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小説 「僕と先生の話」 38

38.「変わらない」

 松尾くん宅の大掃除を終え、僕は松尾くんと外食することにしたけれど、多忙な岩下さんは「印刷所に行かなければならない」と言い、駅の近くで解散になった。
 先生が一緒だと入りづらい中華料理屋を選び、僕は「転職祝い」と称して彼にご馳走することにした。決して高級中華ではなく、お手頃な価格帯の店ではあるけれど……。(確固たる信念を持って「豚肉は食べない」と決めている先生は、ビアハウスや中華料理屋には近寄らない。)
 4人用のテーブルに、2人で斜めに向かい合って座る。注文した料理が来るまでの間、僕は、メニューを眺めながら「豚肉を使わない品目」で、先生宅で作れそうなものを探す。
 松尾くんが、おもむろに口を開く。
「あの、哲朗さんって……凄い人ですね」
「凄い人ですよ。編集者としては かなりの『やり手』だし、頭が良いし……いつもクールで、ちょっとロボットみたいなところがあるけど、根は すごく優しい人で……懐が深くて。実は、意外に涙もろかったりもします」
「……俺、哲朗さんには『馬鹿だ』と思われてる気がします」
「何故ですか?」
「だって……訳わかんないこと、訊いたじゃないすか」
「そうですか?哲朗さんも『貴方を信じる』って言ったじゃないですか」
「いや、だって……『二重人格』なんて、そんな……漫画みたいな話……」
「事実として起こりうる現象だからこそ、漫画にも描かれるんですよ」
「なんで、そんな冷静なんすか?坂元さんも、哲朗さんも……」
「僕達は『こころの病気』について、すごく勉強しましたから」
「え、先生も『こころの病気』なんすか?」
僕としては、未だに そこに気付いていない彼が「鈍感だ」としか思わない。
「松尾さんが言った『二重人格』も、精神疾患……『こころの病気』の一種ですよ。正式な名前は【解離性同一性障害】といいます。『二重』より、もっとたくさんの人格が存在する人も居ます」
「『多重人格』ってやつですか?」
僕は、黙って頷いた。正式な名称ではないけれど、世間的な通称としては、そうであるからだ。
「先生が、本当にその病気であるかどうか、僕には判りません。聴かされていません。……しかし、先生は、過去にとても辛いことがあって、そのことが『心の傷』になって、何年もずっと苦しんでいることは、僕も知ってます」
心療内科にかかり始めて日が浅い彼の、理解が追いつくかどうかは、わからない。
「何にせよ……哲朗さんと同じになってしまいますが、先生がどんな病気でも、僕の仕事は変わりません」
彼は、何も言わない。
 注文していた料理がやってきて、僕が、彼の分も割り箸を割る。彼は小声で「ありがとうございます」と言って、それを受け取る。
「……坂元さんは、先生のこと『怖い』とか思わないんですか?」
「思う時はありますよ、そりゃあ。でも……本来の先生が、どれだけお優しいか、僕はもう知っているので。怖くなるのは……一時的なことです」
僕は、待ちかねた豚肉のチャーシューと餃子に齧り付く。(先生の家で それらを作る時は、鶏肉で代用する。久しぶりの豚肉は、やはり美味い。)
 先生に殴られた回数は、彼のほうが圧倒的に多い。だからこそ、僕は彼を安心させたくて、先生の「優しさ」にスポットを当てる。彼だって、先生に通院等を手助けしてもらっているのだから、身に染みて分かっているはずだ。
「僕は、何年も心療内科に通っていますが、先生の家で働き始めてから、すごく元気になりました。必要な薬が、とても減りました」
「坂元さんも……?」
「僕は、学生の頃に、ひどい虐めを受けて……会社に入ってからも、頭がおかしくなるほど忙しくて…………先生の家に来る前は、物の数を正しく数えることも出来ないくらい、脳が弱ってました。仕事中はいつもフラフラで、自分の家を掃除する元気も無くて、ゴミ屋敷みたいな家に住んでました」
彼は、黙ったまま、眉間に軽く皺を寄せ、箸を止めて、真剣に聴いてくれている。
 僕は、平然とラーメンを食べ続ける。
「僕が作ったものを、先生が『美味しい』と言って食べ続けてくれたことが、僕の自信になりました。それに、僕も毎日しっかり食べて、しっかり寝て、人として当たり前の生活が出来るようになって……今は、すごく元気になりました。先生の家だけではなくて、自分の家も綺麗に掃除して、絵を飾って、趣味に没頭できるだけの余裕ができました」
僕が平然と食べ進めている様子を見て、彼も食べるのを再開した。
「僕も、お優しい先生が大好きです。とても尊敬しています」
自分の発言を一部引用されて動揺したのか、彼は箸を咥えたまま赤面し、その後、咽せたのか、咳き込んだ。とはいえ、すぐに治まったので、僕は特に声を かけなかった。
「……ただ、僕は先生と『一緒に暮らそう』とまで思ったことはありません。僕は、お金を貰って、仕事として家事をしているだけです。
 先生が幸せになれるなら、他に誰が住むことになっても、僕は嬉しいです」
彼は、はぐらかすように、ふぅふぅと息をつきながら水を飲んだ後、ガツガツと定食を食べている。
「何にせよ、松尾さんは、今は先生の病気のことより、ご自分の身体とか、新しいお仕事のことに、時間を使ってください。……先生のことは、僕と哲朗さんに任せてください」
「……は、はい」
彼は、思いのほか素直な性格なのかもしれない。


