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小説 「長い旅路」 11

11.見切り

 作業所で働き始めてから、初めての【給料日】が やってきた。
 昼休みに食堂で配られた明細を、一部の利用者達は、当たり前のように「見せ合いっこ」している。ゲームの点数を競い合うかのように「出勤できた日数」を競って、楽しんでいるらしい。俺と同じように、人前では開封せず、大事に持っている人も居る。
 食べるのが遅い俺が先に食事を始めていると、いつものように玄さんが隣に やってきた。彼は仕出し弁当とコンビニのカツ丼を机の上に並べてから、開封済みの封筒を二つに折って、尻のポケットに押し込んだ。
 椅子に座って「いただきます!」と手を合わせてから、俺に訊いた。
「倉本くん、今日『初めてのお給料』じゃない?」
「は、はい……」
「何を買うの?」
全く考えていなかった。
「僕は、毎月、お給料が入ったら友達とお酒を飲みに行くよ!」
すごく「彼らしい」気がした。
 彼は、その後、毎月一緒に飲みに行く旧友について、つらつらと語った。その人は絵本作家で、彼は「先生」と呼んでいるらしい。20年近く前に、今はもう倒産した福祉作業所で知り合った人だという。
「倉本くんは、お酒飲める?」
俺は、首を横に振った。
「先生も、一滴も飲まないんだよ。僕が一人でビール飲んでるのを見ながら、いつも、すごく楽しそうに魚を食べてる」
(先生は、魚が好きなのか……)
 玄さんの話に耳を傾けていると、また、あの女の職員が絡みに来た。さすがに、名前を憶えた。「大賀」だ。
「倉本くん!午後からは、シール貼りだからね!!」
(こいつは……いつ、どこで食べてるんだ?)
「そんな話、午後になってから してあげてくださいよ」
玄さんが、口答えをする。
「こういうタイプの子は、早めに言って『心の準備』をさせてあげないと、動けないのよ!」
「そこまでするなら、いっそ『作業指示書』を作ってあげてくださいよ。彼は、難聴なんですよ?」
「貴方が決めることじゃないわ、玄ちゃん」
俺は、玄さんが全面的に正しいと思う。
「お給料出たんだからね!頑張りなさいよ!」
大賀は、それだけ言い残すと、立ち去った。
「毎日毎日、何しに来るんだろう?……下なら、段取りの話なんか、朝礼の時に済ませるよ?」
下の階層は、本当に『別世界』である。


 その日、俺は帰宅するなり母を探し、給料明細が入った封筒を差し出した。(母は、今日は休みだ。)
「わぁ、おめでとう!和真!!」
母は、大袈裟なくらいに、俺の肩を叩いて喜んでくれた。
「あら。まだ、開けてないじゃない……」
母が見ている前で、俺は封筒にはさみを入れた。
 金額は、正社員だった頃の、約3分の1である。
 それでも……俺は、久方ぶりに【労働の対価】として収入を得た。
「おめでとう!一ヵ月、よく頑張った!!」
俺以上に、母が喜んでくれている。
「大事に、残しときなよ!使い切っちゃダメだよ!」
 俺には、外食に誘えるような友人は居ない。……それに耐えられる、胃でもない。
 母に「欲しい物」を訊く勇気も無い。それに、母に何かを買ったら、父にも、何かを要求されそうで……嫌だ。

 夕食前に帰ってきた父は「アルバイトの給料くらいで、大袈裟だ!」と母を窘めてから、俺に「新しい靴でも買えよ」と言った。
 確かに、俺のスニーカーはボロボロだ。動物園通いで、すっかり履き潰している。
 俺は何も言わなかったが、父にしては良い考えだと思った。

 その夜、俺はまた課長の夢を見た。場所は あの農場の事務所で、母の前でしたように、彼の前で給料明細を開封した。
 喫煙所ではないのに、何故か彼は煙草を吸っていて、俺の給料を見て「やったね!」と笑っていた。
 俺は、誇らしかった。


