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小説 「六等星の煌き」 1

1.荒野の天文台

 私の毎日は、概ね同じことの繰り返しである。日が昇り、朝飯を食ったら畑に出て、まずは獣除けの柵や仕掛けに故障が無いか確認する。あれば直し、無ければ、畑の雑草取りと水撒きをする。必要があれば、摘花や虫取りもする。
 植わっている蔬菜そさいは、売り物ではない。自分一人が食えれば良いのだ。
 畑仕事が終われば、昼飯を たらふく食って午睡をする。起きたら、机に向かって昨夜の記録を清書する。

 私の住処は、どの集落からも遠く離れた荒野の中にある。畑の土は、亡き父が耕し、遥か遠方より持ち込んだ肥料と、光や空気から得た栄養を土の中に蓄える力のある豆を使い、何年もかけて肥やした。(獣が棲む森からも遠く離れているので、畑の柵が壊されたことは一度もない。)
 この場所は、星がよく見える。
 亡き父が建てた この家には、天文台が併設されている。むしろ、天文台に小さな住居が併設されている。私は毎夜、そこで天体の観測をする。夜間に走り書きで残した記録を、翌日の明るい時間帯に清書しながら【天体図】と比較するのが日課だ。
 私の亡き父は、名の知れた天文学者であった。この国で、ガウス・ワイルダーの名を知らぬ者など、赤ん坊くらいのものだろう。父が遺した【天体図】は、世界中の人々を隕石の脅威から守っているのだ。その正確な【天体図】に載っていない星が夜空に現れた時……それは、この地に富と災厄をもたらす「隕石の接近」を意味する。
 観測所勤めの天文学者なら、発見した隕石が地上に落下するか否か、するならば何処なのか、正確に予測し、民衆に向けて発表しなければならない。衝突による犠牲者は、最小限にしなければならない。

 私は、どれだけ神に祈ろうとも実子を授からなかった父が、己の学問と この小さな天文台を継がせるべく迎えた養子である。
 私は、実の親を知らない。物心ついた時には、貧しい孤児院で他の孤児達に混じって犬の仔のような暮らしをしていた。自分が、どういう経緯であそこにたどり着いたのかさえ知らない。私に「ラギ」という名を与えたのは、孤児院の長である。
 私が8歳の時だったと思う。ある日 突然、見るからに裕福そうな初老の夫婦が孤児院を訪ねてきて、長に「この中で、いちばん賢い子を引き取りたい」と言った。そこで選ばれたのが私だった。
 当時の私は、街で大人達を相手に賭け事を繰り返し、小遣いを稼いでいた。こちらも何かを賭けなければ勝負にならないため、持ち金が尽きたら、市場で盗んだ金品を賭けていた。時には、賭博場でイカサマをした。何度 叱っても、罰を与えても、私がそれをやめないことに頭を悩ませていた長は、厄介者の私を「いちばん賢い子」として夫婦に差し出した。私に騙された、あるいは商品を盗まれたとして孤児院に怒鳴り込んでくる大人達に頭を下げて金を返すことに、疲れていたのだろう。
 後に養父となる老人は、私にリトス(2人で互いの駒を獲り合うボードゲーム)の勝負をもちかけた。皆が見守る中、長い対局の末に、私が勝った。敗れた老人は「君が賢いのは間違いない」と満足げに笑い、私を養子に迎えると決めた。(正式に引き取りに来たのは後日だ。)
 当時の私は、その老人が偉大な天文学者であることを知らなかった。

 ある日を境に偉大な天文学者の息子となった私は、毎日たらふく食べて、気が済むまで遊び回り、好きなだけ勉学に励んだ。賭け事や盗みは、全く必要性を感じなくなったので、あっさりとやめることが出来た。
 生まれながらの富裕層の子と同じ学校に通わせてもらいながら、明るいうちは変わり者の友人達と野山を駆け回り、日が沈んでからは、父と共に夜空の天体を観測した。先祖から受け継ぎ、父が完成させた【天体図】について、私は様々なことを教わった。乾いた海綿が水を吸うように、私は父から教わった知識を、貪欲に吸収し続けた。
 父は、住まいとは別に自作の天文台を所有していた。私の通学先が長い休暇に入ると、2人でそこに滞在し、明るい街からは見えない星々の観測を続けた。畑仕事は、その時に教わった。
 父も、若い頃は今の私と同じように、独りで何年も天文台に篭り、観測を続けていたという。【天体図】を完成させたのは、その時期だと聴いている。

