覚めているのだけれど、身体が動かない。まだ眠剤が効いている……というだけではない気がした。
昨夜は、久しぶりに深く眠れた気がする。早朝に一度目が覚めたのだけれど、すぐに再び眠ることができ、先生の家で絵を描いている夢を見た。しかし、僕の仕事は作画ではない。
夢は、夢だ。
僕はもう、絵を描くのはやめたんだ。
僕の実家は、決して裕福ではなかったから、学習塾や習い事に通わされることもなく、欲しい漫画を買い集められるほどの小遣いをもらうことも出来なかった。
学校の図書室にある漫画を読んだり、同級生に借りて読ませてもらったりするのが本当に楽しみで、いずれは返さなければならないそれらを、心に刻み込むように、何度も繰り返し読んだ。好きな台詞は、何度でも叫んだ。
素晴らしい物語の数々に、引き込まれ、感動し、何度も泣いた。息が出来ないほど笑った日もあった。絵が下手だという自覚はあったけれど「読む人の心を動かす漫画を描けるようになりたい」と、強く思うようになっていった。
裕福ではないとはいえ、勉強に使う文房具を買うためなら、両親は快く小遣いを出してくれたから、僕は安価なノートとボールペンをたくさん買い込み、漫画を描くのに没頭した。そして、面白い漫画を描くために、博識な大人になろうとした。書店や図書館に足繁く通い、漫画も含めた書籍を読み漁った。
両親は、僕を「勉強熱心な、自慢の息子」として暖かく見守り、いずれは芸術を学ぶ学校に通えるようにと、学費を貯めてくれた。
特に、父は楽天家で、漫画を描くことを「遊び」と見なして軽んじたりはせず「やるからには、本気でやれ」「歴史に名を残せ!」と、笑って背中を押してくれた。「若いうちに、難しいことに挑戦してみるのは良いことだ」「たとえ、プロにはなれなくても、おまえが本気で学び続ければ、その時間は決して無駄にはならない」「アシスタントとして飯を食うこともできる」「歳をとってから『お金が無くて、できなかった』と後悔させたくない」と言って、ずっと応援してくれていた。
ところが、僕が高校2年の時、その父は急死した。ある日突然、会社で心臓が止まってしまった。過労によるものかどうか、断定はできなかった。
遺された母を養いながら、いずれは自分も家庭を持つためには、漫画は趣味だと割り切るしかなかった。僕は、大企業への就職率の高さで知られる理系の大学に進学することを選んだ。
どんな学校に通いながらでも、漫画は描き続けられるような気がしていたけれど、そんなことはなかった。両親の貯金と奨学金だけでは生活費が足りず、アルバイトが欠かせなかった。
それでも、僕が講義中に書いていたノートは落書きだらけだった。教授達による複雑怪奇な講義の中身を、自分でも理解できる日本語に置き換えて、自分が考え出したキャラクターの台詞としてノートに描くことは、勉強法としては、悪くなかったと自負している。そうしておけば、ノートを後から読み返すのが、苦にならないからだ。
しかし、同期の女子学生達は、僕のノートを勝手に覗いておきながら「マジきもい!」と笑い転げていた。男子学生にも「オタク」呼ばわりされ始め、僕は、あっという間に学内の有名人になった。
大学の教室でノートを覗かれて笑われるくらいなら、大して気にならなかったけれど、学生寮の部屋に遊びに来た連中が、僕が台所やトイレに居る隙にスケッチブックを盗み見たり、それを、当時 出回り始めたばかりのスマートフォンを使って盗撮し、無断でインターネット上に晒したりしていたことを知った時、僕の生活は一変した。
大学に入る前、父がまだ健在で、本気で漫画家になりたいと思っていた頃、僕は実家のパソコンとスキャナーを使って、インターネット上に自分の拙い絵や漫画を掲載していた。「この名前で、デビューを目指してやるんだ!」と、中学生ながらに決めていたペンネームがあって、それをサイト管理者のハンドルネームとして使っていた。自分の作品を展示すると共に、他の漫画家志望の人達との交流を目的とした掲示板を運営していた。
父の死後、漫画家を目指すのは諦めることにしたから、そのサイトは削除したのだけれど……そこに掲載されていた画像を、保存していた輩が、どこかに居たのだろう。
学生寮で盗撮された作品だけではなく、過去にインターネット上に掲載していた作品や、当時のハンドルネームと共に、僕自身の顔写真や動画(大学内で盗撮されたもの)、事実無根の噂話(多くは性的な内容)、僕ではない人間が描いた絵や文章まで、無断で一緒くたに掲載して、それらへのリアクションとして「下手」だの「気持ち悪い」だの「死ね」だのと、罵詈雑言が書き連ねてある匿名掲示板の存在を、古い友人からの連絡で知った。(その友人は、僕のサイトの常連だった人だ。)