 翌朝、最高に幸せな気持ちで朝食を食べてから、喜び勇んで出勤した。
 だが、その日は また同僚の言動にキレて『別室送り』になり、更には玄さんが休みだった。
 独りで背中を丸めて弁当を食べていると、また大賀に絡まれた。
「何度言えば、解るの!?『机を、蹴らない』『椅子を、蹴らない』……小学生じゃないんだから!やめなさい!!」
馬鹿でかい声で、机を叩きながら力説する。俺は、黙って彼女の口元だけを見ていた。
「完全に『独り』でないと作業できないなら、作業所なんか辞めなさい!!家で、内職でもしなさい!……毎日毎日、貴方一人のために、あの部屋を使うわけにはいかないの!!」
何故、こいつらは頑なに【聴き取り】をしないのだろう?

 今、受けているのは「ゲイ差別」ではない。しかし『福祉作業所』なのに、然るべき配慮がなされないのは、やはり【不当】だ。弁が立つ健聴者だけが「仲間」として認められ、そうではない人は「目の敵」というのは……【福祉】ではない。
 賃金が受け取れるからといって、ここに通い続ける理由は……無い気がする。

 大賀の説教が終わったら、俺は そのまま席を立って、弁当箱の中身を全て棄てた。
 いつも通り散歩に出かけた勢いで、動物園まで足を伸ばし、そのまま職場には戻らずに園内を歩き回り続けた。
 人生で初めて【職務放棄】をした。

 あえて16時頃に戻ってやると、社長を除く5人の職員全てから、こっぴどく叱られた。
 社長だけは「見つかって良かった」と、冷静に無事を喜んでくれた。
 俺の、眼の動きや血色を気にしているのか、社長は、しばらく俺の顔から目を離さなかった。
「自分が、どこに居たか……憶えてる?」
耳元で訊かれ、俺は「わかりません」と、シラを切った。
「時計は、持って出なかったの?」
「今日は……今日は、忘れました」
普段なら、スマホを持って散歩に出る。
「そうか、そうか……」
社長は、特に叱りはせず、冷静に複数回頷いた。
「怪我は無い?」
「と、特に……」
「良かった」
 社長は、至極冷静に「いつもの習慣で散歩に出て……『今日は出勤日だ!』という記憶が、飛んでしまったんじゃないかなぁ……?」と、職員達に言った。
 職員達は、ざわついた。
「君達のミスだよ」
社長は、腕を組んで、呆れたように言った。
 そのまま、社長を含めたミーティングが始まり、俺は「気をつけて帰ってね」と言われただけだった。


 家に帰ってから、その日の出来事と、職員達からの理不尽な叱責を思い出し……悔しくて、涙が出た。
 誰からも「何故、作業を放棄したのか?」という、当たり前の質問が無かった。俺には【意思】というものが、無いと思われているのか?
 差別を受ける前の、あの現場が……恋しくて堪らない。自分が、彼の「教え子」だった頃に、戻れるものなら……戻りたい。
 他の連中はクズだったが、それでも「意思表示をする権利」くらいは在った。ミスに対して叱責を受けたとしても、経緯について話す機会はあった。(むしろ、いつも質問責めに遭っていた。)

 またテレビの前でソファーに座って泣いていたら、母に見つかった。「また泣いてる……」と言われた気がした。
 隣に座ってくれた母が「どうした?」と訊いた。俺が思う【普通】の対応だった。
「ほとんど、誰も……俺のこと『人間』だと思ってない」
「何よ、それ!」
「俺……たぶん『言葉が解らない動物』だと思われてる」
「そんなことは、無いでしょ……。あんたは【大卒】で、一般の会社に居たんだよ?」
「今はもう……『全部忘れた』と思われてる。……『新しいことは、何も憶えられない』と思われてる。……猿みたいに思われてる……」
「まさか……。誰かに、そんな酷いこと言われた?」
「毎日毎日『辞めろ』って言われる……」
「利用者の人?」
「職員……」
「え!?……嫌がらせ?」
「そいつ、すごく……『えこひいき』する」
「うわぁ、完全に駄目な奴ね……」

