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小説 「長い旅路」 10

10.忘れ得ぬ 声

 俺は布団の中で、とても幸せな夢を見ていた。課長と2人であの鶏舎の中を歩きながら、何千羽と並んでいる鶏達に「おはよう」「おはよう」「元気?」と、何度も挨拶をしながら奥に進み、卵を回収していく。俺が押す台車に、課長が卵を載せていく。たった、それだけだ。
 それだけのことが、今の俺には最上級の「幸せな夢」だった。
 目を開けてから、自分が「泣いている」と気付くまでに、しばしの時を要した。
 

 あの農場で、鶏に挨拶などするのは、おそらく彼だけだった。俺は、それに深い感銘を受け、倣うことにした。
 毎朝の その習慣は、鶏が【生き物】であり、生命と心を有していることを、きちんと認めている証だと感じた。また、穏やかに挨拶が出来るだけの「時間的な余裕」と、会話が苦にならない「綺麗な空気」を維持することは、非常に重要だと感じた。
 彼自身は、挨拶を習慣化すれば「毎朝ちゃんと鶏の身体を見るようになるから、健康状態の良し悪しが判るようになる」「病気が出始めた時すぐに気付けるように、日頃から観察するのは大事」と、いかにも指導役らしい理由を述べていた。
 俺は、鶏達に挨拶をする彼の声が、とても好きだった。それを聴いていられるだけで、劣悪な環境下でも幸せだった。彼が既婚者であることは、かなり早いうちに明かされたが、それでも…………俺は、どうしようもなく、彼が好きだった。
 幸運なことに、入りたての頃は彼が直属の上司で、一日の半分は付きっきりで仕事を教えてくれた。(当時、彼は課長ではなく係長だった。)
 作業の手順だけではなく、空気の流れに関する知識や温度管理のコツ、卵の状態を良くするための飼料の調製と管理、採卵率の算出の仕方、死骸の状態から「死因」を推察するための知識、設備が壊れた時の直し方……高校や大学では教わらない細かいところまで、現場だからこそ活きる知識や技を、手取り足取り教えてくれた。
 他の先輩や上司に怒鳴られたり、殴られたりした後に、どうしても その「理由」や「根拠」に納得がいかない場合、俺は よく現場で彼に相談した。そこで「相手が間違っている」という意見が一致して自信を得たり、次回からの留意すべき点について教えてもらえたりして、俺は幾度となく彼に助けられた。
 勤務先で、そこまでしてくれた人は……後にも先にも、彼だけだ。
 俺にとって、彼は最高に頼もしい『ヒーロー』であり、ずっと追いかけ続けていたい存在だった。

 俺の心の中には、今も模範的な【教え方】の基準として、彼が居る。
 今の作業所の職員達が「カス」に思えるほど……彼は、今も俺の中では輝いている。

 ベッドの上に座ったまま もの想いに耽っていると、母が部屋に入ってきた。
「おはよう!……遅刻するよ!」
俺を起こしに来たらしい。
 しかし、俺が泣いていることに気付くなり、態度が変わった。
「どうした?……体調悪い?」
「夢……夢を見た」
「怖い夢?」
「違う……」
口に出してしまったら、シャボン玉か何かのように、幸せな気持ちが 弾けて消えてしまいそうな気がした。
 俺は、黙って布団から抜け出し、洗面所へ向かう。
 大切な気持ちは、胸に しまっておく。


 足は重いが、どうにか遅刻せずに出勤できた。
 ありがたいことに、今の俺にも、挨拶を交わす仲間が居る。朝一は ほとんど全員が「おはようございます」と言い合う文化が出来ているし、昼には玄さんに会える。
 相変わらず、俺を怖がって近寄らない人も居るが、それでも、俺は今「迫害を受けずに、働いている」……喜ばしかった。

 この日も、浅野と仲間達は ふざけ合っていた。馬鹿でかい声で、ラジオに合わせて歌いながら、延々と『規格外』の椎茸を選り分けていた。
 大きな声が苦手な人達は、それだけでパニック発作が起きることもある。この日も、一人の女性が胸を押さえて苦しみだした。彼女は聴覚が敏感なようだが「指示が聞こえないと不安」「仲間と話せなくなったら不安」として、耳栓は使わない。
 俺個人の感覚としては、勤務中に、同僚が体調を崩すほどの大声で歌うべきではない。
 俺は、彼らを黙らせたかった。