 天文以外の学問を知らないまま大きくなった私は、至極 当たり前のように、父と同じ『国家お抱えの天文学者』を志した。国立の観測所で天体を観測し続け、隕石落下がもたらす大災害から人々を守るのが、国家お抱えの天文学者達の使命であった。
 父は25歳で合格したという採用試験に、私は17歳で合格した。(私は、父が存命のうちに合格しておきたかったのだが、残念ながら それは叶わなかった。父は、私が14歳の時、疫病に罹って この世を去った。)
 採用試験は難関であるが、一度それに合格さえすれば、60歳までは安定した月収と確固たる社会的地位が約束される職業であった。

 しかしながら、私は24歳で国家お抱えの地位を棄てた。
 公的な観測所や研究所で日々行われていることは、実に醜い『金と権力の奪い合い』であり、もはや学者としての本分は見失われ、民衆の生命は軽視されていた。本来であれば人命を守るために行われる落下地点の予測は、暇を持て余した老齢の学者達にとっては賭け事に等しく、実際に、違法な金銭の授受が行われていた。
 しかし、老齢の学者達が暇を持て余している一方で、多くの若手は生命を削るように、寝る間を惜しんで働いていた。
 私は、かの有名なガウス・ワイルダーの息子ではあるが、実子ではない。先祖代々の学者の家系に生まれた者達からすれば、私は『馬の骨』か『野良犬の仔』であった。若年で採用試験に合格したこともあり、初めこそ注目され、珍重されたが、次第に差別の対象となっていった。(父が存命なら、そうは ならなかったのかもしれない。)
 私は、巨大な組織で数百年に渡って続いてきたのであろう その醜い泥仕合の中で、心身の健康を損なっていった。深夜こそ忙しい生活で時間の感覚を失い、薬無しでは眠ることが出来なくなった。また、何を食っても腹を下すか吐き戻すようになり、身体はみるみるうちに痩せていった。覚醒と睡眠の境が曖昧となり、起きながらにして悪夢を見るような日々が続いた。次第に、生と死の境さえ曖昧となっていくように思われた。
 しかし、観測所の敷地内で頭や腹を押さえて蹲る私を、気遣う者など居なかった。難解な学問の世界においては、若手が身体を壊すなど日常茶飯事であり、大きな組織の中で、再起不能に至るまで無視と酷使をされ続けた若者達の末路といえば、全てを諦めて職を棄てるか、生命を絶つか、自身ではなく他者を「壊す側」に転ぶか、その いずれかであった。
 私は、分別のあるうちに職を棄てることを選んだ。私は、室長の奴隷として死にたくはなかったし、だからといって、他者を死に追いやってまで、金と権力に しがみつきたくもなかった。
 私が、父以外の天文学者を知らなかったからこそ思い描いた「理想の学者像」は、あっけなく崩れ去った。私は、父のようには成れなかった。

 私が職を棄てたことについて、母は何も言わなかった。まずは身体を治してから、別の観測所や研究機関に勤めればいいと考えていたようだ。
 しかし、私は もはや『組織』というものに つくづく嫌気がさし、職業としての天体観測に戻るつもりは無かった。ただ、それでも、私は天文学の他には、蔬菜の作り方くらいしか知らない。他の暮らしぶりを知らない。
 他に行き場は無かった。


 私が、父の遺した この天文台に独りで篭り始めて、3年になる。父が存命の頃から私が職を棄てるまでは守衛を数人雇っていたが、私自身がここで暮らし始めたのを機に、全員を解任した。彼らにも、街で帰りを待つ家族が居るのだ。いつまでも、こんな所に縛りつけておくのは忍びない。
 今や、こんな所を訪ねてくるのは、私が取り寄せた筆記具や記録用紙、年老いた母が送ってくれる薬や食糧を運んでくる『運び屋』くらいのものである。
 我が家にやってくる『運び屋』は、いつも同じ男だ。隕石から造る燃料で走る自動車を使わず、未だに輓獣ばんじゅうに車を牽かせているような頑固ジジイである。
 彼が訪ねてくる時間帯は まちまちだが、必ず、陽のあるうちに来る。輓獣は夜目が利かないからだ。