「どうする?……母さんが、会社にクレーム入れてやろうか?」
「え……」
「だって『福祉サービス』の会社でしょ?あんたは『利用料』払ってるでしょ?……それなのに嫌がらせなんて、おかしいわ!」
俺は、この母の子で良かった。
「どうする?……クレーム入れて改善を頼むか、いっそ……他の作業所、探す?」
(他……?)
「泣くほど、辛いなら……辞めればいいんだよ!」
(辞める……?そうか、辞めればいいのか……)
しかし、父は激怒するだろう。
「父さんが何言ったってねぇ……通うのは、あんただから。あんたが辛いなら、無理しなくていいの……」
病院のベッドの上で退職届を書いた時のことを、思い出した。
「俺…………辞める」

 その勢いのままコンビニに行き、封筒と便箋を買った。帰って夕食を食べたら、ネットで様式を調べながら【退職願】を書いた。


 翌日は、心を無にして一日を終わらせた。玄さんが言うことでさえ、耳に入らなかった。休憩中は「全ての私物を持ち帰る」ことで頭が一杯だった。
 タイムカードを切った後、普段なら素通りする事務所の、最深部に居る社長に「お疲れ様です」と声をかける。
「お疲れ様。……どうした?」
社長は、パソコンに向かいながらも、穏やかに応じてくれる。
 俺は、黙って【退職願】を差し出した。社長は驚いたのか、一瞬固まったが、黙ってそれを受け取ってから、手近な付箋に走り書きをして、俺に見える位置に置いた。
【今日、この後、時間ある?】
「はい」
【面談をしよう】
「わかりました」

 いつも自分が閉じ込められている『別室』に戻り、社長を待った。
 15分近く経ってから、社長が来た。その時間を指定したのは、社長自身だ。
「ごめんね。お待たせ……横並びのほうが良いかな」
社長は、当たり前のように俺の隣に座り、筆談用の紙とペンを机に置いた。記録用のノートもあった。
 紙に、社長がボールペンで書きつける。
【何故「やめたい」と思った?】
俺には、シャーペンが渡された。
 何を書こうか……しばらく迷った。
【大賀さんに「やめてしまえ」と言われ続けて、嫌になりました】
社長は「それは、不適切な対応だな……」と口話で言いながら、ボールペンを回した。
【何か、大きなミスや、トラブルがあった日?】
【自分には「心当たり」がありません】
【私も、カメラ越しに君たちを見ていて「問題がある」とは思わないよ】
社長は、あのパソコンで自由に作業中の従業員達の姿を見られるが、音声の無い防犯カメラ越しの映像では、馬鹿騒ぎや歌声、暴言は判らない。彼が見ているのは「体罰」や「異物混入」「器物損壊」の有無である。
【大賀さんは、僕達を「バカだ」と決めつけて、動物の群れみたいに、適当に管理してます。耳が悪い人を「仲間はずれ」にして、体調の悪い人を、笑いものにします】
社長は、腕を組んで黙り込んだ。
 俺は、この紙を本人に見られても良いと思っていた。こちらの「辞める」という意志は固まっている。
 社長は、随分迷ってから、驚くべき質問を書いた。
【彼女が居なくなれば、君は「この仕事を続けたい」と思う?】
あの女が「問題視」されていることは、事実であるようだ。
 しかし……あの女が消えても、浅野達は残るし、俺の腹が治るとは思えない。
【申し訳ありません。自分には「就労」そのものが難しい気がします】
【体調が安定しない?】
【はい】
【「在籍したまま休む」という選択肢があるよ】

 俺は、何も書かずに立ち上がり「ごめんなさい」「辞めさせてください」と口に出して、深々と頭を下げた。
 社長は、紙に淡々と【退職の手続きを進めるよ】とだけ書いた。
 俺は、改めて頭を下げた。
「お世話になりました」


 結局、俺は【退職願】を提出してから、書いた「日付」を過ぎるまで、一度も出勤しなかった。
 サイを見て、昼飯を食って帰ってきたら……スマホで動画ばかり観て、晩飯の間じゅう父に怒鳴られる……以前の生活に戻った。
 風呂場で泣くのは……ずっと、変わらない。


次のエピソード
【12.リセット】
https://note.com/mokkei4486/n/n448f6eebfdf4

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