実際にその掲示板を目にした時、僕は気を失いそうになった。魂が体から抜け出て、残された体が崩れ去ってしまいそうな感じがした。あまりにも気味が悪い出来事に対し、初めは ただひたすらに恐怖を感じた。
インターネット上で、僕に対する「誹謗中傷」が行われていたのだ。実名こそ使われていないけれど、顔が出てしまっているのだから、それは犯罪であるはずだった。
犯人に対する怒りによって冷静さを取り戻した僕は、警察署に自分の携帯電話を持参して、例の掲示板が表示されている画面を警察官に見せながら「被害届を出しに来た」「書き込みを削除してほしい」「犯人に心当たりがあるから、調べて捕まえてくれ」と訴えた。
しかし、警察署での対応は「学校でいじめられたくらいで、いちいち警察にまで来ないでくれ」という、至極冷たいものだった。まともに取り合ってもらえなかった。
当時「インターネット上の落書き」は、ほとんど犯罪として認知されていなかった。
その【事件】をきっかけに、僕は、絵や漫画を描くことを、本当にやめてしまった。
手元にあった作品は、すべて自分の手でビリビリに破って捨てた。わざわざシュレッダーを買うのも馬鹿らしい気がしたし、耐え難い怒りの感情を、紙にぶつけてしまいたかった。ずっと描き溜めてきたノートやスケッチブックからページを引きちぎり、何が描かれていたのか判らなくなるまで、できるだけ細かく破った。
全てをゴミとして出し終えるまでに何日かかったか分からないけれど、終わってしまえば、あっけないものだった。
僕は、携帯電話を番号が違うものに買い換え、メールアドレスも変えて、ほとんどの知人と連絡を絶った。寮の自室には、誰も入れないと決めた。
勉強用にイラストを描くことも、やめた。
賢い友人の提案で、掲示板の運営会社に削除申請を出した。根気強く申請を出し続け、顔写真や動画が載っている掲示板だけは、削除してもらうことができた。
しかし、文字のみによる誹謗中傷は続いた。僕が考えた個性的なペンネームは、もはや【蔑称】と化し、あらぬ噂と下品な憶測が際限なく飛び交い、自分がインターネットから目を背けても、大学構内や街中で、僕の姿を見ただけで笑い転げる輩が大勢いた。(今の時代なら『炎上』と呼ばれる現象だろう。)
しかし、インターネット上で執拗に貶められているのは、もはや僕ではなかった。
僕は、その名前の所有権を放棄した。架空の人物の、ファンとアンチが入り乱れて騒いでいるだけだと考えることにした。
それでも、実家や母校で、過去に自分が描いた絵を見つけるたびに、頭の中で、意地汚い連中の下卑た笑い声が響くようになった。
母だけは、息子が描いた絵を、宝物のように大切にしまっておいてくれたけれど、母の死後、僕はそれらを全て両親の遺品と共に処分した。(ごく限られた形見の品だけを手元に残し、実家と家財道具は売り払ってしまった。自分にまつわるものは、ほとんど全てゴミとして廃棄した。)
両親が懸命に応援していた「自慢の息子」は、どこかへ消えてしまった。
今の僕は、ただのポンコツ野郎だ。
僕は、のろのろと寝床から起き出し、冷たい牛乳だけをがぶがぶと飲んで、口をゆすいだら、着替えることもなく、また寝床に戻っていた。
何もする気が起きず、芋づる式に過去の嫌なことが思い起こされて、止まらない。こういう日は、あまり体調が良くないのだ。
しかし、このまま家で腐っているよりは、工場で、がむしゃらに何かを作っていたほうが、気が紛れる。時を忘れて旋盤に向かい、金属を削るのは、とても心地が良い。
嘲笑さえ無ければ、あそこは とても魅力的な場所だ。
そして、過去のことの一切を振り払い、ただひたすらに技を磨く時間には、大きな意義があった。あの工場で働くことが無ければ、あの先生と巡り逢うこともなかったわけだ。その事実には、感謝している。
僕の心臓は、まだ動いている。
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【6. 本来の「普通」】
https://note.com/mokkei4486/n/n95d0ae16469e
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