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小説 「僕と先生の話」 40

40.新しい家族

 先生と松尾くんの同居が始まってから、約一ヵ月。特に大きな問題は無く、平穏な日々が続いていた。
 松尾くんは、新しい仕事をひたすらに頑張っている。
 基本的には僕が出勤する前に出かけ、僕が退勤してから帰ってくる彼には、なかなか会えない。たまの休日に会うと、いつも眠そうにしている。(彼の仕事は不定休である。)

 今日は、彼が休みの日だ。

 出勤直後、なんとなく和室まで様子を見に行くと、彼は戸を開け放ったまま、座布団を枕に畳の上で大の字になっていた。(この和室には床暖房が付いている。)
「おはようございます……」
彼は眠っているらしく、僕の声に気付かない。
 起こす理由は無いから、そっとしておくことにした。
 タイムカードを押してから、先生に日頃の彼の様子を訊いてみたけれど、やはり「新しい仕事が大変そう」「慢性的に疲れているようだ」という答えだった。

 昼食の時、彼は「ずっと畳の上に寝ていたから、体が痛い」とか「頭がフラフラする」と言って、あまり元気が無かった。
 先生が「散歩にでも行っておいでよ」と助言し、彼は素直に従った。
 ボディーバッグを持って、一人で出かけていった。


 僕は、彼が出かけた後に車で買い物に出かけ、複数の店舗を廻って、食品だけではなく保存容器や日用品を買い込んでいた。
 そろそろ帰ろうか……と思った頃、電話が鳴った。松尾くんからだった。
 彼は、数ヵ月ぶりにまた「外出先で動けなくなってしまった」らしく、助けを求める電話だった。
 居場所を聴き出し、すぐに車で救出に向かったけれど、駐車場探しに苦労した。

 どうにか見つけた駐車場に車を停め、電話で聴いた場所に向かって走る。とある駅の近くで、植込みを囲う低い塀に背中を着けて、地べたに座り込んでいる彼を見つけた。
 駅周辺は結構な人通りがあるけれど、ホームレスが座り込んでいても見向きもしない人が大半であるように、誰も、彼のことを気に留めない。僕だけが、駆け寄っていく。
「お待たせしました!」
「すいません……本当に……」
彼の眼振を、久しぶりに見た。激しい目眩がしている証である。
「ごめんなさい。駐車場が、少し遠くて……歩けますか?」
「今は……キツイっす……」
「薬、持ってますか?」
「もう、使い切りました……」
「吐き気してますか?」
「す、少し……」
「僕、水を買ってきます」
 すぐ近くにあるコンビニで水を2本買って戻り、1本のキャップを開けて彼に渡した。
 彼は、それを ちびちびと少しずつ飲みながら、ふうふうと荒い息をしている。
「いや……『基本的に再発はしない』って聴いてたんで……ショックっすね……」
「……頑張りすぎたんですかねぇ?」
「頑張ってるうちに入らねっすよ、今なんか……」
そんなことはない。
「先生には、連絡しましたか?」
「いや……まだ……」
「じゃあ、僕から……」
彼が見ている横で、先生にLINEで連絡した。すぐに既読が付き「わかった。ありがとう。よろしく頼む」と返信が来た。