 後日、岩下さんが家族に「出張」と偽って泊まり込み、先生と話し合った夜があった。僕は翌日になってから、和室で何やら考え込んでいる様子だった彼に、前夜のことを訊いた。(その日、僕を迎え入れた先生に、特に変わった様子は無かった。)
 彼は、一度廊下の様子を伺ってから、和室の戸を閉めて、中から鍵をかけた。彼がこの部屋の鍵をかけるのを、僕は初めて見た。
 先生には秘密の話が始まる。
 いつものように、僕らは畳の上に正座する。僕は拳を膝に置き、彼は腕を組む。
「先生は……やはり松尾さんへの暴力について、断片的にしか憶えていないようです。彼が逃げてしまった日のことだけは、比較的よく憶えていらっしゃいますが……それ以前のことは、まったく把握されていないようです」
憶測に過ぎないけれど、僕は「憶えていない」と「把握していない」という言い回しの違いが、先生の『交代人格』の存在を示している気がした。
 親身になって松尾くんの通院に協力し、その彼に危害を加えてしまったことを泣いて悔やんでいた先生と、アトリエで僕に椅子を投げたり、玄関先で「あの社屋に火を点ける」と宣言したりしたのが『別々の人格』で、攻撃性の高い後者が、松尾くんに対し複数回 暴力を振るっていた……と考えるのが、むしろ自然である気がした。椅子を投げる直前、先生が別人のような声で僕に「誰だ」と訊いたのは「僕のことを知らない『交代人格』が表出していたから」で、説明がつく。そして、その『交代人格』は「火を点ける」と宣言する頃には、僕のことを覚えていて、自分との関係性を理解していた……とすれば、やはり辻褄が合う。そして、あの日『交代人格』が「火を点ける」と騒いだ後、頭を抱えて「駄目だ、駄目だ」と繰り返し、僕に「危害を加えていないか」と問うたのは、僕らが普段 接している、本来の優しい先生……ではないだろうか。
 我ながら、違和感のない仮説に思えた。それを、この場で口に出すつもりは無いけれど……。

 僕が先生の『交代人格』について思慮を巡らせている間、岩下さんは昨夜の先生の様子に続いて「3階の廊下の壁や床に、以前には無かった傷を発見した」と話した。
「えっ……。全然、気付きませんでした」
「仕方のないことです。坂元さんの主たる仕事場は2階でしょうから……。私も、3階には滅多に上がりません」
彼でさえ滅多に上がらない3階で、僕はいつも読書をしている……とは、言えなかった。
 彼は、いつものように自身の顎ひげに触れる。思慮を巡らせる時の癖なのだろう。
「ただ……現在の状況としては、彼に危害を加えてしまったことについて、先生が謝罪をされた後ですし、先生は、明確な理由をもって、ご自分から彼に同居を提案したことを、きちんと把握されているので……再び『DV』に近しいことが起きる危険性は、低いと思われます。彼が事故に遭ったことについても、少なからず責任を感じていらっしゃるので……今後、更なる怪我をさせるようなことは、考えにくいです」
毎度のことながら、冷静かつ詳細な分析である。
「松尾さんとしても……過去の出来事に対する謝罪を求めているのではなく、今後『同居』を実現するにあたっての事実確認と再発防止をお望みでしょうから……今の段階で、私達に出来ることは、特に何も……」
「そうですか。……わかりました」
僕の返事を聴いたら、彼は部屋の鍵を開けた。秘密の話は終わりだ。

「あの、まったく違う話になるんですが……」
「はい」
彼は、今度は胡座をかいて座る。
「僕、あの話の続きを書いてきたんですよ」
「あのファンタジー小説ですか?」
「はい!」
「随分と精力的ですね……」
「先生が『第一部』をすごく気に入ってくださったようで……こんな絵を頂きました」
僕は、自分のスマートフォンを取り出して、先生が描いてくれたファンアートの写真を彼に見せた。
 彼は、小さく「おぉ!」と言い、拡大をしてもいいかと訊いた。僕はもちろん快諾し、絵の細部や先生のサインを拡大して見せた。
「すごく『乗り気』で描かれてますね。良い絵です。……羨ましいです」
僕は、年甲斐もなく「えへへへ」と笑うのを、我慢しきれなかった。
「それで、また、先生にお渡しする前に、続編を岩下さんに読んでいただけたらな、と思うんですが……。もちろん、後日でもいいです」
「……前回と同じくらいの文章量なら、今でも構いませんよ」
「いいんですか!?持ってきます!」
 僕は、2階に置いた自分の鞄から、クリップで挟んだだけの紙の束を取り出し、和室に戻った。先生は、ずっと3階に居るようだ。

