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小説 「僕と先生の話」 11

11.先生の声

 先生から許可は得ていたので、僕は手の空いた時間に3階の資料室で読書をする日もあった。
 隣接している先生のアトリエからは、時折先生の話し声がしていた。
 本棚と壁を挟んだ向こうからなので、内容までは聞き取れなかったけれど、誰かと電話で話していたり、キャラクター同士の会話について、熱心に考えたりしているのだと思っていた。
 別の日には、先生が資料室内を歩き回りながら書籍を音読している姿を見かけたこともある。ご自身の作品を、どこかで「読み聞かせ」をするための練習や、自己啓発の本を声に出して読むことで、自分を鼓舞しているように見受けられた。
 僕は、読書中に先生の声が聞こえてきても、大して気に留めていなかった。

 ところが、ある日、僕が読書をやめて2階に降りようと廊下に出た瞬間に、先生の怒鳴り声をはっきりと聴いてしまった。
「貴様らがやったことは、殺人未遂罪だ!!」
 どきっとした。絵本に書くような話ではない。
 誰かと、電話で口論をしているのか……?
 先生の知人に、殺人未遂罪に手を染めるような人間がいるのだろうか。
「私は、絶対に赦さない!!」
 アトリエのドアを開けるわけにもいかず、僕は、そのまま夕食を用意することにした。

 先生ご本人に尋ねてはいけない気がしたし、夕食時には、普段どおりの先生に戻っていたから、僕は黙っていた。
 聞かなかったことにするのが、最良だろう。


 しかし、日が経つにつれて、僕は疑問や違和感について、自分独りでは抑えきれなくなった。

 あれ以来、先生は連日、同じような話を、何度も何度も、繰り返し叫んでいるのだ。
 話し相手が居るわけではなく、やり場のない憤りや憎しみを、壺の中にでも叫ぶかのように、独りで室内で叫んでいるのではないだろうか……?
 しかも、先生の大きな低い声は、よく響く。資料室なら内容までは届かないけれど、廊下に居ると、ほとんど丸聞こえなのだ。
 しかし、問題視すべきはそこではない。
 叫んでいる内容が、もし「事実」なら、先生は、極めて卑劣な人権侵害行為の被害者であり、その加害者達は逮捕どころか何らの処分も受けず、今も平然と同じ場所で勤務を続け、一部は昇進までしている。目撃者たちは、事件当時からずっと「見て見ぬふり」を続けている。おそらく物的証拠が存在しないためだと推測されるが、被害者である先生自身による訴えは、親族にも警察にも医師にも認められず、今日に至るまで、然るべき謝罪や賠償はなく、先生は、ずっと後遺症に苦しんできたことになる。
 業務の一環として特定の従業員を敷地内の一室に軟禁し、意に反する苦役を強要し続けた上に、上司による執拗な監視と、言動およびルーツと人格の全否定、更には性的な辱めを、数ヵ月に渡って続ける……だなんて、漫画の中の拷問か、戦時中に存在した強制収容所だ。もし事実なら「いじめ」や「ハラスメント」では済まない犯罪であるし、そんな目に遭った人は、確かに正気ではいられないだろう。
 しかし、そんな悍ましい事が、現代の【先進国】で、起こりうるのか……?
 それに、あの善治が、実姉の身に起きた悲惨な出来事を「認めない」ということは、信じがたい。
 しかし、多忙を極めている彼に、わざわざ連絡を取って確認するのは、躊躇ためらわれた。

 僕は、ある日の昼食時に「先生、最近……本を読む声が、大きくなってきましたね」とだけ、言ってみた。先生は「え、2階にまで聞こえているかい!?」と、びっくりしてから「すまないねぇ……気を付けるよ」と、誤魔化すように笑っていた。
 小説か、先生ではない別人の手記を、尋常ではないほど感情移入しながら音読しているだけであってほしかった。