 目眩が落ち着くまで休んでから、彼は自分の力で立ち上がった。ゆっくりではあったけれど、今回は僕の肩を借りずに、どうにか駐車場まで歩くことが出来た。
 車の後部座席は荷物で埋まっているので、彼には助手席に乗ってもらった。
「いつもいつも、すいません……助けてもらってばっかで……」
「これが僕の仕事ですから。気にしないでください」
 彼は、僕に一言詫びてからシートを後ろに倒し、楽な体勢をとった。
「気分悪くなったら、すぐに言ってくださいね」
「はい……」
 僕は、車を発進させた。彼は、しばらく無言だったけれど、やがて口を開いた。
「俺の頭……もう、ぶっ壊れてるんすかね?」
「本当に ぶっ壊れたら、生きていられませんよ」
「それはまぁ、そうなんすけど……」
彼が自覚症状を根拠にそう言っているのは解るけれど、先生や岩下さんと日常的に接する人には、あまり使ってほしくない言葉である。
「それだけ負担が大きいなら、出勤日数を減らすとか、時短勤務をするとか……相談してみたほうがいいんじゃないですか?」
「試用のうちから そんな話したら、クビでしょ……!」
「あの工場長なら、そんなことはしないと思いますよ」
彼は応えなかった。黙って窓の外を眺めている。
 しばらく音楽に聴き入っているようだった彼が、再び話し始めた。
「俺、もう……工場長が眩しすぎて、自分が鼻くそにしか見えないんすよ……」
「いやいや、『鼻くそ』って……」
(僕の「ポンコツ」より、酷いじゃないか)
「俺は、もう、ゴミクズです……。ガラクタです……」
「そんなことはありません。工場長は、松尾さんのこと褒めてましたよ。『すごく器用で、覚えが早い』って……」
彼は、黙り込んだ。
 しばらくして、信号待ちで止まることになり、彼が おもむろに口を開いた。
「俺は、ろくでもない親父の息子だから……ろくでもない人間なんすよ……」
似ても似つかないと思っていた2人の、共通点を見つけた。先生は、ご自分の母親には「人間の心が無い」と言い、その血を引く ご自身を「まともな人間じゃない」とまで言ったことがある。
「うちの親父は、もう、どうしようもねえクズ野郎なんすよ。坂元さんみたいなエリートに、話すのが恥ずかしいくらいの……」
「僕は『エリート』ではありませんよ……!」
しかし、彼は僕の返答なんてお構いなしに、自分がしたい話をする。
「ここ、切ったのも、親父との喧嘩だし……」
彼は、自分の右眼の上にある傷痕に、親指で触れた。
 信号が変わり、僕は車を発進させる。
「恥ずかしい話、親父は、薬物の取引で何度も捕まって……俺のことだって『金を送らせるための駒』としか思ってないんすよ」
「薬物……?」
「要は『運び屋』っすよ。4〜5回捕まって……2回、刑務所に入って。だからもう、まともな仕事に就けなくて……うちは、ものすごい貧乏で……」
思いがけない打ち明け話に、僕は返す言葉が見つからなかった。
「俺には、姉貴が1人と、妹が2人居るんすけど……みんな、10代のうちに結婚して家を出て、それっきりで…………俺だけが、おふくろに金送ってたんすけど……ほとんど、親父に使い込まれちまうんで……もう、送るのやめました」
僕としては、その両親が離婚をしないことが不思議でならなかった。
「あそこで部長になり損ねた時点で、俺なんかもう『ゴミ』みたいなもんなんすよ。あの2人からしたら……」
母親との関係性も、良くはなさそうだ。
「だから、手が片方 無くなったなんて言ったら……もう、今度こそ人間扱いされなくなると思います」
(どうして、そこまで不寛容なんだ……!?)
「俺はもう、他の姉妹きょうだいと同じように……親との関係を、このまま絶っちまおうと思って……」
「距離を置くのは、正解だと思います」
他に言えることは無かった。

 僕の両親は、もう死んでしまったけれど、生前の彼らは【善良】そのものだった。僕の「漫画家になりたい」なんて荒唐無稽な夢を本気で応援してくれたし、父に先立たれた母は、僕がうつ病になって会社を辞めた時、少しも僕を責めなかった。既に肺癌による死が迫っていた母は、僕が故郷に帰ってきたことを喜び、最期まで「ありがとう」と言い続けてくれた。
 僕の、消え入りそうな自己肯定感を繋ぎ止めてくれたのは、母である。

 彼は「くだらない話して、すいません」と詫びたけれど、僕は少しも「くだらない」とは思わなかった。
「僕で良かったら、どうぞ遠慮なく、こき使ってください。運転でも掃除でも、何でもします」
 彼が運転免許を持っていないことも、僕は知っていた。「金が無くて取れなかった」と、本人から聴いたことがある。(仕送りの額が大きすぎたのかもしれない。)
「すいません……本当に、いつもいつも……」
「謝るようなことでは、ありませんよ。
 何年もずっと頑張ってきたんですから……今くらいは、誰かに甘えてください」
彼は、何も言わなかった。

