小説 「僕と先生の話」 12
12.畏敬
僕は、先生には「体調が悪い」と言って、5日間も休みをもらってしまった。
自分が受診をしなければならないタイミングが来ていたし、今後の先生との接し方や自身の働き方について、落ち着いて考える時間が欲しかった。
念のため、岩下さんと善治にも連絡を入れておいた。
岩下さんには「特別なことは何もしなくていい」と言われたけれど、僕は久方ぶりにPTSD(心的外傷後ストレス障害)というものについて、調べずにはいられなかった。先生の診断名がどうとかではなく、単純に、その疾患の存在を思い出したからに過ぎない。
製薬会社で勤務していた頃、僕はMRとして病院や薬局を訪ねて廻り、自社製の精神疾患や発達障害の治療薬について、医療従事者との情報交換を続けていた。
僕が働いていた会社の製品では、PTSDを治すことはできない。……というより、この疾患に特効薬は存在しない。フラッシュバックを一時的に抑える薬というものは存在するけれど、症状を完全に無くすことは到底できないと思うし、ヒトの記憶に関する研究そのものが、そうそう簡単には進まない。
いかなる疾患であっても個人差というものは存在するし、当事者でなければ解らない感覚というものはある。うつ病の経験がない人に、どれだけ症状や世界観について話しても、なかなか理解は得られない。
今の僕にはフラッシュバックという現象は起きない。その現象の存在を、知識として知っているに過ぎない。
それでも、僕は医療や疾患に関する復習さえしないまま、再びあの先生の家に立ち入るのだけは嫌だった。
あの先生の家には医学書があり、心理学の専門書がある。先生が、これまで何と闘い、何を学んできたか、あの資料室の蔵書が示している。
先生が絵本に描く知識や信念は【本物】であり、永く後世に伝え続ける価値があると、僕は信じている。
僕は、あの先生を尊敬している。偉大な作家のもとで働けることを、誇りに思う。
5日ぶりに出勤した時、先生は以前と何も変わらない様子で「おはよう」と言って迎えてくれた。(僕が何時に出勤しても、先生は必ず「おはよう」と言う。)
「体調はどうだい?」
「おかげさまで、落ち着きました」
なんて会話をして、昼には当たり前のように一緒に食事をした。
特に何も、異変は起きていないように見受けられた。
僕は、1階の掃除を済ませると、久しぶりに多量の食材を買いに行きたくて、先生の車のキーを借りに行った。
「先生、僕そろそろ買い出しに……」
アトリエのドアが開いていたので、ノックはしないで、机に向かっていた先生に声をかけた。
「誰だ」
返ってきたのは、まるで別人のような、男性であるかのような太い声だった。
まずいタイミングだったのかもしれない。
「お忙しいところ、すみません!」
「……どこから入った?」
どうも、様子がおかしい。先生の顔つきが、普段とは明らかに違う。つい数時間前に会った時、こんな状態ではなかった。
今の先生は、まるで、洋画に出てくる兵士か、マフィアだ。臨戦体勢の男性にしか見えない。
先生は、手に持っていた色鉛筆を、音も無くトレーに戻した。
「……私のアイデアを盗みに来たのか?」
先生は、殺気立った顔をして立ち上がると同時に、自分が座っていた椅子を掴み、その脚を僕に向けた。
僕は、まるで【不審者】だ。
「先生?」
先生は、何も言わない。
僕が少しでも近寄ったら、その椅子で撃退するつもりなのだろう。僕を睨む目つきや、腕や脚への力の込め方が、【本気】なのだ。しきりに眼球が動き、僕の一挙手一投足を、見逃すまいとしている。左の踵を浮かせ、いつでも突進できる体勢が出来ている。(先生は、自宅の中では、いつだって裸足である。)
確か、先生は剣道の有段者だ。競技特有の動きが、顕になっている。
手荒なことはしたくはないけれど、大怪我をするのも嫌である。(応戦できるような技なんて、持ち合わせてはいないけれど。)
柔道家の真似事みたいな構えを取りながら、僕も、しばらく先生から目を離すことが出来なかった。
岩下さんが言っていた「ご病気」とか「先生が暴れて怪我を……」という話の意味を、やっと理解できた気がする。
先生は、過去の出来事による心的外傷があるだけではなく、記憶に関する障害があるか、幻覚が見える疾患に違いない。
事件当時の記憶が蘇って、僕を加害者と混同しているか……僕に関する記憶を失って、見知らぬ侵入者だと認識しているのだろう。
車のキーの話ができる状態ではない。
ゆっくりと後退りしながら、僕は退路について考えた。ドアノブが掴める位置にまで下がった瞬間に、作戦を決行した。
「……僕、帰ります」
それだけ言い残し、僕はアトリエのドアを力任せに閉めてから、目の前の階段を、ほとんど踏まずに駆け降りて、食卓近くの床にあった自分の鞄だけ引っ掴んだら、逃げるように帰宅した。
先生は、追ってはこなかったけれど、閉まったドアに、大きな硬い何かがぶち当たる音がした。
台所で何がどうなっているかなんて、確認する時間は無かった。タイムカードだって、そのままだ。
あのまま、あの家に居たら、僕は不審者として通報されていたか、椅子で殴られていただろう。(通報だけは、既にされているかもしれない。)
帰宅後、岩下さんに電話をかけ、今日の出来事について報告した。
彼は、初めこそ驚いた様子だったけれど、冷静に、淡々と指示をくれた。
「私から先生に連絡を取ってみます」
「坂元さんは、しばらくお休みしてください」
「状況が分かり次第、こちらから連絡をします。それまで、先生との接触は控えてください」
僕は「はい」と「わかりました」以外の言葉は返さなかった。
先生の持病なんて、何だっていい。
僕はただ、先生との穏やかな日々が戻ってくることだけを祈っていた。
次のエピソード
【13. 休職】
https://note.com/mokkei4486/n/n7f270b417cc1
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