 玄関の扉を叩く音がする。
「先生!お届け物ですぜ!」
彼が声を張り上げる。
 私は、記録の清書を中断して、扉を開いて出迎える。
「私は、もう『先生』ではありませんよ……」
「俺らからすれば、ここで星を見る人は、みーんな『先生』でさぁ!」
彼はそう言って豪快に笑う。毎回、このやりとりをしている気がする。
 荷物を受け取り、代金を支払って書類にサインをしたら、車を牽いてきた輓獣に水を与えるために、家の裏にある井戸へ向かう。
 私は、ここで輓獣に水を飲ませて休ませてやる代わりに、その糞を譲り受ける。枯れた作物と混ぜ合わせて発酵させ、畑の肥料にするのだ。また、輓獣の糞は、天日で しっかりと乾かせば、良い燃料にもなる。薪を手に入れることが難しい場所に住む私としては、輓獣の糞は実にありがたい代物である。
 隕石から造る燃料は、金で買ってきて火に 焚べるだけなので非常に便利だが、些か値が張る。収入源の無い私は、なかなか手が出せない。火が尽きれば死に至る冬場にのみ、貯蓄を切り崩して購入する。(母や、過去に解任した守衛の一人が、少量とはいえ無償で送ってくれることもある。)
 私が井戸のポンプを動かし、輓獣用の桶に水を張っている間に、『運び屋』の彼が大切な輓獣を車から解き放ち、綱で曳いて連れてくる。彼が「娘」と呼んで可愛がっている、この雌の輓獣は、私よりも15近く歳上である。(これまでに6頭の仔を産んだらしい。)
 輓獣は、この地上で最も大きな家畜であり、人と同程度の寿命がある。餌として大量の草と水の他に ごく少量の塩を要するが、粗食に耐え、水のみで活動できる日数が長い。暑さや寒さにも強い。長旅で痩せ細ってしまっても、新鮮な草に加えて糖蜜や穀類をしばらく与え続ければ、すぐに回復する。
 気性は非常に穏やかで、滅多に人を噛んだり踏みつけたりはしない。(ただし、胎に仔が居る雌と、仔に乳を与える時期の雌だけは別である。)多くは従順であり、主人のため嬉々として重荷を牽く。
 成獣には人の幼児と変わらない知能があるとされ、主人や家族の容姿や声を覚える。よく調教された輓獣は、己に与えられた名を覚え、言葉のみによる指示を概ね理解して従うため、鞭や手綱は あくまでも補助的な道具である。また、彼らは「左右」や「数」の概念を理解するという。
 雌雄とも、成獣は頭に太い角が2本あり、それは生涯伸び続ける。ごく若い輓獣の角には薬効があり、その時期に切り落として売ってしまうのが主流とされるが、老齢の輓獣の立派な角は、工芸品の材料としての価値が高い。角による事故は後を絶たないが、大きな角に育てあげてから切る文化も、根強く残っている。(一度切り落とした角は、再生しない。)

 角を育てている『運び屋』の輓獣は、桶に口をつけて、吸い込むように水を飲む。角に当たらないように気をつけながら、ポンプを動かし続けていないと、すぐ空になってしまう。
 ひとしきり水を飲んで満足したら、輓獣は顔を上げて口周りを舐め回しながら、大きな鼻息をつく。それを合図に、私は手を止める。主人の『運び屋』が、よく働いた「娘」に 褒美の氷砂糖を何粒か与えてから、私が作った簡素な屋根の下に連れて行き、長い曳き綱で柱に繋ぐ。
 輓獣は、主人が屋根の下を離れてから、ゆっくりと静かに脚を曲げ、土に腹を着ける。その巨体で、万が一踏みつけにされたら、人の骨など いとも簡単に砕ける。

 輓獣に水を与えたら、主人のほうにも、茶を出してやらなければならない。
 私は、彼をいつも通り居間に招き入れ、朝に淹れた茶を出した。すっかり冷めているが、長旅で疲れている彼は冷たい茶を好むので問題ない。
 彼は、1杯目を飲み干した後、輓獣に与えていたのと同じ氷砂糖を、自分も口に入れて舐めている。
「先生は、お菓子なんか食べるんですかい?」
「高くて、なかなか手が出せませんね。……甘味といえば、母が送ってくれるものを大事に食べるか、甘い芋を作って干しておくくらいです」
「……先生、畑をやってる割には、肌が白いよねぇ」
輓獣が牽く車で荒野を走り回る『運び屋』の彼は、毎日畑に出ている私よりも、遥かに黒く日に焼けている。
「けど、病気っぽい白さじゃねえからな。大丈夫だよ。……うちの息子が死んだ時は、もっともっと、蒼白かったよ……」
 彼が、奇しくも私の父にあやかって「ガウス」と名付けた息子は、数十年前に26歳の若さで病死したと聴いている。
「隕石なんて、ろくなもんじゃねえよ……」
彼の息子は、15歳から隕石回収業に従事し、長年【王の気】に晒され続けて、悲惨な最期を遂げた。