 岩下さんは、やはり一度最後まで高速で読んで流れを把握してから、2回目で内容を読み込んだ。明らかな誤字や表記揺れは、その時点で印をつける。
「相変わらず、安定した文章力ですね……小さな変換ミスはありますが『文法的におかしい』というところが、まず ありません。
 天文学者のお話なので、やはり学術的な用語が多いですが……きちんと注釈や解説があって、高学年なら、小学生でもストーリーが解るような、やさしい構成です。それでいて、成人が読んでも楽しめる……深みのある、素敵なお話です。心に残ります」
「あ、ありがとうございます!」
彼は、赤ペンを手に、淡々と誤字や表記揺れをチェックする。
 いくら「専門家」とはいえ、やはり彼の この文章を読み解く速さは【特別な才能】の域ではないかと思う。
「やっぱり……読むの、すごく速いですね」
「私は、日本語の読み書きくらいしか、取り柄がありませんから……」
「人の身体のことに、凄くお詳しいじゃないですか。整体も巧いし……」
「いえいえ、とんでもない」
彼は、会話をしながらでも、長文を正確に読んで誤字を見つけ出すことができる。
「馬鹿の一つ覚えとでもいいますか……私は『読書』と『治療』で、青春が終わりましたから。他に能がないのです」
かける言葉が見つからなかった。
「しかし……だからこそ今の会社に入って、妻と知り合って結婚しました。私は幸せ者です」
眼はずっと文章に向いているけれど、彼は いかにも満足そうだった。
「奥さん、同じ会社の人なんですか?」
「私が新人だった頃に、指導してくれた先輩です。長男が生まれる時に、退職しましたが……」
それだって「素敵なお話」だ。
 僕は、自社の同僚には虐げられてばかりで、社内恋愛なんて考えたことも無かった。

 彼は、チェックが終わった紙の束を、再びクリップで留めて返してくれた。
「吉岡先生への『手紙』にしては、随分と長いものですが……私は、貴方のそのアイデアは、本当に素晴らしいと思います」
先生をモデルにした主人公に、他の登場人物達がかける言葉の多くが、実際の先生へのメッセージである……という、僕の意図は、彼には知られてしまっている。
 もちろん、何も知らない人が読んでも、純粋に「物語として面白い」ものになるよう、努めてはいる。
「生き残った住民達が、主人公を【英雄】と讃え、心から慕っているのが……私には、とても喜ばしい要素です。実際の先生も、少なからず、ファンや ご友人を救ってこられましたから。……先生ご本人は、ご自身の功績を、すぐに忘れてしまわれるのですが……」
「忘れてしまうんですか?」
彼は、黙って頷いてから、言葉を継いだ。
「ご自身が成し遂げた素晴らしい功績や、ファンからの声援よりも……理解のないコミュニティーで受けた、理不尽かつ差別的な冷遇に関する記憶のほうが、よほど根強く残っていて、先生の自尊心は……深く傷ついたまま、戻らないのです」
残念ながら、ヒトの脳というのは、そのように出来ているのである。(もちろん、個人差はあるけれど。)動物が自然界で生き残るためには、成功体験によるポジティブな記憶よりも、生死に関わる危険な物事に関する「ネガティブな記憶」こそ、最期まで忘れずに残しておかなければ、迫りくる新たな危険を回避できないからだ。……しかし、その機能こそが、時に心的外傷というものを残し、社会生活を困難にする要因となる。
「岩下さんは、そこを『過去形』にしたいんでしょう?」
「そうです。私は、本職の治療者ではありませんが……一人のファンとして、先生の健康や、自尊心の回復を願っています」
そろそろ、彼の眼が赤くなってくる。だんだん解ってきた。彼は、自身の過去よりも、先生の過去について話す時、大いに心が動く。
 デビュー前から、僕が着任するまでの約10年間、主として先生を支えてきたのは、彼である。
「善治さんからの依頼でもあるんですよね?」
「そうです」
「僕の願いも、同じです」
彼は、何も言わないけれど、今にも泣きそうな眼をして、視線を落とし、肩を震わせている。
「先生が、どのような疾患であっても、誰と暮らし始めても……僕のする事は、変わりません。これまで通り、この家で家事をして……こんな、拙い話を書きます」
僕は、手の中の原稿を、改めて示した。
 彼は、一筋だけ涙を流し、それでも静かに笑って「同志が居て、良かった」と、言ってくれた。
 僕は、笑顔で応えた。

 その後、彼は僕が書いた物語の感想を、改めて語ってくれた。その話が終わる頃には、いつもの冷静沈着な彼に戻っていた。


 僕が先生に救われたという事実に変わりはないから、僕の願いも、変わらない。


次のエピソード
【39.老師の理念】
https://note.com/mokkei4486/n/n214fd1a2eac4

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