 しかし、ここでは「利用者が、他の利用者を叱ること」は禁止されている。過去には、職員でもないのに「指導役」を気取って威張り散らす奴が居てトラブルが絶えず、近年になって利用者間での叱責が【禁止事項】として明文化されたのだという。
 だが、職務として「叱責」をしなければならないはずの職員達は、それを ほとんどしない。
 この部屋で行われる作業は、確かに「教えてあげれば、小学生でも出来る」だろう。話しながらでも、歌いながらでも、出来るだろう。しかし、扱うものが消費者の口に入る【食品】である限り、許されないミスというのはある。異物混入や容器の破損を、見落とすわけにはいかない。そして、ここが「株式会社」である限り、顧客からの信用を維持し、利益を出し続けなければならない。
 商品を粗末に扱ったり、同僚を苦しめたりすることが『常態化』している奴は、叱らなければならない……と、俺個人としては思う。
 しかし、職員達には「説教をする時間」が無い。利用者の作業時間内に終わらなかった分は、15:30以降に、彼らが片付けなければならない。「利用者には、機嫌良くノンストップで作業を進めてもらいたい」というのが、おそらく『本音』だ。
 彼らは、作業中の私語や歌に、いちいち構わない。障害特性上、叱ったら激昂する人や、独り言が止められない人も居るからである。
 だが、明らかな「悪ふざけ」は、やめさせるべきだ。

 作業そのものに関してだけではなく、幼稚な「からかい」の類とか、時間に関するルールを守らないこと、利用者間でのストーキングや窃盗、SNSによるトラブルなど、加害者を特定して叱責・処分しなければならない場面においても、職員達は、ほとんど具体的な対処に踏み切らない。
 ほとんどの場合、被害者が退職して「終わり」だ。そして、いかなる人材であっても「退職後は、一切面倒を見ない」というのが、社長の方針だ。
 俺としては、ハラスメントを苦に退職し、その後ひきこもってしまったような人にこそ【支援】が必要だと思うのだが……ここは、それをしない。(だからこそ「在籍したまま自宅に閉じ篭もってしまう」人が、複数居るのだろう。)

 何かが「おかしい」ように思えてならず……しかし、それを誰にも言えないまま、日数だけが経っていった。
 俺は、相変わらず勤務先では ほとんど発話が出来なかった。【福祉作業所】なら「話せない人」への配慮(筆談やメールの活用)が当たり前のように行われているかと思いきや、そうではなかった。
 この部屋の中に関して言えば、黙りこくったままでも、脈絡の無い独り言を延々と繰り返しながらでも、歌いながらでも、きちんと商品をパック詰めしてラベルが貼れるなら『OK』なのだ。職員は、利用者との「会話」とか「意思疎通」など、初めから重視していない。ここで飛び交う言葉の九割以上は【妄言】扱いであり、また「見れば解る」ような単純作業すら出来ない奴は……「要らない」のだろう。

 俺は、作業所の体制そのものに、違和感と苛立ちを覚え、それに起因してか、作業中であっても癇癪かんしゃくらしき現象が起きるようになった。はっきりとした「理由」が分からないまま、突然涙が出てきて止まらなかったり、何かに取り憑かれたように物品を蹴り続けたり、息が苦しくなって、鶏の幻を見たり……我ながら「病的だ」と思うことが、たびたび起きた。そのたびに男性職員が すっ飛んできて、俺は『別室送り』となった。
 玄さんのアドバイスに従って、毎日昼休みには散歩に出かけているが……一向に気が晴れない。体調は好転しない。


 いつしか、俺は「やりたくない事から逃げるために、暴れている」と見なされるようになった。
 昼休み、玄さんと並んで食事をしていると、俺の向かいの席にまで職員がやってきて、他の奴にはしないはずの【説教】を垂れるようになった。初日に馬鹿みたいな説明しかしなかった、あの女だ。
「あの部屋にさえ居られない子は、うちには置いとけないの!」
あまりにも馬鹿馬鹿しい着眼点と語り口に、呆れて ものが言えない。
「物を、蹴らない!壊さない!……分かる?倉本くん!」
女は、机を叩きながら力説する。
 だが、少なくとも、俺が物を壊したことは無い。……廃棄することが判っているダンボールか発泡スチロールの箱以外は。
「貴方が ここに居たら、みんなに【迷惑】なの!!」
あまりにも酷い口上に、むしろ笑いが起きそうだった。
「…………だったら、下の階に下ろせば良いんじゃないですか?」
玄さんが、俺の念願でもある最良の対策を提案してくれた。
 しかし、女は聞き入れなかった。
「駄目なの、玄ちゃん!この子……たぶん、浅野くん以上に駄目!集中力が無いの!すぐキレちゃう!」
人を指さして笑う姿に、かつての「お局様」を思い出し、俺は【殺意】すら覚えた。
 しかし、玄さんが見事に反撃してくれた。
「今のそれは、明らかな【侮辱】なので……社長に報告します。貴女を、クビにしてもらいます」
「何言ってるの!?そんなんでクビになんか、ならないわ!私は『正社員』よ?」
女は、わざとらしく両肩を すくめてみせる。
 玄さんは、まっすぐに姿勢を正す。
「だったら……僕がこの会社を、潰します」
物々しい話に利用者達は静まり返るが、女は笑い転げている。
「玄ちゃん……貴方、筋肉量だけは素晴らしいけど、口の利き方が、なってないわ!」
「……貴女に言われたくはありません」
玄さんの冷静さが、心地良い。
 ふいに食堂の内線が鳴り、女が席を立って応対する。その後、そのまま部屋から出ていった。