 この地上に暮らす人々の多くは、空の彼方に【そらの王】という、絶対的な存在が君臨していると信じている。【宙の王】が、その有り余る富を、気まぐれに地上の民衆へ向けて ばら撒くのが隕石であり、それが地上にまで届くことを、人々は大いに喜ぶ。巨大な石が降ってくるのだから、地上に当たる瞬間の衝撃は凄まじく、数千年に渡る人の歴史の中では、隕石によって一夜にして国が滅んだこともあるのだが、それでも、隕石がもたらす資源は、地上で暮らす民にとって、欠かせないものなのである。落下直後の隕石が放つ【王の気】は、地上の生き物には猛毒であるが、それが抜けきった後の隕石は、極めて有用な鉱物資源となる。地中から掘り起こした鉱物と同じように、錬成して金属として使用することも可能であるし、薪の数千倍、地中から掘り出す石炭の数百倍とも言われる、高いエネルギー効率を誇る燃料を精製することが出来るのだ。この地上では、その燃料の産出量が、国力を左右する。
 隕石由来の燃料も、燃やせば いくらかの【王の気】を放つとされているが、一般市民による通常の使い方なら、人の致死量には まず至らない。しかし、それでも燃料の精製に従事する者の一部は、回収業に従事する者と同じように、【王の気】による病で命を落としていく。
 閾値を超える【王の気】に晒され続けた生き物は、体内で血液を作ることが出来なくなる。発病すれば、体は数日のうちに蒼白くなって、やがて立ち上がることが出来なくなり、どれだけ滋養のある物を摂取しても回復することはなく、最期には視力と声を失い、なけなしの血を吐きながら、もがき苦しんで死ぬのだという。輸血による延命は不可能ではないが、生命が尽きるまでの間、大量の輸血を受け続けられるほどの財力の持ち主は稀である。政治的な理由で為政者や軍の高官を生き長らえさせることは稀にあるが、いずれにせよ、血液を作ることが出来ない身体は、そう長くは保たない。
 古の言葉で「王の怒り」を意味する「レタ・ルスク」と呼ばれる その病には、今のところ、有効な治療薬は存在しない。迫りくる凄まじい苦しみを恐れ、体の色が変化し、立ち上がることが出来なくなった時点で、別の方法で生命を絶つことを選ぶ患者も、少なくないという。
 しかし、その病によって死ぬことを『名誉』と捉える文化は確かに在る。レタ・ルスクの発病は、生命を賭して国家の発展に貢献した証であるため、その犠牲者を『英雄』と讃え、遺族に莫大な報奨金を出す国もある。

 彼の息子は、妻の妊娠を機に回収業を引退したが、間もなく発病し、我が子の顔を見ることなく、苦しみ抜いて死んでいったのだという。遺された妻には国からの報奨金が支給されたが、生まれてきた子は病弱で、生後5年足らずで亡くなったという。
 私は、そのような話を聴くたびに「人は隕石に近付くべきではない」と感じる。あれは、人智を超えた大自然の猛威である。資源として利用しようなどというのは、甚だ おこがましい。私自身も、冬季のみは隕石由来の燃料の恩恵を受けているが……それでも、私の認識としては、隕石は「依存しない」に越したことはない代物である。
 研究所の年寄り達が、その地位と隕石落下地点の予測に固執するのは、正しい予測の発表者が英雄視されると同時に、自分達の身を【王の気】に晒すことなく、莫大な富だけを手に入れられるからに他ならない。
 彼らにとって、もはや隕石は畏怖すべき天災ではなく『空から降ってくる金の塊』に等しい。

 荷物と共に持ってきた新聞を読みながら、冷めた茶を飲んでいる『運び屋』は、今日も息子の話ばかりしている。
「あいつも、先生みたいに賢けりゃあ、あんな死に方をせずに済んだんだ。賢けりゃあ、学者か商人にでもなって、長く生きられたに違いねえよ。俺みたいな大馬鹿の子に生まれちまったばっかりに……輓獣飼いか、運び屋か、回収屋くらいしか、選べる仕事が無かったんだ……」
輓獣飼いも、荷物の『運び屋』も、事故や積荷を狙う盗賊の手によって命を落とす確率が高い、危険な職業である。
 しかし、学者とて、長く生きられる保証など無い。むしろ、私の経験上、医学と天文学は、生真面目な学者達の生命を縮める。
「学者が、学者のまま長く生きるのは、難しいですよ……」
「そうなんですかい?」
「ほとんどの人が、若いうちに身体を壊して辞めていきます。私も、死ぬかと思うほどに腹を壊して、辞めました」
「そうですかい……。そちらも、厳しい世界なんですなぁ……」
「私も、隕石は『ろくでもない』と思います。……私は、隕石を巧く利用するよりも、それに殺されないために、智慧を絞りたいですね」
「お若いのに、ご立派ですなぁ」
「とんでもない。ただの金喰い虫ですよ、私は」
他に話し相手の居ない私は、彼が訪ねてくると、思わず腹を割って話してしまう。
「……もう、お腹は治りましたか?」
「はい。おかげさまで」
「そりゃあ、良かった。身体は大事にしてくださいな」