 後日、岩下さんが訪ねてきた時、先生が独りで叫んでいることについて、思いきって相談してみた。(先生との打合わせを終えて帰ろうとしている彼を呼び止めて、一度は片付けた応接室にまた戻ってもらった。お互いに、着席はしなかった。)
 彼は、至って涼しい顔をして「あの先生には、よくあることです」と答えた。
「よくあることって……」
「先生ご自身から、ご病気に関するお話はありましたか?」
何かを読み上げているわけではないらしいことが、判ってしまった。
「僕は、何も聴いていません」
「ご存知ないのですか……分かりました。
 しかし、先生のプライバシーに関わることですから、私の口から詳細をお伝えすることは出来ません」
彼は、本当に「まとも」だ。
 しかし、僕の今後の生活にも関わることだから、要点だけは、訊いておきたかった。
「……岩下さんは、先生が仰る『事件』について、ご存知なんですか?」
「どのような事が起きたのか、一連の流れは存じています」
「その『事件』というのは……報道されたんですか?」
「されていません」
冷静沈着な答えが続く。
「先生ご自身と、弟さんの証言をお聴きしたことはあります。……加害者側の言い分も、耳にしたことはあります。
 しかし、詳細については、お答えしかねます」
怒りも何も感じさせない、淡々とした物言いだった。
「ただ……『先生個人の被害妄想ではない』とだけは、申し上げておきます」
 僕は、彼の認識を信じる。

 僕が過去に誹謗中傷を受けた時と同じように、本来であれば【犯罪】として扱われるべき『事件』が起きたことは間違いないのに、被害届を提出することすら叶わなかったか、当時 先生が在籍していた組織(企業等)が、頑なに事実を認めない……といったところだろうか。
 ただ、僕が考えなければならないのは「犯人逮捕」とか「訴訟」のことではない。今の先生の【生活の質】と、創作活動の継続が、何よりも優先すべき事項であるはずだ。
「事件のことが心的外傷トラウマとなって、今もフラッシュバックに苦しんでおられる……という解釈で、よろしいでしょうか?」
 彼は、僕の問いかけに、少し驚いたような様子を見せたが、高僧のような、大人びた微笑みを返してくれた。
「概ね、正解です」
もう話すことは無い、とばかりに、彼は椅子の上に置いていた鞄を手に取った。
「さすが、製薬会社にお勤めだっただけのことはありますね」
にこやかに褒めてくれた。

「それでは、他の作家さんとのお約束があるので……」と言いながら、ドアノブに手をかけた彼に、僕は「あの!」と声をかけた。
「僕は、今後……先生と、どう向き合えば良いのでしょうか?」
「何も、変える必要は無いと思います」
彼は、まるで「2+3は、いくつですか?」という質問に「5です」と答えるように、あっさりと即答した。
 そして「そんなことも忘れたのかい?」とでも言いたげに、眉を上げた。
「これだけ長い期間、自宅に出入りさせて、掃除を任せて、共に食事をしてきたんでしょう?だったら、先生が坂元さんを信頼しているのは、間違いありません。
 今まで通り、ハウスキーパーとしてのお仕事を続けていかれたら、良いと思います」
彼は、ドアノブから手を離し、きちんと僕のほうを向いて答えた。
「坂元さんは、訪問看護師ではないのですから、特別なことは何もしなくていいと、私は思います」
訪問看護師ではない……これ以上ないくらい、的確な説明だと思った。
「先生が、独りで何か話している最中は、こちらからは、声をかけないほうが良いですか?」
「……食事ができたとか、車のキーを借りたいとか、具体的な用事があるなら、普段通り、声をかければ良いと思います。
 ただ、お独り言の内容にまで言及すべきではありません」
聞き流せ、掘り下げるな、ということか。
「先生が、ご自分の意思で、辛い記憶について話されるのなら、傾聴すべきですが……いずれにせよ、内容や事実関係について、深く追及すべきではありません」
「同じ苦しみを、わざわざ思い返してまで何度も繰り返し味わうのは、先生の健康上、良くはありません」
「重要なのは【今】の先生が描くものと、今後の締切です」
 ごもっとも。

「先生は、事件が起きた20代の頃に比べれば、状態はとても安定しています」
そんなに長い間、先生は苦しんできたのか……。
「今となっては考えにくいですが……もし、先生が暴れて怪我をされたとか、会話が成り立たない状態に陥るといったことがあれば、いつでも私に連絡をください」
「わかりました」
そんな日が来ないことを祈る。

 多忙な彼は、今度こそ出て行った。

 僕が面接を受けに来た日、先生が、まるで心療内科医であるかのように、何の躊躇ためらいもなく通院歴や薬について尋ねてきた理由が、解った気がした。


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【12. 畏敬】
https://note.com/mokkei4486/n/n99d0656d4c50

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