 そのまま帰り着いてしまうのは忍びないような気がして、僕はあえて全く違う話を振った。
「そういえば……次の工場長って、決まってるんですかね?」
「決まってますよ。『先代の孫』だとかいう……女の人っすね」
「あ、女の人なんですね」
僕が数回 見かけたことがある彼の、姉か妹が後継者のようだ。
「あの会社で、大卒は、今の工場長の他には、その人だけなんで……」
工場長が懲りずに何度でも僕を勧誘した理由が、少し分かった気がする。


 その日の夕食後、こたつに脚を入れたまま、座布団を枕にウトウトし始めた彼を前に、先生は「明日は休ませてやりたいなぁ」と言った。
「また、目眩が続くようになったら、大変ですもんね……」
「そうだよ。【生活の質】に関わる」
食器を洗い終わって戻ってきた僕は、こたつに入るのを諦めた。(中で、彼が占めている面積が大きすぎる。)いつもの座布団に座り、気休め程度にこたつ布団の端を脚にかける。
 彼は、健やかに寝息を立てている。先生を恐れる気持ちが薄れてきたのか、尋常ではないほど眠かったのか……。
 先生は、彼の寝顔を眺めている。にやにや笑いながら「可愛いなぁ」と呟いた気がする。愛玩動物か、幼い子どもが寝ているところを眺めているみたいだ。
「松尾くん、寝てばかりですね……」
「今日は、特に具合が悪いみたいだね。
 毎日、フラフラになって帰ってくるよ。本人は、まだまだ障害の受容そのものが出来ていないようだから、元気だった頃の感覚で、頑張ってしまうのだろうね……。特に、彼は『社長の後継者候補』としての教育を受けてきたから、会社の経営状況とか、今の自分の【貢献度】ばかりが気になって、以前のような働き方が出来なくなったことを……恥ずかしいとさえ、思っているようだ」
長い間、ずっと【実力主義】の中で勝ち抜いてきた彼にとって、今の「障害者雇用枠」での就労は……受け容れ難いものかもしれない。
「断じて、恥ずべきことではないと……教えてやりたいんだ。私達は」
(先生と、工場長のことだろうか?……他にも居ると良いな)

 僕は、ふと思い出して、自分が病気で無職になった時の、母の状況や反応について、ごく端的に話した。
「善いお母様じゃないか。……君は、お母様に似たんだね」
「そうでしょうか……」
「そんな気がするよ」
そんなことを言われたのは初めてだ。
「親子とは、本来そうあるべきではないかな。我が子の職業や収入なんかより、まずは【生存】を望むのが……人の親としての、当たり前の感情ではないかな。……残念ながら、私達にとっては『絵空事』みたいなものだけれども。
 それを貫くことが出来る ご家庭は……本当に素晴らしいと思うよ」

 そうこうしているうちに、退勤の時間になった。
「僕、そろそろ帰ります」
「お疲れ様。……ほらほら、ご挨拶なさい」
高齢者が孫に声をかけるかのように、先生が彼の肩を叩いて起こそうとした。
「いや、起こしちゃ悪いですよ」
「もう、起きていると思うよ。……なぁ?悠介」
彼はゆっくりと起き出し、僕に「お疲れ様でした」と頭を下げてくれた。話の途中で、目を覚ましていたのかもしれない。
 僕は彼に「明日も来ます」と告げてから、先生と2人で玄関に向かった。

 1階の廊下で、先生が言った。
「弟が1人増えたみたいで、私は毎日 楽しいんだ。本人に言ったら、嫌がりそうだけれども……」
(本人は、満更でもない気がします……)
確か、彼は先生より10歳下のはずである。
「毎朝、彼を起こして、送り出すのが、大切な日課なんだ。……もちろん、君を迎え入れるのも、重要な日課だ」
「日課、たくさんありますね」
「そうだとも。私は多忙なのだよ」
先生が多忙かつ元気なら、僕は安心だ。


 彼が、先生の新しい【家族】として共に暮らし始めたことを、僕は喜ばしく思う。
 先生は、彼の両親とは違う。自他ともに【生命】を何よりも尊ぶ、信心深き賢人である。僕の母に負けないくらい、慈悲深く、寛大な人である。

次のエピソード
【41.後悔】
https://note.com/mokkei4486/n/nb68431104b28

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