 日が傾いてくる。
「おっと……。そろそろ帰らねえと。暗くなっちまいます」
彼は、新聞を畳んで、椅子から立ち上がる。
「いつも、ありがとうございます」
「とんでもない!こちらこそ、休ませてもらって、助かってますよ!」
 私達は、柱に繋いだ輓獣のもとへ向かう。主人の声を聴き、帰ると理解した輓獣は大きな体で さっと立ち上がる。辺りに土埃が舞う。
「よーし、よし。良い子だ……」
輓獣は、大きな顔を主人に擦り寄せ、何度も大きな鼻息をつく。(頭の角が主人に当たらないよう、気をつけているのが分かる。)顔や顎を撫でてもらうと、嬉しそうに短い尻尾を振る。
 主人が、改めて「帰るぞ」と声をかけると、やはり鼻息で応える。主人が柱に縛った曳き綱を解いたのを見届けたら、ぱたぱたと耳を鳴らしながら大きな頭を振った後、3つずつ蹄のついた大きな足で地面を踏みしめて、主人と共に車のほうへ歩いていった。
 彼らが帰った後、簡素な屋根の下には、私の体重の倍は あろうかという程の糞が残されていた。『運び屋』の彼は、私が暮らしのために糞を欲していることを知っているので、いつも輓獣に たらふく干し草を喰わせてから訪ねてきてくれる。

 糞を回収して堆肥置き場に運んだら、私は風呂に入ることにした。屋内の風呂場にも、井戸が掘ってある。ポンプを動かして浴槽に水を溜めたら、屋外のかまどに火を焚いて、湯を沸かす。湯の温度を一定に保つのは難しいのだが、熱ければポンプで水を足せば良いだけである。入浴の途中で「湯が冷めた」といって、濡れた体で、外まで火を見に行くのは億劫だ。今日のように力仕事をした日は特に、火を些か強めに焚いたまま、熱い湯に水を足し続けるくらいが丁度いい。腕や脚をほぐしながら、長く浸かりたい。
 全身を洗った後、湯に浸かり、次第に暗くなっていく窓の外を眺めながら、私は暦について考える。今夜は新月のはずだから、星を見るには良い日だ。月明かりのある日には隠れてしまう暗い星が、よく見える。
 風呂から上がり、昼飯の残りを温め直して夕飯にする。食い終わったら、住居を出て、棟続きの天文台に移る。石造りの螺旋階段を上がり、何よりも大切な望遠鏡のある部屋に入ったら、壁に備え付けられた滑車の持ち手を回して、開閉式の天井を開く。
 この天文台の望遠鏡は、生前の父が「老いて体が弱っても長時間の観測が続けられるように」と考え、接眼レンズのついた管が複数の『関節』を持った可動式のものになっており、自由に角度が変えられる。観測者が、座っていても、寝転がっていても、接眼レンズを通じて、対空レンズに写るものが見られる構造になっている。(万が一、これが壊れてしまったら、私は直し方を知らない。過去に解任した守衛に頼み込んで呼び寄せるしかない。)私は、もっぱら座った状態でレンズを覗き、観測と併行して、机に置いた用紙に天体の位置を記録する。

 その夜、私は、在るはずのない星を見つけた気がした。それが、私個人の間違いか、単なる『新星』ならば、何ら問題は無いのだが、迫りくる隕石であるとしたら、警戒しなければならない。明日以降も同じ星が見えて、それが日ごとに大きくなるようなら、いよいよ軌道を読んで、大きさを算出し、落下地点を予測しなければならない。
 どこにも属していない私が そんな事をしても、誰からも報酬は出ない。
 しかし、私は他の生き方を知らない。

 偉大な父に選ばれた私が守るべきものは、この小さな天文台だけではない。何よりも、地上の民の生命を守るために、私は ここに居るのだ。

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【2.凶兆】
https://note.com/mokkei4486/n/n5d2f3ab9dd66

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