 玄さんが、食事を再開しながら言った。
「……放っておけばいいよ。あのオバさん、馬鹿だから」
俺も、そう思う。
「馬鹿のくせに、利用者さんをみんな見下して……『自分のほうが、頭が良い!』って、思い込んでるんだ。……救いようが無いんだ。あいつが嫌で辞めた人、たくさん居るから……いずれ、本当にクビになるよ。『代わり』さえ、見つかれば……」
その『代わり』を見つけるのが、何よりも難しいのだということを……俺は、以前 彼から聴いた。
 それまでの【辛抱】か?


 家に帰ってシャワーを浴びてから、リビングでテレビを観ていた。母は、台所に居る。
 俺は夕方のローカルニュースを観ながら、昼間に聴いた、まるでコントの台詞のような「言いがかり」を思い出していた。
(“貴方が ここに居たら、みんなに【迷惑】なの!!“)
幻聴として、定着してしまいそうだ。やけに鮮烈だ。
 しかし、守ってくれた玄さんは……かっこよかった。

 テレビに、どこかの「地鶏」の生産農家が映る。茶色い鶏が、おそらく数百羽、鶏舎の中で、金属製のケージに押し込められるのではなく、砂地の上で放し飼いにされている。全て、雌だ。自由に歩き回り、餌や水、地面を突ついている。巣箱や止まり木も、ちゃんとある。悪くない飼育環境だ。
 やがて、農場の主が、カメラの前で こだわりの飼料を紹介する場面に切り替わる。
(“うわぁ……!良いもの喰ってるね!”)
頭の中で、課長の声がする。
(“これは、美味いとりになるよ!良いなぁ……”)
 彼が笑っている声を久しぶりに聴けて、涙が溢れてしまった。

 逢いたくて、逢いたくて、堪らなくなって……涙が止まらない。
 地鶏の話が終わっても、頭の中は課長への「報告」で、いっぱいだ。
 自分が今、何に悩んでいるか……今日、勤務先で何を言われたか……俺は、心の中で、一方的に語りかける。
(あ、貴方を……あそこに呼び寄せたい……!!貴方こそ『就労支援』の現場に、相応しい……!!)
母に聞かれるわけにはいかないから、何も言えない。ただひたすら、念じる。
(俺、課長に逢いたい……!!)
叫びたいくらいだ。


 調理が終わって台所から出てきた母が、それに気付いた。躊躇わず俺の隣に座って「どうした?」「大丈夫?」と訊きながら、背中に触れる。
「仕事で、何かあった?」
(違う……違うんだ……)
正直に答えるわけにもいかず、だからといって他の言葉も出てこない。
 袖で涙を拭いながら、犬か何かのような唸り声しか出せずにいると、母は、優しく背中をさすってくれた。
「疲れたんかねぇ……」
「ううぅ……」
「よく頑張ってるもんねぇ……」
 俺の身体が壊れてから、母は、いつにも増して優しくなった。俺の体調のことも、記憶のことも、決して非難しない。
 父が俺に つらく当たるからこそ、母は意識的に庇い、支えてくれるのかもしれない。
「明日は、お休みしたほうがいいかもね」
 箱のままティッシュを渡され、ありがたく使わせてもらう。

 その後、俺が落ち着くまで、母は隣に居てくれた。
「ほらほら。父さんにそんな顔見られたら、また、うるさく言われるよ?」
確かに、そうだ。
「ごはん、普通に食べる?」
「…………食べる」
「よしよし。顔、洗っといで」
勇気づけるように、肩を叩いてくれた。
 俺は、ティッシュの箱を持ったまま立ち上がり、洗面所に向かった。

 冷たい水で、入念に顔を洗う。目鼻をよく冷やす。
 父に笑われないよう、何度も鏡を見て、顔の状態を確かめる。
「……よし」
鼻が通り、顔の赤みが引いたら、食卓に向かう。目が赤いくらいは、良い。「小説を読んで、感動した」とでも、言えばいい。


 今は確かに「辛い」が、過去の記憶ではなく【今】の居場所について悩んでいるなら……【進歩】だ。上出来だ。
 もう少しだけ……頑張ってみよう。

 彼の声が聴けるなら……俺は頑張れる。


次のエピソード
【11.見切り】
https://note.com/mokkei4486/n/n8eb4ca0b5170

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